宇野ゆうかの備忘録

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なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか・後編 ~学校の服装指導から考える

前回記事『なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか・前編~着物との比較から考える』においては、(特に男性が)ファッションに取り組もうとして失敗し挫折する要因として、現代日本における着物と洋服、それぞれの衣服をとりまく現状から考えた。

私はもう一つの理由として、学校における服装指導の影響があると思っている。

 

前回記事の引用文に「いやぁ、男は毎日スーツを着ているうちは、どうでもいいやって思っちゃうんですよ。」とあるが、多くの男性がそう思ってしまう理由として、スーツを、中高生時代の学生服の延長だと認識してしまっているというのがあるのではないだろうか。

 

“最近、娘の学校説明会などでスーツを着る機会が多い。僕は企画業という仕事柄、Tシャツと短パンというラフな格好が多く、スーツは慣れていない。むしろスーツを着ることに対して抵抗感すらある。

そんなわけだから“スーツ着用”って書かれていても、なるべく手を抜こうとしてしまう癖がある。普段手ぶらだから鞄を持たなかったり、暑ければノーネクタイにシャツだったり。まぁそれでも我慢して着てる分だけ偉いと思ってた。

ただ、その様子に見かねた妻が、あんたなぁ…と呆れた顔して問うてきた。

「なんなん?そのスーツの着こなしは?」

いやいや、ちゃんと着てるやん。と答える俺

「あんたさ、スーツはなんのために着ると思う?」

えっ、、場の風紀を乱さないためでしょ。”

個性と惰性を履き違えるな。|高木新平|note

引用元の内容は、「型があるのが『型破り』、型がないのが『型なし』」という、巷でよく言われていることそのものだろう。

私は、この文の「風紀」という言葉から、学校的なものを連想してしまった。スーツを着る理由を「場の風紀を乱さないため」と思うのは、もしかしたら、校則で縛られていた学生服時代の延長でスーツを捉えているからではないだろうか。

 

学校における服装指導と、社会一般のドレスコードやスーツの着方は、違うものだ。思い出してみても、制服を着ていた頃の学校生活の中で、結婚式や葬式に何を着ていくかや、「スーツを着る時は、座った時でもスネ毛が見えない長さの靴下をはくように」といったスーツの着方について、教わった記憶はない。

……つまり、学校は熱心に服の着方を指導するが、社会一般で通用する服装のルールについて教えているわけではないのだ。学生時代に真面目に校則を守っていた人のスーツの着方がおかしいというのは、よくあることである。

しかしながら、服装を指導する教員は、指導する理由を「学校は社会に出るための場。そのための生活指導」などと言ったりするので、学校の校則というローカルルールと、社会一般に通用する服装のルールを、混同してしまうのだろう。そもそも、指導する教員自身も混同していることが多いのではないだろうか。

 

多くの学校では、生徒のおしゃれ――外見的自己表現に対して、あまり良い顔をしない。なので、学生服を着ている期間においては、「きちんとした学生服=おしゃれじゃない」「校則違反の学生服=おしゃれ」みたいな図式ができあがる。

その結果、個性を出したいタイプの人にとっては、学生服の延長として認識してしまっているスーツを、「おしゃれじゃない」と思い、逆に、勉強ができる優等生だったことがアイデンティティになっている人や、おしゃれに対して苦手意識がある人は、「おしゃれ=校則違反するような連中がするもの=チャラ男&キラキラ女子=バカ=自分はあんな連中とは違う!」という、鬱屈した偏見を育ててしまうケースも多いのではないだろうか。

 

しかし、実際には、スーツをおしゃれに格好良く着こなすには、スーツに対するリテラシーが必要だ。この部分は、前回記事で述べた着物の着こなしに対するリテラシーと似ている。多くの人は、着ている人が同一人物であっても、スマートに着こなしたスーツとそうでないスーツを並べられれば、どちらがスマートかの見分けはつく。しかし、どこがどう違うのか、何をどうすればスマートに着こなせるのかは、知識が必要になってくる。

これらは、学校で言われた「髪を染めるな」とか「ピアスを開けるな」などといったこととは、全く別のことだ。着物をきれいに着付けられるかどうかが、それらのこととは全く別のことであるように。

 

前回記事で、「『フォーマルな着物はわかるけど、浴衣や着流しはわからない』という人は、あまりいないだろう。」と書いたが、私は、スーツの着方がわかれば、おのずとカジュアルもわかるものだと思う。

なぜなら、スーツの着方がわかるということは、沢山種類があるジャケット、パンツ、シャツ、靴、靴下、ベルト、ネクタイなどのアイテムのうち、どれがフォーマル用でどれがカジュアル用かがわかるということだからだ。そして、洋服の中ではスーツのサイジングが最も厳密なので、自分に合ったサイズ感やシルエットがわかるということだからだ。

 

洋服は、なまじ、子供の頃から当たり前に着ていた衣服なだけに、基礎から洋服の着方について解説する本が少なかったし、自分がどこから洋服のことを知らないのかも知らないし、当たり前だと思っていることを問い直してみたり、一から調べてみるという発想ができにくいのかもしれない。

あまりにも身近で当たり前にあるものなので、意識することは少ないが、スーツだって、着物と同じように、西洋の衣服の歴史と文化の上に成り立っているものなのだ。

 

一方、スーツの着方云々とは別に、日本のクールビスに限らず、海外でも服装はカジュアル化していっているが、こういったカジュアル化の波は、時代の流れとして自然なものだと思う。

20世紀初頭の貴族の邸宅の人間模様を描いた英国のドラマ『ダウントン・アビー』では、グランサム伯爵がタキシードを着ながら「こんなカジュアルな服を着る時代になってしまった」とぼやくシーンが出てきたが、100年程経った現在、再びカジュアル化の大きな転換期が着ているのだと思うと、ちょっと面白い。

あと何十年か経ったら、スーツはそれこそ冠婚葬祭の時にしか着なくなるかもしれない。その時には、今時の若い子に「私が若い頃は、スーツを着て仕事をするのが当たり前だったんだよ」なんて言ったりしているのだろう。

 

余談だが、“スーツ着用”と書かれているということは、「スーツまたはスーツと同格の民族衣装」として考えて良いだろう。グローバルなドレスコードは大抵そうなっている。ここでもし「民族衣装はダメ」と言ったら、民族差別になってしまうからだ。なので、スーツが嫌ならスーツと同格の着物姿で行くという手もあるだろう。

ま、場合によっては、「そもそも、ここって本当にスーツ着ていく必要あるの?」ってケースもあるだろうけど。*1

 

まぁ色々言ったけど、「なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか」については、結局、女性より外見に気を使う文化がないからっていうのが、一番の理由だと思うけどね!(ミもフタもない)

実はこれもけっこう大きな原因で、女性の場合だど、ギャルでもキラキラ女子でもない人が普通におしゃれだったりするけど、男性の場合、女性よりおしゃれする人の絶対数が少ないから、身近にロールモデルが見当たらないというのもありそうだな、と思う。

なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか・前編 ~着物との比較から考える

前回記事『ダサい服はなぜダサいのか。また、人はなぜ「ダサい」に過剰反応してしまうのか。』を書く上で、着物と洋服の違いについて考えていたところ、(特に男性が)ファッションに取り組もうとして失敗し挫折する要因の一つが見えてきた気がするので、書き留めておこうと思う。

 

前回記事では、着物と洋服のおしゃれの基準の違いとして、着物は服の形は同じようなもので、色と柄でバリエーションを出す文化があるのに対し、洋服は服の形のバリエーションが多く、着た時のシルエットを重視するということを書いた。

 

ここまで散々「洋服はシルエット」と言っておいてなんだけど、私は、実は、着物もまずシルエットが大事な衣服なんじゃないかと思う。いくら長着や帯や半衿等がおしゃれな組み合わせであっても、着付けがイケてなかったら、決してサマにならないからだ。

日本で育って、着物を見慣れている人にとっては、着物を見慣れていない外国人が自分で着てみた姿は、なんとなくおかしく感じる。しかし、着物を見慣れていない人にとっては、着付けの違いはよくわからないかもしれない。

つまり、着物を見慣れている人は、その外国人の着付けが変だと思う程度には、着物のファッションリテラシーがあるということだ。

 

着物は、「着付ける」ということによって、着る人が自分でシルエットを作る服で、洋服は、(ネクタイを結んだり、裾を入れたり入れなかったり、自分でシルエットを作る部分もあるけれど、)大部分は、服を選んで買う時点で、シルエットを作る服なのだと、私は考えている。

今でこそ、既製品の中から自分に合うサイズのものを選び取るのが、普通の洋服の買い方だけど、昔は、身体の寸法を測って、その人の身体のサイズに合わせて仕立てるのが、一般的な洋服の作り方だったのだから。

 

思うに、苦手な人が取り掛かっておしゃれになるには、実は着物より洋服のほうが難しいのではないだろうか。

着物は、既に日常的に着る人が減って久しく、着たいが着方がわからないという人が多い。そのため、いちから着物の着方を解説した本の需要があり、そういう本は沢山出ている。「着物が着たい」と思った人は、まず一般書籍コーナーに行って、着物の着方についての本を探すところから始めるだろう。着物のファッション誌ではなく。*1

そして、本を読んでもわからなければ、誰かに教わろうとするだろう。巷には着物教室もあるのだし。

 

一方、おしゃれが苦手な人が、洋服のおしゃれをしようとすると、大抵、まずファッション誌を読むことから初めてしまう。「おしゃれといえばファッション誌」と思い込んでいるため、一般書籍コーナーに行こうという発想ができない。そもそも、一般書籍のファッション解説本の存在自体知らない。

そして、独学で頑張ろうとしてしまう。(ファッション好きな友達がいれば、その人に聞くかもしれないが、こういう人の周りには、ファッショナブルな人がいないことが多い。)ファッションアドバイスのプロに頼もうという発想がない。そもそもそういう人の存在自体を知らないから。

 

つまり、着物に取り組もうとする人は、「着物の基本的なことを解説した本を読み、人に聞く」という工程を踏む人が多いのに対し、洋服のおしゃれをしようとする人は、「服の流行を紹介するファッション誌を読み、独学でやろうとする」という工程を踏む人が多いのだと思う。どちらが上手くいきそうかは、明らかだろう。

 

これは、着物の場合、服の着方についての基本的な本が存在しているということと、初心者に着付けを教える仕事をしている人の存在が、広く世間に知られているからだろう。その分、着物ファッション誌の存在はあまり知られていない。

一方、洋服はというと、特にメンズファッションについては、今でこそMB氏をはじめ様々な本が出ているが、2000年代以前は、特にカジュアル方面はほとんどないも同然だったし、*2「パーソナルスタイリスト」や「イメージコンサルタント」といった、洋服のファッションアドバイスをするプロの存在も、ファッション感度が高い人は知っているが、低い人は知らない状態だと思う。そして、ファッション誌の存在感がありすぎる。

つまり、洋服のおしゃれがしたい人にとっては、着物に比べて、上達しやすい手順が踏みにくい状態なのだ。

 

これは、普段、みんなが日常的に着ている衣服だからこそ、起こることなのかもしれない。誰もが着物を着ていた時代、わざわざ着物の着方から解説した本はなかったのではないだろうか。一方、戦前の日本では、洋服の着方に関する本は需要があったようだ。

実のところ、私たちは、普段、日常的に洋服を着てはいるが、案外、洋服のことをよく知らないのだと思う。日本人が洋服を着始めたのは、明治時代からだったが、一般庶民に至るまで、誰もが洋服を着るようになったのは、まだ数十年のことだ。

 

“――月曜から金曜までスーツを着ている男性の中には、何十年もスーツ以外の服を全然買ってこなかったという人も多い。おじさんが土日に着る私服がひどいという話はよく聞きます。

MB:男性は結構危機感を持っていますよ。僕がやっているファッション指南のメルマガ読者は、当初から上の年代を狙っていたんですが、蓋を開けてみると思った以上に多かった。65歳で定年を迎えて、スーツを脱いだ瞬間に何着ていいかわかんなくなるんですよ。

米澤:65歳か。もうちょっと早く気付けなかったんですかね。

MB:いやあ、男は毎日スーツを着ているうちは、どうでもいいやって思っちゃうんですよ。だけど、いざ定年して第二の人生となった時、自分の服装ってこれでいいのかな?って思うけど、そんなにお金もかけられない。だからユニクロでかっこよくなる方法を教えてくださいって、僕のところに駆け込み寺のようにやってくるんです。”

 

“MB:カジュアルにしなきゃいけないのに、どうやってカジュアルにしていいか、わからないという男性は多いです。結局、男はファッションに対するリテラシーが培われていないんですよ。女の子はお母さんから服の良し悪しや着方を教えてもらうけど、我々男は父親から教えてもらったことがない。だからリテラシーが存在しない。”

 

インスタとユニクロで日本人の「おしゃれ」が変わった(米澤 泉,MB) | 現代ビジネス | 講談社(1/7) 

これは、みんなが洋服を着るようになってまだ数十年だから、起こっている現象なのかもしれない。もし誰もが着物を着ていた時代だったら、隠居した途端、「羽織袴を脱いだら何着ていいかわからなくなった」と言ってアドバイスを求める男性はいただろうか? (落語になりそうな話だな……)

「浴衣は着れるけど、フォーマルな着物はわからない」という人はよくいるが、「フォーマルな着物はわかるけど、浴衣や着流しはわからない」という人は、あまりいないだろう。

 

クールビズが啓発され出した頃、いつものスーツのネクタイを外しただけの姿になってしまう年配男性が多かったが、上下揃いのスーツスタイルはネクタイありきのものなので、ネクタイを外したスタイルにする場合は、ジャケットやパンツ等もカジュアル用のものにしないとおかしい。

着物にも、長着や帯、半衿や履物等の格の違いで、合う組み合わせ合わない組み合わせというのはある。多くの人は、着物に取り組もうとする場合、着付け方と共に、まずここから知ろうとするだろう。本来であれば、洋服についても、まず知るべきことは、洋服のそれぞれのアイテムの格を知り、合う組み合わせ合わない組み合わせと、どのシーンでどういう格好をして行くのが相応しいのかということだと思う。

 

上記引用部分に、「我々男は父親から(服の着方を)教えてもらったことがない」という話が出てくるが、父親世代は、洋服において、合う組み合わせ合わない組み合わせという段階からして、リテラシーがない人が多いということなのだろう。これでは確かに、息子に服の着方を教えようがない。

これがもし、着物が日常的に着られていた時代だったらどうだっただろう。上の世代の男性は、「男が見た目にこだわるなんて女々しい」と言われて育った人が多いが、こういった着物の組み合わせについては、おしゃれ以前の問題として、常識的なことだったのではないだろうか。

洋服において、ここの段階を知らないまま、「男が見た目にこだわるなんて……」を適用してしまうと、「カジュアルがわからない」「スーツを脱いだ瞬間に何着ていいかわかんなくなる」ということになるのかもしれない。

これについては、戦中戦後の混乱の中で、一旦、明治時代から取り入れつつあった洋装の文化資本が途絶えた部分もあったのではないだろうか。

 

さて、今回は、男性がファッションに挑戦して失敗する理由として、着物との比較から考えた。もう一つの理由として、学校における服装指導にも要因があるのではないかと思うのだが、長くなったので後編に書くことにする。

 

 

なお、このエントリは、数年前に読んだこちらの記事が頭にあって書いた。

blog.gururimichi.com

blog.gururimichi.com

 

 

戦前の洋装を現代に着ている人たち。

togetter.com

 

 

30代からでも身につく メンズファッションの方程式

30代からでも身につく メンズファッションの方程式

  • 発売日: 2018/04/02
  • メディア: 単行本
 

*1:KIMONO姫」などの着物ファッション誌を見たことがきっかけで、着物の世界に足を踏み入れる人もいるだろうけど。

*2:脱オタクファッションガイド」くらいだろうか。

ダサい服はなぜダサいのか。また、人はなぜ「ダサい」に過剰反応してしまうのか。

togetter.com

 

Twitter界隈で話題になった、買う人を不幸にするという「ダサい服」。私はこれを見て、下の記事を思い出した。

 

sirabee.com

 

この記事によると、おしゃれな人のほとんどは、いきなりおしゃれになるのではなく、徐々にこのような段階を踏んでおしゃれになるのだと言う。

 

  1. ちょっと変わったものが気になる期
  2. キテレツ期
  3. ブランド期(トレンド期)
  4. ユニクロ
  5. ミニマル期

 

このうち、元Tweetでダサい例として挙げられているボトムは「ちょっと変わったものが気になる期」、全面に英字プリントがあるTシャツなどは「キテレツ期」の人が選びがちなアイテムと見なすことができそうだ。

要するに、「おしゃれ初心者が選びがちな服」ということなのだろう。

 

では、なぜこれらの服は、「ダサい」と見なされるのか。あるいは、なぜ初心者は、こういう服を選んでしまいがちなのか。

それには、まず、「洋服におけるおしゃれのキモは何か」について考える必要がある。

 

端的に言うと、洋服におけるおしゃれのキモは、シルエットである。つまり、着た時に、頭から足の先まで、全体がきれいな形になると、「かっこい」「素敵」ということなのだ。

着物と比べてみるとわかりやすいかもしれない。着物は平面裁断で、服の形自体はどれも似たようなものだが、色や柄に豊富なバリエーションがあり、その組み合わせで違いを出す。また、素材の違いも重要な要素だ。

一方、洋服は立体裁断で、服の形に豊富なバリエーションがある。襟の形、袖の形だけでも、何種類もある。もちろん、洋服のおしゃれにおいても、色・柄・素材の要素はあるが、洋服において「おしゃれが上達する」とは、ほぼほぼ「シルエットを見る目が養われる」ことだと言っていいだろう。*1

かつて、西洋の婦人は、コルセットでウエストを締め上げ、クリノリンやバッスルでスカートを膨らませていたが、あれは洋服がシルエットで魅せる文化だからだ。

 

ファッションは学校では習わない。なので、多くの人は独学になってしまう。「ここを練習すればいい」ということすらわからない状態だ。だから、初心者のうちは、「まだシルエットを見る目が養われていない」どころか、「まだシルエットが大事なのだと気付いていない」状態からスタートすることになる。

シルエットが大事だと気付いていない段階では、裾の折り返しがチェック柄になっているとか、全面に英字プリントがついているとか、わかりやすい要素に惹かれてしまいがちだ。今までただ無頓着に着ていた服との違いを出そうとした時に、シルエットの違いではなく、わかりやすくて目立つ柄などで、違いを出そうとしてしまうのだろう。

 

下記リンク先の記事の、2種類のシャツを提示して「どちらがおしゃれに見えますか?」という問いは、まさにそういうことを言っていると思う。

cakes.mu

 

つまり、冒頭のTweetに挙げられているような服がなぜダサいのかというと、単純に柄が微妙というだけでなく、それ以前にシルエットが微妙という理由もあるのではないだろうか。

 

よく言われる「おしゃれな人ほどシンプルな服を着る」というのは、シルエットで表現することができるようになるからだろう。もちろん、派手な柄物をおしゃれに着こなす人も沢山いるが、その場合も、シルエットを綺麗に見せている人が多い。最近人気の「骨格診断」も、シルエットを綺麗に見せるための方法論と言える。

以前、音楽家の人と話した時に、「リズムキープができないとプロのドラマーにはなれない」という話になったが、それに似ているのかもしれない。初心者は、派手で目立つ演奏に惹かれがちだが、耳が肥えた人は、控えめだが確実に上手い演奏が聞き分けられるのだろう。

 

また、おしゃれが苦手な人たちを悩ませる「流行」だが、これもシルエットの要素が大きい。洋服における流行の変化とは、大部分はシルエットの変化だ。80年代の肩パッドなどはわかりやすい例だと思う。昨今では、2010年代半ばまでは細身のシルエットが流行っていたが、2020年現在はビッグシルエットの時代である。

サコッシュ」などの、ある特定のアイテムが流行することはよくあるが、こういう流行は、別にそのアイテムを身に付けていなくても、ダサいとは見なされない。だが、既に流行が過ぎたシルエットの服を着ていると、それは野暮ったい感じがしてしまう。

ただし、何十年も昔のシルエットの服に関しては、「レトロ」「ヴィンテージ」「クラシック」の領域として、好ましいと見なされたりする。

 

現代、着物においては、あまり流行の変化は見られなくなっていると思う。(正確にはあるのだが、洋服よりはずっと変化が緩やかだ。)それは、着物が既にみんなが当たり前に着る衣服ではなくなったからだ。着物が日常着として着られていた時代、着物にも流行があった。

私は以前、チャイナドレス(旗袍)の歴史を少し調べてみたことがあったが、やはり、チャイナドレスが日常着として着られていた1950~60年代以前の時代には、チャイナドレスにも流行があったらしい。

ということは、洋服に流行があるのは、今現在、洋服が、人々の生活に密着した、当たり前に着られている衣服だからだろう。生きている文化だからこそ、変化があるというわけだ。

 

ちなみに、 冒頭のような「ダサい服」は、たぶん売れるんだろうな……と思っていたら、ファッション企画会社で働いていた方がそう書いていた。こういう服は、おしゃれ初心者に人気があるのだろう。どの分野でも、上級者より初心者のほうが多いしね。

www.yamadakoji.com

 

 

ところで、この話題については、ブコメも含めて気になった。人はなぜ、「ダサい」という話にここまで反応してしまうのか。他のジャンルだと、下手なことはそれほど問題にならないのに。

ネット上では、デザインやイラストレーションの技術的な話なんかはよくあるし、デザインリテラシーのない上司やクライアントの口出しに悩まされるデザイナーの話もよくある。しかし、ことファッションの話になると、途端に「イケメン無罪」みたいなことを言い出す人が出てくる。つまり、多くの人が、ファッションを正当に評価できないし、ファッションのことを、他のクリエイティブ分野のように「普通に」語れないのだ。

 

id:hakusai_chan はてブはウェブやプロダクトのデザインの話は受け入れられるのになぜか服のデザイン(ファッション)の話は忌避されるのである

id:jagaimojanaizo ことファッションの話となると「ダサい」にキレちゃう人多いのはなんでなんだろ。どんなプロダクトだろうとそれぞれにとっての美醜があるのは当然だろうに。

 

絵や音楽や料理や造型など、それぞれの好みがあり、これが正解というものがはっきりしない分野でも、上手い下手はある。そこについてはファッションも同じだ。

ただ、下手というのは事実であっても、下手は悪いことではない。人には得意不得意があって当たり前だ。もちろん、音楽を仕事にしようというのに音楽が下手だったら問題だが、私が音楽が下手だったとして、特に何も問題はない。ならば、なぜ「ダサい=おしゃれが下手」というのは、これほどまでに人の心をかき乱すのか。

 

理由の一つとして、おしゃれは、「下手」ということを隠しておけないというのがあるだろう。絵や音楽などは、自分でやらずに日常を過ごすことが可能だ。しかし、多くの人にとって、服を着て出歩くという行為は避けられない。ファッションが他の分野と違うのは、常に「下手さ」が他人の目に晒されることだろう。

現代に生きる私たちは、和歌をやらなくても日常生活に支障はないが、もし平安貴族に生まれていたら、和歌が下手というのは大きなコンプレックスになったかもしれない。

 

また、ファッションについては、多くの人が、ただ単に「知らない」「わからない」だけではない。幼少期から学生時代までに、親から、あるいは学校の先生から、「ファッション=見た目ばかり気にして、軽薄なもの」「おしゃれなんて下らない。そんなことより勉強しなさい」という刷り込みを受けて育った人は、沢山いる。私は、ファッションとゲームは、子供が夢中になると大人が不安がるもの2大趣味だと思う。

ファッションは、かなり偏見を持たれているジャンルだ。偏見とは、間違った知識である。つまり、多くの人は、ファッションについて考える時、まっさらな知識がない状態ではなく、間違った知識を持った状態からスタートしてしまうのだ。それが、ファッションを正当に評価できない原因の一つになっていると思う。

 

おしゃれに興味がない人にとっては、「何のためにするのかわからない」というのもあるだろう。自分がする意味だけでなく、そもそも、ファッション自体、何を目的にした行為なのかわからない。

何のためにするのかわからない。正解がわからない。学校でやり方を教わらないし、親も教えてくれない。(むしろ、親と学校から偏見を植え付けられている場合もある。)なのに、服を着て外に出て誰かに合うことは、普通の日常生活を送っていては避けられないし、多かれ少なかれ、それで評価される。勘のいい人は上手くなるが、そうでない人は、ずっとわけがわからないまま。ファッションを取り巻く環境は、こうなっているのではないだろうか。

 

実のところ、装いには「非言語コミュニケーション」の要素がある。結婚式や葬式に着て行く服に、社会的な取り決めがあるのもそうだ。結婚式にはドレスアップすることで、お祝いの気持ちを表し、葬式には喪服を着ていくことで、弔いの気持ちを表す。葬式にジーンズをはいて行くと失礼な気がするのは、装いがコミュニケーションだからだ。

また、装いには、誰かに自分をアピールするという側面がある。それは「モテ」だけに限らず、面接を受ける時にスーツを着ていくのだってそうだ。

 

つまり、ファッションが下手ということは、ある種のコミュニケーション下手ということなのだと思う。だからこそ、「ファッションがわからない」「ダサい」ということは、これほどまでにコンプレックスになるのではないだろうか。

再び平安貴族の例えを持ち出すと、現代では、和歌は愛好家の趣味という位置付けだが、平安貴族の間では、まさに和歌はコミュニケーションの一環であり、和歌が下手ということはコミュ下手ということだった。現代日本では、ファッションが下手ということは、ある面でのコミュ下手と見なされるのだろう。(もっとも、平安貴族の世界でも、ファッションは必須科目だったが。)

 

ちなみに、ファッションが何を目的にした行為なのかについては、私なりに思うところがあって、それはここで書いた。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

 

ところで、元Tweetで挙げられている「ダサい服」は、全て男性向けのものだけれど、もしこれを女性向けでやったら、どのようなアイテムが挙げられるだろうか。また、ブコメ等での反応はどうなるのだろうか。男性向けの場合と同じだろうか。違うのだろうか。ちょっと気になる。

 

 

そういえば、こんなのあったな(笑)

togetter.com

 

 

ファッションに関する過去記事。 

ファッションと企業ブランディングの共通点。「ファッションの目的とは何か」という話。

yuhka-uno.hatenablog.com

なぜ、かつて「ユニバレ」と言われるほどダサいイメージだったユニクロが支持されるようになったのかという話。

yuhka-uno.hatenablog.com

ネタ記事。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

 

*1:ファッション・アパレル用語索引|モダリーナのアパレル・ファッション図鑑 服の名称について調べられるサイト。洋服の形状がいかにバリエーションに富んでいるかということがわかる。

BBC出演中の「子供乱入」から考える、テレワーク時代のビジネスマナー

www.bbc.com

 

最早テレワークでありふれた光景になった「子供乱入」が、またもやBBCで起こったとのこと。これについて、BBCのキャスターと、自宅から出演する博士と、博士の娘のやり取りを考察している細馬宏通氏の連続Tweetが興味深かった。とりあえず、連続Tweetを全て読んでみてほしい。

 

 

子供は、まず部屋の中に絵を持ち込んで、どこに飾ろうかと考えている。そして、母親に「Excuse me」と言う。母親は子供の問いかけに答えず、しばらく画面に向かって仕事モードで話し続けるが、スタジオにいるキャスターから「娘さんのお名前は?」と尋ねられ、母親が「彼女はスカーレットです」と答る。(この時点で、一人で絵をどこに飾ろうか考えていた子供は、振り返って反応する。)キャスターから話しかけられた子供は、「この人のお名前は?」と母親に尋ねる。母親はそれに対して、人差し指を口に当てて「シーッ」と言い、静かにするよう促す。キャスターが「クリスチャンです」と答えると、子供は「クリスチャン、これをどこに置けばいいのか、お母さんに聞いてるの」と言う。

 

この子供の行動は、自分の家に大人のお客さんが来た時の行動として、ごく自然な振る舞い、というか、むしろ礼儀正しい子供の振る舞いだと思った。大人同士が話している最中に親に話しかけたくなった時には「Excuse me」と言っているし、自分の家に知らない人が来たとなれば、紹介を求めるのは当然と言えるだろう。

大人は、テレワークを会社の仕事の延長として考えているが、子供は、家に親のお客さんが来ていると考えているのかもしれない。

 

大人は、こういうシチュエーションで子供が乱入すれば、画面の向こうの相手に対して迷惑をかけたと考えてしまうものだ。件のBBCの博士も、子供が乱入したことについて「I'm so sorry」と謝っている。

しかし、スカーレットちゃんの振る舞いは、テレワークとは何かという本質を、ある意味浮き彫りにしたと思う。つまり、テレワークとは、その家の子供をはじめ、相手の家族にとってのプライベート空間である「お家」に、大人が「お邪魔している」ということなのだ。そうなると、大人たちは、子供をはじめ相手の家族に対して、礼儀正しく振舞えているのだろうかと考えてしまう。

 

以下の記事に書かれていることは、BBCの「子供乱入」と同一線上にある問題だと思う。

“夫の会社がオフィスを半減するというのが、ニュースで入ってきて、会社は全然分かってないのかな、と思う。
自分も系列の会社にいたことがある。

シェアオフィスでもなんでもいいし、週に半分でもいいから、外で仕事をしてほしいと思ってしまう。
それは仕事に行って、ということではなく、失われたささやかな日常の時間と、くつろぎの場であったリビングを返してほしい、という意味で。

東京の感染者数が増えていて、またテレワークを強化する会社が出てくるだろう。
テレワークにすれば先を行っている、感染症対策に積極的な会社であると考えているとしたら、それはたくさんの家庭にいる人の犠牲のうえに成り立っているのだと知ってほしい。”

ささやかな日常の営みが人生を作っている|下司 智津惠|Geshi Chizue/月と流星群|note

note.com

 

 テレワークというのは、本来その家の家族のものである空間の一室や、本来家族がそこで過ごしていたはずの時間に侵入するということなのだ。

となると、「子どもが乱入」という言葉も、あまり相応しくないかもしれない。子供は自分の家なのだから、乱入していない。むしろ、入って行っているのは会社のほうである。

 テレワークにおいては、子供を乱入させないことがマナーなのだと、多くの人が思っているが、本当は、会社の側が、相手の家に「お邪魔している」という自覚を持つことのほうが、マナーかもしれない。

 

もう一つ思うことは、昔からの農家や商家では、このような「仕事/プライベート」が混じり合う環境というのは、ごく普通のことだっただろうということだ。作業をしている親の傍で子供が遊んでいたり、抱っこ紐で子供を背負った親が客の相手をすることは、ごく当たり前の光景だっただろう。

その後、会社勤めが仕事のスタンダードスタイルになると、仕事の場に子供が入り込まないのが普通になった。

そうして、今の時代、テレワークをせざるをえない状況になって、再び「仕事/プライベート」が混ざる時代になっているというのは、ある意味では興味深いことである。

婚活デート様式から考える、男と女で奢るか奢らないか問題

ameblo.jp

上の記事と、ついているブックマークコメントが、なかなか興味深かった。

結婚相談所のデート様式は、男性が店を選び、予約し、全額奢るということになっているらしい。一方、下の記事によると、大学生に対して「あなたはデート中の食事費用の支払いについて、どのようにすべきだと思いますか」という質問に対して、「男性が全額支払う」がダントツの最下位である(しかも女性のほうが少ない)。最も多いのは、女性では「自分が食べた分だけを支払う」、男性では「男性が多めに支払う」だ。

そして、30代の男女にも同様の傾向が見られるという。

toyokeizai.net

ということは、結婚相談所のデート様式は、バブル時代以前のデート様式がモデルになっているのかなと思う。たとえ、イーブンな付き合いをしたがる傾向にある30代以下の男女であっても、結婚相談所においては、その様式に従っておいたほうが良いということになっているのだろう。

 

実際、上記の記事の中でも、「おつきあい」と「つきあい」の違いとして、こういうことが書かれている。 

社会学者の加藤秀俊先生は、人と人とのコミュニケーションについて論じる中で、「おつきあい」と「つきあい」を区別しています。

「おつきあい」とはお互いの共通点を発見し、その話題をめぐって会話を楽しむような関係です。恋人になる前のデートは、まさにこの「おつきあい」の段階だと言えます。好きな食べ物や趣味などの共通点を探し、同じところがたくさんあると「相性がいい」と喜び、一般的には、恋愛へと至る可能が高いと考えます。”

 

“「おつきあい」レベルの関係では、どれだけ楽しく会話をしていても、表面的な話題に終始しています。そのため、相手の男女観や金銭感覚が十分にはわかりません。だから、実際に目の前の女性がどう思っているかではなく、ステレオタイプの女性像に基づいて、男性側は「女性がしてほしい」と思っている行動を予想することになります。

これは女性側から見ても同じことで、ステレオタイプの男性像に基づいて、相手の気持ちを予想する必要があります。だから、男性には、「初めてのデートは全部おごれるぐらいのおカネを財布に入れていく」、女性には「財布を出して払う気があるフリをする」といった「無難なマナー」が推奨されるのです。”

 

「女は男におごってほしい」はほぼ"妄想"だ | 男性学・田中俊之のお悩み相談室 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 これは、確かに婚活の初デートに当てはめることができるだろう。

 

冒頭の結婚相談所のブログによると、以下のような質問をする男女は苦戦するとのこと。元の記事では「こじらせレベル2・当たり前のことを質問する」として、

「婚活服(スーツ)が苦手なんですけど、

どうしても着なきゃダメですか?」

 

「一人暮らしした方がいいですか?」

 

「痩せた方がいいですか?」

 

「タバコやめた方がいいですか?」

 こういった質問が並んでいるのだが、このうち、

「初デートは男が奢らなきゃダメですか?こっちが2000円で相手が1500円とかはダメなんですか?」

 

「お見合いは男の奢りって相談所のルールで決まってるのに、払ってもらったお礼を言わなきゃいけないんですか?」

 

「お店は男が予約した方がいいですか?」

に関しては、他の質問と質が違っていると思う。これらは、見た目を整えるとか、コミュニケーション能力を上げるといった、男女双方に必要なことではなく、いわば「男尊女卑プレイ」なのである。*1

 

よって、 上記3つの質問に関しては、

予備校に例えたらこんな感じ?

「英単語を覚えるのが苦手なんですが、

覚えた方がいいですか?」

は、例えとしてはちょっと違うんじゃないかと思う。英単語を覚えるのに男女の違いはないから。

例えるなら、

  •  「スカートはきたくないんですけど、パンツスーツで面接受けるのはダメですか?」
  • 「ヒール靴嫌なんですけど、履いたほうがいいんですか?」

とかに近いと思う。

 

これらのことを嫌がるのは、全然おかしくないし、こじらせどころか、むしろ当たり前だと思う。「現状はこうやってたほうが合格率が高い」ということと「やるのが嫌なのは当たり前」は、何も矛盾なく両立することもある。

嫌だと思って当たり前。でも現状はこうだ。じゃあ、どうやって戦うか、ということなんじゃないかな。

 

とはいえ、まだまだ男性より女性のほうが平均賃金が低いという現実がある以上、学生以外は、完全に割り勘にしてしまうと、女性のほうが損な感じがしてしまうというのはあるよね。なので、男女の平均賃金の差から割り出したレートに基づいて、双方いくら出すのかを算出するのが、平等なのかもしれない。最も平等なのは、お互いの年収の差に基づいて算出することだろうけど(笑)。

 

一方で、特に男性は、あらかじめ店に予約を入れておくというテクニック自体は、身に付けておいて損はないとは思った。なぜなら、これは対女性デートテクニックだけでなく、広く対人おもてなしテクニックでもあるから。

これも、店を選ぶのは男女どっちでもいいと思うんだけど、なぜ「特に男性は」と書いたのかというと、女性は既にこれを身に付けている人が多いと思うから。私も、具体的にいつ身に付けたのかわからないけれど、こういう時、店の予約はする。適当な店を探して長時間ウロウロするはめになったら、自分が疲れるからだ。

健康で健常な成人男性は、人類の中で最も体力がある部類の人たちなわけで、そうであるからこそ、自分より体力が少なめの人をエスコートする技術を身に付けておいても良いと思う。例えば、お互いの両親を招いて食事会とか、そういう時、対女性デートテクニックは、対年配者おもてなしテクニックとして、そのまま応用できるだろうし。

 

 

ten-navi.com

上の記事に対して、「奢らないとモテない」「誰が『奢らなくてもいい女性』なのかわからないから、結局奢るしかない」という趣旨のブコメがちらほらついていたのを見て、「モテたい」という願望が薄い私は、「そんな女性とはどうせ合わないんだから、奢らないことで嫌われても構わんだろ」と思ってしまった。

 

ただ、「モテたい」という願望があったとしても、女性から嫌われることを恐れて奢るっていうのは、あんまりモテには繋がらない気がする。そもそも、奢る男性がモテるのは「自信があるから」であって、自信のない男性が、女性から嫌われるのを恐れて奢っていても、せいぜい「モテ」じゃなくて「カモ」にされるだけなのでは……

自信のある男性は「自分は女を選べる」と思っている。自信のない男性は「自分には女を選べない」と思っている。「奢る」という行為自体は同じでも、内容は全く違う。

 ここで言う「女を選べる」っていうのは、モテるから彼女候補が沢山いるとか、そういう話だけではなくて、自分に合う相手、合わない相手を理解して、合う相手にコミュニケーションチャンネルを合わせられるということ。自信がない人は嫌われるのを恐れるから、合わない相手にコミュニケーションチャンネルを合わせてしまう。

 

一方、女性と会計をイーブンにする男性でも、適度に自信がある人は、彼女がいたりする。そういう男性は、彼女にしろ女友達にしろ、会計をイーブンにする女性たちと付き合っている。

ただ、そういう女性たちは、会計以外のところでもイーブンな付き合いを求めるだろうから、女性と対等に付き合えない男性は、女に貢がせられるモテ男でない限り、奢り続ける関係しか築けないかもしれない。

 

“自信ない女はモテない、カモられるだけ”


“じゃー「モテる」と「カモられる」の違いってなんなのよってことですが、端的にいえば「モテる」とは「相手をきちんと考えられる思いやりのある人に好かれる」ってことです。「カモられる」というのは「相手の欲望が中心で、こちらの痛みや思いなどは軽視する人に好かれる」ということ。”

 

“ぶっちゃけ、顔やスタイル、服装やらモテテクニックやら趣味なんて、どーでもいいんですよ。モテるかどうかってもう「自分のことを認めている、自分の望みをはっきり理解している=セルフコンフィデンスがあるかどうか」の一点勝負。”

 

なぜ『姉の結婚』『今日は会社休みます』は駄目ファンタジーなのか - 妖怪男ウォッチ

 これ、男女を入れ替えても、同じことが言えると思う。*2

 

“また別のメンバーは女性との関わりについて考えるワークで、女性と食事に行ったときのエピソードを紹介してくれた。会計の際、相手の女性が「自分の分は自分で払う」と言っているにもかかわらず、それを制して無理に全額おごったという。初めての食事に緊張した彼は、会計をどうしていいか分からずに焦り、深く考えることなく「男性が女性に奢るべき」という社会通念に従った。「もうそれ以外のことが考えられなくなってましたね」。

この関わりは、相手の女性を一段下にいる存在として位置づけるものであり、男女間の不平等な構造を無意識のうちに維持してしまっている。彼は女性の優位に立たなければならないという司令官の指示に従ったわけだが、その後彼女からの連絡は来なくなったという。彼は「相手も来たいという主体的な思いを持って一緒に食事をしたのに、その気持ちを考えてませんでした」と振り返っていた。”

男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)

「誰が『奢らなくてもいい女性』なのかわからないから、結局奢るしかない」と言う男性は、「奢らないと嫌われるかもしれないけど、奢って悪いことはないだろう」と考えているのだろうけど、そうとは限らないみたい。

 

とすると、若い世代ではもう実質時代遅れであるにも関わらず、婚活業界が「男が全額奢る」をルール化しているのは、男性側の「奢るべきか奢らざるべきか、どっちが正解なんだ?」問題を避けられる効果があるからなのかもしれない。

女性慣れしていない男性に、その場で「奢るべきか奢らざるべきか」の判断をさせるよりは、「男性が全額奢って下さい。そういうルールです」と言ったほうが、もしかしたら、男性にとって楽なのかもしれない。

だとしたら、婚活業界の「男が全額奢る」ルールは、女性慣れしていない男性の負担を減らすための負担額だと考えられるかも。

 

なお、奢られないと「大事にされていない」と感じる女性に関しては、まぁ、何が大事なのかは人それぞれだし、「お金をくれること」が自分にとって大事で、相手に求めることなら、その人にとっては、確かに「奢られない=大事にされていない」ということになるのだろう。

ただ、私自身の考えとしては、大事にされているかどうか、相手に自分を尊重しようという気があるかどうかは、メシを奢るかどうかよりも、セックスの時の態度を判定基準にしたほうが、より精度が高いとは思うけど。

 

あと、女が料理すると聞くや否や「じゃあ作って!」と言う男は、男が金持ちと聞くや否や「じゃあ奢って!」って言う女と一緒だと思う。

*1:厳密に言えば、「婚活服(スーツ)が苦手なんですけど、どうしても着なきゃダメですか?」も、ジェンダー的な問題があるかもしれない。「男女ともちゃんとした服装で」ならわかるけど、「ちゃんとした服装」がスーツである必要があるかどうか、かな。スーツが嫌なら着物はどう?(笑)

*2:もっとも、「顔やスタイル、服装やらモテテクニックやら趣味」は、適度に自信がある人をより魅力的に見せる効果はあると思う。「顔やらモテテクやらがあっても、自信がなければカモられるだけ」という意味なのかな?

「大人相手に1日3食作る必要なくね?」と、共働き家庭に育った私は思う。

“ 新型コロナの影響で、うちのツレもリモートワークになりました。いやー………振り返ってみてやっぱり、しんどかったですね。ひとりの時間がなくなって、3食作るのがエンドレスになるって。

 朝送り出して、帰ってくるまでのひとりの時間が消滅。昼食も作る日が続き、終わりは見えない。

「自分の昼ごはんも作るんでしょう? ひとり分もふたり分も一緒じゃない」といわれることもあるけど、「自分だけなら別に食べなくてもいい」という選択の自由があることが、豊かで、ありがたいことだったと分かりました。

 ツレはリモートでも時間が自由になるわけではなく、昼休憩は12時から13時までの間。

 私はフリーランスのライター、これまで特に時間を気にせず昼食をとり、原稿を書いていたのが、12時に合わせてごはんの用意をする生活になったわけです。”

毎日3食「エンドレス炊事」がつらい 心が楽になる便利商品&行動とは? | 白央篤司の罪悪感撲滅自炊入門

crea.bunshun.jp

 

上記の記事は、新型コロナウイルスの流行により、パートナーがリモートワークになった、料理担当フリーランス男性の話らしい。これまでは、昼食は自分のペースで作って食べていたのが、パートナーの仕事の休憩時間に合わせて作るようになったことで、毎日3食作ることにしんどさを感じていたという内容だ。今の時代の家庭では、これの男女逆になったバージョンがけっこう多かったのではないかと思う。

 

このようなご家庭の話を見かけるたび、正直なところ、私はこう思っていた。「子供ならともかく、大人相手に1日3食作る必要なくね?」

なぜなら、私が育った家庭は、共働き家庭だったため、子供たちは中学生になったら自分で弁当を作って持って行っていたからだ。そして、朝食も、子供の頃は親が用意してくれていたものの、ある程度大きくなってからは、それぞれ出勤や学校に行く時間が合わなくなったため、「各自、自分で用意して食べる」ということになったからだ。

朝食は、ご飯だけは炊いておいて、冷蔵庫に常備してある漬物や佃煮などのご飯のお供を、便宜自分で取り出して済ませていた。(ちなみに、そのご飯を炊くのも子供たちの仕事だった。)ご飯を炊き忘れた時用に、インスタントラーメンも常備してあった。

というわけで、我が家では、食事を用意してもらえるのは基本夕飯だけというのがデフォルトなのである。ちなみに、父も母も家族のために料理を作っていた。

 

そういう家庭で育った私としては、子供や介護が必要な人がいるならわかるのだが、健康で健常な大人相手に「1日3食用意しなければならなくなった」というのは、「え?なんで?」である。

カット肉どころか、相手の昼食時間に合わせて炊飯器のタイマーをセットしておいたら、「ありがとー」っていう世界。たまに母が作りおきおかずを作ってくれていたら、それを食べたりはするし、「卵焼き作るけど、あんたも食べる?」っていうことはあるし、全員が休みの日に「お昼ご飯、素麺にしようと思うんやけど、どうする?」「それがいい」とかはある。でも、基本は各自自分でだから、用意してなくても誰も文句言わない。

 

パートナーがリモートワークになったら、昼食を作るようになったということは、パートナーが外で働いていた時は、昼食を作っていなかったということなのでは。なら、仕事現場が職場から自宅に変わったからといって、そこは変えなくてもいいんじゃないかな。

いつもパートナーに弁当を作っていた人の場合は、何も12時の昼休憩の時間に合わせて作らなくても、あらかじめ作っておいて「じゃ、時間になったらテキトーに食べといてね」で良いのでは。

もしパートナーが12時に昼食を作ることを望むのなら、その分料金を貰うか、その分他の家事をやってもらうかして解決すればいいと思う。いつもより仕事増えてるんだから。世の中、仕事の拘束時間が増えれば賃金も発生するのが普通である。なら主婦業もそうだろう。

 

“周りのリアル妻たちは「いい奥さんをやめたら夫婦仲が良くなった」と言います。

結婚当初はちゃんと朝ごはんを作らなきゃと気張って、味噌汁に焼き魚など用意していたが、夫はあまり喜ばず「こっちは必死で早起きしたのに!」とイラついていた。そこで夫と話し合うと「1秒でも長く寝ていたい」と本音がわかり、朝食作りをやめたら夫婦仲が良くなった……等など。”

 

“心ある夫たちは「奥さんはテキトーでゆるゆるな方がいい、機嫌よく笑顔でいてくれるのが一番だから」と言います。良妻賢母プレッシャーに囚われていると「私はこんなに頑張ってるのに!」と被害者意識や見返り要求が生まれる。それで不機嫌になって夫婦仲がギスギスするなんて、バカらしいではないですか。無理しないと続かない関係はいずれ破綻します。パートナーは無理せず機嫌よくいられる相手が一番。”

 

――『オクテ女子のための恋愛基礎講座(著・アルテイシア)』――

これは夫婦間の話だけれど、子供からしても、「3食きちんと手作りでイライラしてる親」よりも「テキトーゆるゆるで機嫌がいい親」のほうがいいんじゃないかな。

 

毎日3食作るなんて、ブラック企業ですよ。もう共働き家庭が主流になっている時代なんだから、専業主婦時代の呪いは解いていくべき。

今の子供たちだって、将来は親世代よりも共働き時代を生きていく可能性が高いから、呪いは子供の世代まで持ち越さず、今の子育て世代のうちに絶っておいたほうがいいのかも。

 

コウケンテツさんもこう言ってるしね。

www.asahi.com

 

中高6年間、自分で弁当を作っていた話。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

子供には年齢に応じて家事を教えたほうがいいという話。

yuhka-uno.hatenablog.com

『非モテの品格』を読んで考えた、男性が精神科を受診しない理由

何年か前に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か(著:杉田俊介)』という本を読み、思うところが色々あったのだけれど、あまりにも思うことが多くて今まで書かずにいた。

この本の内容は、ざっくり言うと、「非モテ」を軸にして語られる、男性の生きづらさについてだ。本書から一部抜粋してみる。

 

“夢を諦めたこと。仕事もないこと。金がないこと。社会的な肩書がないこと。周りに友達がいないこと。もちろん、そのどれもが苦しかった。つらかった。

しかし、当時の僕にとって、一番苦しかったのは、恋人がいないことであり、恋愛・性愛の問題だったのである。”

“思い出せば、多分あの頃の僕は、次のように考えていたのではないか。

自分には恵まれた容姿も才能もなく、社会的な成功や立身出世も、もう、望めそうにない。人生はこれ以上マシなものにはならない。けれども、恋愛の領域であれば、まだ人生のすべてを取り戻せる、一発逆転できるかもしれない。いや、自分にはもう、それしかない――”

“ おそらく僕は、職業や社会的地位、容姿や才能などの、社会的な属性を異性から承認してほしかったのではなかった。存在そのものを無条件に肯定してほしかった。さらに言えば、たぶん、僕の中にある〈男としての弱さ〉をありのままに、性愛的に肯定してほしかったのだ。

 ものすごく自分勝手であり、恥ずかしいことだけれども、それが僕の中の無意識の欲望だったように思う。”

 

また、『孤独とセックス(著:坂爪真吾)』の著者も、同じようなことを言っていた。

ーー著書『孤独とセックス』には、そんななか「セックスしさえすれば救われると思っていた」という描写がありますね。

坂爪:「誰からも認めてもらえない」という思いがあったから、そう思ったのでしょう。でも、男性がそれで「救われる」と思っても、女性からすれば「はぁ?」って感じですよね。そこに至るまでにいっぱいステップがあるのに、そこを吹っ飛ばしていこうと思っても無理じゃないですか。出会って、コミュニケーションして、信頼関係を作って、友達になってという。そこを男性は吹っ飛ばしがちですよね。それは怖い。

「中二病の黒歴史」さらけだした 「孤独とセックス」著者が18歳だったころ :DANRO(ダンロ):ひとりを楽しむメディア

 

両者とも、失恋などの恋愛の挫折やトラウマから、恋愛の成功体験を取り戻そうとしているのかというと、どうやらそういうわけでもなく、直接恋愛に関係のない、人生の困難や満たされなさ、自己肯定感の得られなさを、女と恋愛すれば取り戻せると思い込んだことが共通していた。

私はこれらを読んで、(異性愛者の)男性は、人生が上手くいかない時に、「女と恋愛・セックスすれば救われる」と思い込んでしまう傾向があるということを、理解はできた。が、共感はできなかった。なぜなら、私が過去に人生が上手くいかなくてひきこもりになっていた時に思っていたことは、「精神科行ってカウンセリング受けたい」だったからだ。(ちなみに当時お付き合いセックス等未経験)

 

ところで、精神科医の松本俊彦氏は、自殺率は男性のほうが多い一方、女性のほうが鬱病になっている割合が高いことについて、自身の臨床経験から、男性は重篤にならないと精神科を受診しない傾向があることを指摘している。その理由として、社会からの、男性に対する「弱音を吐いてはいけない」というプレッシャーを挙げている。(このことは『非モテの品格』の中でも言及されている。)

国際的にみても、自殺で死亡しているのは男性のほうが多い。その比率は概ね2:1〜3:1だ。これは日本も例外ではない。

自殺対策としてうつ病対策がとられるが、はたして、それだけで男性の自殺は防げるのか。

日本で統計をとると、男性と女性では、女性のほうがうつ病になっている割合が高い、というデータがでてくる。

しかし、と松本さんは注意を促す。臨床経験からいえば、男性は重篤にならないと精神科を受診しない傾向がある。

受診が遅れる理由は、男性の多くが「男は泣いたらいけない、弱音を吐いたらいけない。強くなければいけない」という文化的、社会的プレッシャーとともに成育してきたからではないか、と問う。

男は傷ついている自分の心や、心の疲れそのものを否認し、無視することが習性になっている可能性があり、アルコール摂取、つまり酒に逃げることが男性の自殺と結びつくと指摘する。

「男らしさ」が苦しい男たち。なぜ男性は自分の弱さを語れないのか?

 

上記のことは、もちろん大きな要因になっているだろう。ただ、私はそれ以外の要因も考えている。男性である杉田俊介氏は、人生がつらい時に「彼女ができれば一発逆転できる」と考えた。一方、女性である私は、「精神科行ってカウンセリング受けたい」と考えた。

これは、個人の一例にすぎないだろうか?私はそうは考えていない。私は、男性が、つらい時に「彼女ができれば一発逆転できる」という思考回路になってしまうことそのものが、男性がなかなか精神科を受診しない一因になっているのではないかと思うのだ。

 

例えば、機能不全家庭においては、親のストレスを子供が支えるような形になってしまっている。この場合、まず精神科に行ってカウンセリングを受けるべきなのは、親のほうだ。しかし、大抵の場合、親が受けるより先に子供が受けることになる。

親は、子供という、自分より立場が弱く、容易に支配できる存在が身近にいるため、暴力を振るったり、罵ったり、愚痴を垂れ流したり、自分のご機嫌を取らせたりなどして、子供を使ってストレスを解消することが「できてしまう」。一方、家庭内で一番弱い立場にある子供には、そんな存在はいないので、家の外に助けを求めることになる。それで、親はカウンセリングにかからず、子供がかかることになるのだ。

実際、虐待は依存症とかなり親和性が高いという。

 

家庭の構造を社会に当てはめて考えると、男性が女性に比べて精神科の受診が遅れるのは、総じて男性のほうが社会的に立場が強いということそのものが、要因になっている面があるのではないだろうか。つまり、男性のほうが女性より、自分より「下」の人間がいるケースが多いのではないかと。

『酔うと化け物になる父がつらい(著:菊池真理子)』という漫画は、まさに、アルコール依存症の男性の尻拭いを、妻と子供が担わされている家庭の話だ。こういった依存症者の尻拭いの役回りをする人のことを「イネーブラー」と言うが、イネーブラーに女性が多いのはよく知られている話である。女性には、伝統的に「他者の世話を焼くべき」という規範があるからだ。依存症者は、周囲にイネーブラーがいる限り、なかなか依存症を治す方向には向かわない。

そして、周囲にそんな女性がいない男性でさえ、「女と恋愛・セックスすれば救われる」と、女性に依存する発想をしてしまう。

 

家父長制とは、女性にケアを依存するシステムである。そのケアは「生活面のケア」と「精神面のケア」の両方がある。

「生活面のケア」は、家事・育児・介護のことだ。「精神面のケア」は、「女は男を立ててあげて」などがそうだし、女性が男性より優しさや礼儀正しさを求められるのもそうだ。性的なこともそうだと思う。多くの男性は、女性に対して、単純に性欲だけでなく、性行為を通した精神的ケアを求めているのだと思う。

 家父長制は、強者男性が、男性の労働力を搾取し、その男性の生活面でのケアを女性にさせるシステムである。そして、男性の精神的ストレスを無視し、女性に精神的ストレスの解消を担わせるシステムである。

 

「男は泣いたらいけない、弱音を吐いたらいけない。強くなければいけない」というのは、要するに、強者男性の立場から見て、「そんな面倒なこと、こっちに言うなよ。女で癒されておけ」「お前らは俺に対して、泣かず、弱音を吐かず、文句を言うな。女をあてがってやるから、それで解消していろ」という、都合の良いことの集合体なのだろう。男性たちの不満やストレスを強者男性に向かわせず、女性に向かわせるシステムだ。

おそらく、家父長制社会で育ってしまうと、男性には、人生でつらくなった時に、女性に依存する回路がインプットされてしまうのではないだろうか。家父長制は、男性を「女性依存症」にしてしまう。そして、女性は「無料家政婦」と「無料セラピスト」の役割を課せられるのだ。

 

“おじさんたちは誰かに優しくしてほしいんです。でも、そのときに想像できるのが「若い女性にモテたい」という回路しかない。人から「大丈夫?」とか「働きすぎじゃないの?」と言われるだけで解消するはずなのに、「ああ、疲れた。若い女に癒してほしい」という回路しかないんです(笑)。”

電通、清原、SMAP、乙武――2016年を振り返る~河崎環、おおたとしまさ、田中俊之、常見陽平座談会【後編】 | PRESIDENT WOMAN | “女性リーダーをつくる”

“「男性同士では真剣な悩みを話しにくい」「競争になってしまう」など支え合うのが難しい話をたくさん聞く。
男性同士で雑に扱い合うのが楽で完結するならそれでいいのだけど、難しいのは男性も「大事にされたい」気持ちがあるんだよね。そこを女性に求めがち。”

女性を人間として扱うという事・男女での解釈の違い - Togetter

 

日本は、ジェンダー平等指数が低く、家父長制が根強いが、男性の自殺率が高く、幸福度も低い。私は、このことは全く矛盾しないと思っている。最近、未婚男性の幸福度が、既婚男性や未婚女性の幸福度よりずっと低いことが話題になっていたが、これは、妻に先立たれた男性は、そうでない男性よりも、平均寿命が短くなるのと、同様の構造なのではないかと思った。

家父長制は、ケアを女性に依存するシステムになっている。それゆえ、男性は成長過程でセルフケア能力を身に付けさせられず、女性がいないと途端に生活面や精神面の質が落ちることになる。

 

 女性の中にも、恋愛依存症境界例パーソナリティ障害などの人は、自分の人生のつらさを、恋人に全面的に解決してもらおうと求める人がいるが、一般的に言っても、対人依存傾向の強い人と、自立的な人なら、後者のほうが幸福度が高いし自殺率も低い。

男性は、家父長制社会で育ってしまうと、特にパーソナリティ障害ではない人でも、性が絡むと自他の区別が曖昧になったり、女性と付き合いさえすれば人生のつらさが全面的に解決されると思ったりする傾向が出てしまうのかもしれない。

 

異性愛者の)男性が、つらい時に「女とセックスすれば救われる」と考える理由としては、「それを得られれば社会から承認される」と「相手が全面的に自分の味方をしてくれて、全てを受容して癒してくれそうな気がする」からじゃないだろうか。男性社会からの承認と、女性からの精神的ケアの両方が同時に得られて、一挙両得(という幻想)だ。

依存症の文脈で言うならば、この幻想によって、男性は女性より「底つき」が難しくなるのかもしれない。

 

“僕は二十代半ばから非モテ(性的承認の不在)に苦しみながら、少しずつ、この苦しさは恋愛そのものによっては解決しないのかもしれない、と気づいてきた。繰り返すけれども、非モテとは微弱なセックスアディクション――異性愛的な「男らしさ」への過剰適応――の一つであり、そこには、男である自分への身体嫌悪(ミサンドリー)が絡みあっているからだ。”

――『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か(著:杉田俊介)』――

“―本書の一節には、杉田さん自身の経験から恋人ができても、結婚しても「非モテ」の苦しみは消えない、と書かれてあります。ちょっと衝撃でした。

杉田 僕も年齢を重ねれば落ち着くと思っていました。でも、いまだ消えない。むしろ30代後半から、強くなっていくのを感じたんです。”

「非モテ」は治らない? “愛されない絶望”との正しい付き合い方 - ライフ・文化 - ニュース|週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]

 「女性依存症」の文脈で考えるなら、「恋人ができても、結婚しても『非モテ』の苦しみは消えない」のは、それは当然だと思う。

 

というわけで、特に男性にとっては、料理教室に行くなどして家事能力を身に付けたり、人生がつらくなった時に、精神科に行ってカウンセリングを受けたりするのは、依存をやめて自立に向かう道なのだと思う。

 

余談だが、女性のひきこもりが、世間から「結婚すれば解決する」と思われていたのは、男性社会の「女と恋愛・セックスすれば救われる」という思い込みの裏返しというのも、原因の一つとしてあるのではないだろうか。

ひきこもり経験のある女性としては、「結婚すれば解決する」に対しては、「夢みたいなこと言ってんなー」である。実際、世間のこの認識によって、女性のひきこもり支援の取り組みは遅れたと言われている。

 

 

おまけ。

非モテの品格』を読んで「理解はしたが共感できなかった」ことについては、ネット上でたまさかさんと少し話したことがあった。 

もしかすると、社会を何か巨大な婚活会場かマッチングパーティーだと思ってる人が一定数いるのでは。家を出た瞬間から値踏み開始(全ての女性も自分を値踏みしてるという思い込みも同時にスタート)。そういう場所に行けないという思いの末路なのだろうけど、ますます自分を苦しめてるだけだろ...。

— たまさか (@TamasakaTomozo) August 17, 2018

 

非モテの品格(杉田俊介・著)』によると、著者は、人生がうまくいかなかった時、「すべての物事の価値が、異性からモテる/モテないという価値観によってジャッジされてしまっていたのだ。」だそうです。坂爪真吾氏も、似たようなことを言ってました。

— 宇野ゆうか (@YuhkaUno) August 18, 2018

 

ご教示ありがとうございます。それで(モテる/モテない)全て説明できるように思えるのは、最初は楽なのかもしれませんが、結局自分の逃げ道を塞いでいますよね....。必ずしも当人だけが悪いわけではないのが余計モヤモヤします。杉田さんの本、なんとなく遠ざけていましたが読んでみます。

— たまさか (@TamasakaTomozo) August 18, 2018

 

正直、「共感」はできませんでした。私の場合、人生がうまくいかなかった時は「精神科行ってカウンセリング受けたい」と思ってましたから。ただ、ヘテロ男性の場合、「女性と恋愛・セックスすれば救われる」と思い込んでしまう傾向があるということを「理解」はした、という感じでした。

— 宇野ゆうか (@YuhkaUno) August 18, 2018

 

そうですよね。僕には残念ながら少しは「共感」できる部分はあります。「癒やしの聖母」であれ「トロフィーとしての女性」であれ、女性をダシにしたファンタジーに、いかに無自覚に浸かってきたかということだと思っています。

— たまさか (@TamasakaTomozo) August 18, 2018

 

この男女差について、「ぼくらの非モテ研究会」の西井開氏は、こう言っている。

 “多分、言葉って名詞にすることが大事だと思ってるんですけど、うちでは例えば「女神化」とか。

自分がしんどい状態にいるときに優しくしてくれる女性を神聖化しちゃって、ゆくゆくは付きまとうようになっちゃうんですけど、それを僕らは「女神化」って呼ぶんですね。

女神に対して、「彼女はもしかしたら俺の事を考えてるかもしれない」とか、「こういうふうにしたら女神と仲良くなれるんじゃないか」みたいなことを延々と頭の中でぐるぐるぐるぐる考えていくのは「ポジティブ妄想」っていうんですけど、そういうふうにどんどん言葉を作っていくと、自分たちのことがよく分かっていくというところはありますね。”

 

“N 面白いのは、訴求させていくと「わかるわかる」って言う人もいる反面、「え、全然わからへんねんけど」みたいなことも時折起こるんです。

「女神化」などの話をしたときに、ある女性に「何言ってるか全然理解できないんです」と言われたことがあって。

それは言ってしまえば、「女神化」というものに男性が持ってる女性への過度な役割期待が含まれてるからだと思うんです。男性たちが、「これは女性への過度な役割期待なんだ」というふうに気づいていくという点でも言葉を作るというのは大事かな、と思いますね。”

 

ダブル手帳 × ホリィ・セン × 西井開 対談内容全文 - ダブル手帳の障害者読み物

 

 

〔追記〕

ブコメから。

id:zheyang こういう願望による推測ばかりだと「恋人を欲しがる女・結婚してる女は未成熟」とか「友だちの多い奴は友だち依存」とか何でも言えちゃう。あとカウンセリングを万能視しすぎ。

ただ単に恋人を欲しがる人と恋愛依存症とは別物。ゲームしたい人=ゲーム依存症ではないように。というか、恋愛依存症になるとまともに恋愛できなくなるので、まともに恋愛したいと思ったら、恋愛依存症から脱する必要がある。

カウンセリングが万能でないことは、カウンセリングを受けていたのでよくわかっている。これは現代医療が万能ではないのと同じくらい当たり前のことだ。

具合が悪い人に「病院に行け」と言うのは、医療が「万能だから」ではない。素人判断よりプロの助けを借りたほうが「確実だから」だ。現代医療は万能ではないからと言って、病院に行かなかったり、民間の怪しい代替医療に走ったりするほうが、ずっと極端だ。

 

 

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