宇野ゆうかの備忘録

ちょっとした作品発表的な場所。/はてなダイアリー→d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/

「ありのままの自分」に近い形で恋愛できた私~そこそこ長い喪女時代を経て~

ta-nishi.hatenablog.com

togetter.com

 

上のブログ記事を読んで、「はてな非モテ論壇懐かしい」という気持ちになった。そして、あれから10年以上経って、私はわりと「ありのままの自分」に近い形で恋愛できたなと思った。

Ta-nishi氏と私が大きく違う点は、私はさほどモテや恋愛に執着していなかったことだろう。自分に合う相手と出会えて恋愛できればいいけれど、そうでなければ一生処女でもいいやと思っていた。当然、特にモテる努力をしないので、いわゆる「喪女」だった。そんなわけなので、初めて付き合ったり性行為をしたりという体験は、けっこう遅かった。

私にとっては、自分が誰かと付き合えないことよりも、いい年した大人が恋愛未経験なのをおかしく思う社会のほうが問題で、息苦しさを感じていた。私が非モテ関係の話に興味を持っていたのもそういう理由だ。当時は今より恋愛未経験者に対する風当たりがきつかった。(※ただし、「つづ井さん」の作者さんがストレスで円形脱毛症になったことを思うと、こういう風潮はまだまだ根強いのだろう。→/「裸一貫!つづ井さん」についてちょっと真面目に話させてくんちぇ〜|つづ井|note

あれから何年か経ち、思いがけず付き合うことになった男性は、面白いことに、モテや恋愛に執着しない人だった。似た者同士気が合ったのだろう。

 

私が「ありのままの自分」で付き合えた理由の一つは、自分に合う相手が見つかるまで待てる人だったからなんだろうな、と思った。

もし私が待てない人で、とにかく付き合う相手が欲しいのなら、モテ服を着て、出会い目的の場所に出て行って、合コンさしすせそを駆使するなどして、自分を「モテ界隈」の空気に合うように演出したほうが、そりゃあ手っ取り早いだろう。

しかし、私は、無理やり演じた自分に寄って来る人と付き合うのは、疲れるだけでメリットが感じられなかったので、「ありのままの自分」でいて、運が良ければ、誰か気の合う相手が見つかるかもしれないし、見つからなければ、まぁそれはそれでいいやと思っていた。

私は「モテ」に興味はないが、「マッチング」には多少興味があった。

 

非モテからの脱却に成功した私だったが、私の中には違和感が残った。「脱オタ」を達成するために私は興味も無いファッションや流行の遊びを勉強して大金をつぎ込み、夜の盛り場に繰り出しては女性に声をかけ、明るく陽気に振舞い女性たちを楽しませた。いかにも自分が「リア充」であり魅力的な男性であるかのように本来の「非モテ」な自分を偽り、女性たちを「騙した」のだ。

このことは私に罪悪感を抱かせた。女性に対する自らの欲望を満たすために「悪」に染まってしまったと思った。しかしこの「悪」は事実、女性たちに有効に機能した。疑問が生じた。このような「悪」が正しいとされる現代社会の「恋愛規範」は、間違っているのではないだろうか?そしてその「悪」に簡単に騙されてしまう、むしろそれを自ら求めている女性たちとは、一体なんなのだろうか?”

 

弱者男性論者を見ていると、「社会適応という名の悪」に対してあまりにも潔癖すぎると強く感じてしまう - 自意識高い系男子

 

ここの、女性たちが「騙されてしまう」というところが、私にはよくわからない。「そりゃ、そういう場所に行ってそういうキャラを演じれは、そのキャラを求める人が寄ってくるのは、当たり前だよね」と思うのだ。逆に、そういうキャラを求めていない人からは、「そういうキャラ」だと判断されて、興味を持たれなくなるだろう。

そういうのに「騙されてしまう」のは、男も女も一緒だ。なぜ「騙されてしまう」のかというと、特に男あるいは女が愚かだったり悪だったりするわけではなく、単に、人間にはテレパシー能力がないからだ。

自分は「ありのままの自分」とは違うキャラを演じているのに、それを見抜いて、「ありのままの自分」を見つけてくれる人が現れることは、まぁ、まずないと思っていたほうが良いのだろう。それは、人間に対する期待値が高すぎる。

 

この「人間にはテレパシー能力がない」についてだが、私はどちらかというと内面重視派で、容姿の許容範囲が広めで、ついでに言うと、夜の盛り場でウェイウェイやってる陽キャリア充タイプには、あまり興味がなのだけれど、内面重視の人間だって、テレパシー能力はない。

そのことは、ここで詳しく書いた。

yuhka-uno.hatenablog.com

仮にもし誰かが、私の好みの男性像を調べ上げて、その通りの人物を演じてきたとして、私は騙されないのかというと、そこまでの自信はない。私は、そこまで自分の賢さや人を見る目に自信を持っているわけではない。

よく「自分は騙されないと思っている人ほど騙される」というが、これもある種のダニング・クルーガー効果なのかもしれない。能力の低い人ほど自信満々というやつだ。

 

”こうして人はまたひとつ「社会性」を身に付け「堕落」していく。かつて尾崎豊はその楽曲の中で「大人は汚い」と叫んだがこれは圧倒的な真実だ。人間は生きれば生きるほどに、大人になればなるほどに、社会性という名の汚泥にまみれていく。”

 

弱者男性論者を見ていると、「社会適応という名の悪」に対してあまりにも潔癖すぎると強く感じてしまう - 自意識高い系男子

子供の頃は「ありのままの自分」でいられるが、大人になって社会性を身につけるにつれ、「ありのままの自分」ではなくなっていく……というのはよく聞く話だが、親がいわゆる「毒親」だと、その限りではない。

毒親の元で子供時代を送ると、親のご機嫌を取らなければならなかったり、親の理想の子供像を押し付けられたりと、「ありのままの自分」ではない、偽の自分で生きなければならなくなる。

私などはそうで、そういう親の元で育って、破綻してひきこもりになり、何年もかけてカウンセリングに通って、「ありのままの自分」を取り戻す作業をした。それは、私にとっては成長そのものだった。

私は、興味や進路などを親に介入されてきたので、「恋愛や結婚だけは、親や世間の基準じゃなく、自分の思うようにするぞ!」と思っていた。その結果として、長らく恋愛未経験者時代を過ごしたことは、満足している。

 

これも毒親関連なのだけど、私が「重い女」ではなかったことも、「ありのままの自分」で恋愛できた要素かもしれない。

最近では「理解ある彼氏くん/彼女ちゃん」の話題が人気だけれど、私は、親にとっての「理解ある娘ちゃん」をやらされていた。

親は、子供の私に愚痴を垂れ流すのではなく、カウンセリングに行くべきだった。そう思ったので、私は親を反面教師にしてカウンセリングに行った。親から精神的に依存されることで、私の心は親から離れてしまったので、もし私が誰かに同じことをすれば、その誰かは私から離れていくだろうと思ったのだ。

「自立とは、依存先を増やすこと」と言うが、メンタルがしんどい人は、パートナーだけに依存しないよう、カウンセリングにかかるなどして、依存先を確保しておいたほうが良いと思う。

 たぶんだけど、「ありのままの自分」を自分で愛することができないので、誰か一人の人にそれを全面的にしてくれろと求めたりすると、あんまり上手くいかないと思う。

 

なお、女性に「理解ある彼氏くん」ができるのは「穴モテ」と言われるが、単なる穴で「”理解ある”彼氏くん」はできないと思う。

単なる穴では、せいぜい、良くて対等なセフレ、大抵は穴を利用されるだけのカモだろう。

“あのね、いないから。

「自信のない女はカモられるけどモテない」から。”

 

 “じゃー「モテる」と「カモられる」の違いってなんなのよってことですが、端的にいえば「モテる」とは「相手をきちんと考えられる思いやりのある人に好かれる」ってことです。「カモられる」というのは「相手の欲望が中心で、こちらの痛みや思いなどは軽視する人に好かれる」ということ。”

 

“ぶっちゃけ、顔やスタイル、服装やらモテテクニックやら趣味なんて、どーでもいいんですよ。モテるかどうかってもう「自分のことを認めている、自分の望みをはっきり理解している=セルフコンフィデンスがあるかどうか」の一点勝負。”

 

なぜ『姉の結婚』『今日は会社休みます』は駄目ファンタジーなのか - 妖怪男ウォッチ

 

他の理由として、これは実際影響したのかわからないのだけど、私がファッションに興味のある人間だったというのも、もしかしたらあるかもしれない。もっとも、私が求めていたファッションは、モテファッションではなく、自分に似合う恰好なのだけれど。

その辺りのことは、ここで詳しく書いた。

yuhka-uno.hatenablog.com

リンク先にも書いてあるが、おしゃれに取り組んだことによって、単に見た目が良くなったというよりは、「モブキャラでいるのをやめて、主役になる覚悟ができた」ことが大きかったのではないかと思う。

 

ちなみに、私は、ファッションの歴史や、人はなぜ衣服に装飾性を求めるのかについて考えるのも好きだ。さっきも、5000年前のエジプトで作られた世界最古の織物のドレス「タルカン・ドレス」について調べていた。

 

男性で、おしゃれに対して拒否感がある場合、身なりに気を遣うことそのものがめんどくさいタイプと、「おしゃれ=チャラチャラする」「外見ばかり気にするなんて軽薄だ」と思い込んでしまっているタイプとがいる気がする。後者の場合は、単に知識がなくてファッション観が狭いだけなので、例えば、「着物を渋く着こなす」という方向性のおしゃれなどは、嫌いじゃなかったりすると思う。

 

「おしゃれ=チャラチャラ」「外見ばかり気にする~」というのは、18歳までに大人から植え付けられた偏見のコレクションだろう。この偏見を吹き込まれると、「おしゃれしようとすると、チャラチャラしてしまう」という呪いにかかってしまう。*1

私が思う「おしゃれになる」とは、広く言えば「装うのが上手くなること」だ。例えば、初めて着物を自分で着つけてみた人は、大抵上手く着れないのだけれど、そこから着物の着付けやTPOを学んで、徐々に着姿が様になっていくような、そういうのがおしゃれの基本だと思う。ここに「自分らしさ」が加われば、それはもう十分におしゃれだ。

 

ちなみに、おしゃれはかなり「自分らしさ」と密接な関係があるものだと思う。その辺りのことはここで書いた。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

ただ、これは必ずしも男性が彼女を作る上で必須なのかというと、どうもよくわからない。実際、私が付き合った男性は、お世辞にもファッションリテラシーが高いとは言えなかったから。

 

私が「ありのままの自分」で付き合えた理由として、私の場合、自分にはある種の魅力があると思っていたのがあると思う。

これは決して「モテる」ということではなく、割れ鍋に綴じ蓋的な話で、世の中には私みたいなタイプが好きな男性がいるかもしれないと思っていた。私は、男性異性愛者の多様性を信じたのだな。

ローランドというホストが女性に人気だからといって、全ての女性がああいう男性と付き合いたいと思っているわけではないし、夜の盛り場でウェイウェイすることに興味がない女もいる。男性だってそうだろう。

 

まぁでも、学生時代くらいの若い頃なら、こういう感じで過ごしていると、彼氏はできなかったかもしれないな、と思った。

学生時代は、どうしても同じような年代の人ばかりで集まってしまうし、まだ人生経験がそんなにないから、自分というものが定まっておらず、従って「自分はどういう人となら合うのか、どういう人と合わないのか」が、みんなまだよくわかっていない。となると、「みんなの意見」に左右されやすく、好きになる相手も「みんなが良いと言ってる人」に集中する傾向はありそうだ。

大人社会なら「色んなカップルいるしね」で済ませられることでも、学生時代だと、自分はとても好きなのに、みんなに「えー⁉そんな人好きなの?」と言われそうだから、言い出せないとかね。

となると、私が十分大人と呼べる年齢になってから付き合う相手ができたのは、ある意味当然だったのだろうか。

 

”私もかつては「女子アナみたいなキャラになるべきか?」と血迷った時期がありました。が、そんなの8回ぐらい転生しないと無理だと悟った。人は自分以外の人間にはなれないし、自分以外の人間になろうとするとメンタルがやばくなる。”

 

”「恋愛は選挙じゃない、モテとマッチングは別物なのだ」”

 

”そのために必要なのは「みずから選ぶ」という姿勢。”

 

“「どういう男を選ぶべきか?」を突きつめると「自分にとっての幸せは何か?」というテーマに行きつきます。”

 

――『オクテ女子のための恋愛基礎講座 (著:アルテイシア)』――

 

まぁ、なんというか、夜の盛り場でウェイウェイやってる人だけが恋愛してるわけじゃないし、世の中、地味に出会って地味に恋愛してる人も沢山いるってことで。

あと、書いてて思ったけど、私は一貫して(おしゃれに取り組むことも含めて)メンタルを鍛える方向で来たんだな、と思った。我慢して負荷に耐える方向にじゃなくて、「ありのままの自分」を取り戻し、維持するという方向で。