宇野ゆうかの備忘録

ちょっとした作品発表的な場所。/はてなダイアリー→d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/

女性は高い外見レベルを求められ、外見レベルが高い人の苦悩は無視される

anond.hatelabo.jp

 

上記の匿名ダイアリーを読んだ。

ちなみに、これを書いている私は、いわゆる「毒親」の元で育ち、学生時代にいじめに遭い、ひきこもり経験があり、そこそこ長い期間を恋愛とは縁遠く過ごした人間である。

元増田はまず、心理カウンセリングでも受けて、いじめで受けた心の傷に向き合って癒したほうがいいと思った。

 

その上で、私は特にこの部分が気になった。

私は不細工である、女性と付き合った事は無い。

女性と話す事もあまり無い、仕事で話す機会もあるが、兎に角下心と思われない様に細心の注意を払う。リスクだからではない、私の様な男が女性に好意を持っている等と誤解されて、「キモい」と思われるのが怖いからだ。

私は女性が怖い。

「キモい」と思われる事が怖い、しかし、顔も、行動も、客観的に見れば「キモい」と思われても仕方が無い。

リベラルである事で得をする事は無い。当たり前だ、得をするためじゃなく、正しいと思うから、そうしている。

フェミニストっぽい発言をする時も、もちろんそうだ、それで得をする事は無い、ただ差別は有ってはならないという当たり前の信念の下に、発言をしている。

ただ、時々、分からなくなる、彼女らは俺より不幸なんだろうか?

地獄の様だった学生時代の苦しみが何も清算されぬまま、今自分は成人ヘテロ男性であり、つまり強者で、加害者で、抑圧者で、悪である。

学生時代の苦しみは、一体何だったんだろうか?あの時の加害者の中には女性もいる。彼女は弱者で、自分は強者である。

キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人がフェミニストとして、男性を糾弾する。

俺は一体何なんだろうか?

 

私は既に書いたように、およそキラキラした人生を歩んでいないタイプの人間だ。ただ、リアルで私の姿を見た人は、そんな印象は受けないだろう。たぶん、普通レベルに小奇麗な女性だ。実際に「ひきこもりに見えないよね」と言われたこともある。

それは、たまたま私がファッションに興味があるタイプの人間だったからというのも大きいと思う。外見演出能力があると、様々な困難がないように見えるんじゃないだろうか。

私の外見演出能力は、成人してけっこう経ってから身に付けたものだ。なので、学生時代に流行の格好をしてイケていたタイプではない。当時はおしゃれより漫画を描くことに夢中だったし、母親の「おしゃれや流行に興味のない子でいてほしい」という願望を内面化していたから。私は典型的なダサいオタク女子だった。

私がどんな努力をしたのかは、ここに書いてある。これを貼っておくのは、元増田のような人は、おしゃれな人がしている努力が見えていないことが多いからだ。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

そして……これは他の女性たちにも当てはまるのではないだろうか。この社会は、見た目を整えていない女性に厳しい。多くの女性は、毎朝、化粧をしたいからしているのではなく、空気を読んで化粧をしている。

 見た目を整えないでダラダラしたり、髪振り乱して必死に動いている様子を、「女捨ててる」と言うことはあっても、「男捨ててる」とは言わない。男はいつだって男だが、女は、見た目を整えた状態が「デフォルト」と認識されている。*1

そして、女として「デフォルト」の状態になるように整えていると、「不幸に見えない」「人生充実してそう」と思われる。

 

女性は高い外見レベルを求められ――外見レベルを高くすると、抱えている苦悩はないもの扱いされる。

 

社会から、レイプ被害の苦痛が理解されない理由のひとつとして、「一見、普通に見える」というのがあった。これが交通事故だったり、ボコボコに殴られたりするタイプの暴力被害に遭ったりしたケースだと、怪我という形で被害が見える。窃盗被害も金銭という形で被害が見える。しかし、レイプ被害に遭った人は、ものすごく大きなトラウマを抱えていても、平気そうに振舞って日常を送っていれば、被害は見えなくなる。

伊藤詩織さんも、公に被害を訴え出なければ、キラキラして美人で人生充実してそうに見えただろう。

 

そして、外見を整えられないほど心身に不調を抱えている女性は、なかなか社会から見える場所には出て来られないのだろう。あるいは、出てきたとしても存在を認識されないか。でも、いるところにはいるけどね。

 

以前、『美人ってどんな気分?美人に人生観を聞いた! 』というタイトルの記事を読んだことがある。(現在、記事は削除されているが、魚拓はある。)タイトルの通り、美人にインタビューする内容なのだが、美人として出てきた女性たちが何を語っても、インタビュアーの男性が「でも美人ってだけで人生楽勝でしょ?」みたいなことばかり言って、相手の話をまともに聞いておらず、インタビューとしてどうなんだと思った。

しかし、この記事はある意味、「美人ってどういうことなのか」を如実に表していた。美人だって、他の人と同じように人生を生きていく中で、悩みや苦しみや悲しみを抱えることもある。しかし、「美人ってだけで人生楽勝でしょ?」と思われ、抱えている苦悩は無視される。

私はこの記事を読んで、「ああ、美人ってこういうことなのか……」と思った。

 

私は、外見演出力が身につく前も身についた後も、Twitterをやっていた。顔出しはしていない。けれど、私のことを、「どうせキラキラして充実した人生送ってるんだろう」と思う男性もいたし、「どうせブス・ババアなんだろう」と言う男性もいた。もう外見整えてるかどうかも関係ない。彼らは、私が女だというだけでそう言っている。

彼らの中には「※ただイケ」を強固に信じている人もいたけれど、顔も見えない相手の外見を勝手に決め付けたり、外見が整っていれば「人生充実してるだろう」と思ったりするほうが、ずっと他人を外見で判断していて、頭の中が外見至上主義に支配されていると思う。

学生時代に自分をいじめた女子を、私に投影しているんだろうなと思う男性もいた。私も学生時代いじめられる側だったんですけど。

 

もっとも、外見レベルが高い人の苦悩を無視するのは、男性に限ったことではないけれど。これなんかは、女性が女性に偏見を持っていた話かな。

mamiamamiyaisalive.hatenadiary.jp

 

学校の、いわゆる「スクールカースト」においては、おしゃれはカースト上位層に許されたもので、いじめられている下位層がやろうものなら、途端に「生意気」と見なされて、嘲笑の対象にされるような空気が存在することは多い。

だが、社会に出たら空気は変わる。なのに、学校と同じ感覚でいると、「おしゃれしてる人=スクールカースト上位者」「おしゃれは自分には許されないこと」みたいな勘違いをし続けてしまう。

だいたい、おしゃれといっても、カースト上位層の彼ら彼女らが、例えば服飾専門学校に行きたいと,か、ファッションの歴史に関する本を読みたいとか、そういう方向でおしゃれに興味があったのかというと、そういうわけでもないのだから。

 

増田は、女性を避けているがゆえに、女性の内面に触れる機会が乏しいのだろう。その結果、女性を外見で判断してしまっている。でも、他人をいじめるタイプの人間かかそうでないか、暗い過去や苦悩を抱えているかどうかって、外見じゃ判断できないよ。学生時代に自分をいじめた女子と、世の中の女性は、別の人間だから。

なんか、父親が浮気性で家庭が苦しかったトラウマから、「どうせ男は皆浮気するんだ」と男を避けたり、付き合った男全員に「どうせあんたも浮気するんでしょ!」って態度で接してしまう女性に似てると思った。本人にとってすごく辛いのはわかるけど、誠実な男性にとっては、とばっちり以外の何物でもないよね。心理カウンセリングとか受けて心の傷を癒したほうが良いと思う。

 

あと、増田は、男であることに必要以上に罪悪感を感じているようだけれど、社会的集団としての「男」と「男である自分」とが必要以上に一体化してしまって、罪悪感を感じすぎてしまうのは、「日本」と「日本人である自分」とが必要以上に一体化していて、「日本スゴイ」「だから俺もスゴイ」ってなってる人と、実はコインの裏表みたいなものなのかも。

 

余談だが、親が毒親だったこと、学生時代にいじめに遭ったこと、ひきこもりになったことは不本意だが、そこそこ長い期間を恋愛とは縁遠く過ごしたことは、私にとっては不本意ではない。もともとモテたいという願望が乏しいのだ。*2

私にとって不本意なのは、ある程度年齢を重ねている人間が恋愛やセックスの未経験者であることを、おかしいと思っている人が、世の中にまだ沢山いることのほうだ。

 

今回の話の内容は、この問題と近いところにあると思う。

“携帯を持ち、一見小奇麗な格好をしているその生徒がまさか、保険料も払えず、授業料と家賃のために深夜までアルバイトをしていると想像することは容易ではない。”

『ルポ 子どもの貧困連鎖』 見えない苦しみ - HONZ

 “ 一方、5人の外見は、ごく普通です。服は破れていませんし、汚れてもいません。

 ヒカリさんは、「服はいま安く買えますからね。むしろ貧困だとバレないように他人に見える部分は気をつかいます」と、言います。”

「理想の貧困」に苦しむ…リアル当事者 スマホもライブもダメなの?

 

社会からの「外見へのプレッシャー」により、多くの女性が(美しい女性でさえ)持っている「自分は美しくない」という感覚。


ダヴ: リアルビューティー スケッチ | あなたは自分が思うよりもずっと美しい

 

〔2020.06.29追記〕

id:tureture30 私はこの増田さんに近い価値観かもしれません。生まれ持ってきれいな女性は容姿を武器に男を食い物にしているという先入観があります。それは本人が意識していなくてもです。カッコいい男もそうなのでしょうけれど、

なるほど。そういう先入観を持っている男性が多いことは知ってはいたけれど、私自身から遠い感覚なので見逃していた。続き書くかも。

*1:というわけで、私は「『女捨ててる』じゃなくて『野生に戻る』って言おう」と言っている。→https://twitter.com/YuhkaUno/status/1007082266806255616

*2:自分はデミセクシャルに近いのだと思う。→デミセクシュアルとは?当事者に聞いてみた【恋愛において大切なのは、絆?】

玉城デニー知事の手話は全然すごくない

 やや煽り気味のタイトルをつけてみました。

先日、こういうTweetTwitter上で話題になっていたんですね。

 

 

で、多くの人がこのTweetリツイートして、「すごい!」「かっこいい!」 と言っていたのです。

 

ryukyushimpo.jp

 

ネット上で話題になったことについて、玉城知事本人はこう言っていたわけですが…

玉城知事は本紙の取材に「手話は自己紹介とあいさつくらいしかできないが、通訳の方の前をいつも通るので思いがけずに出たのだと思う」と説明した。インターネット上で評判を呼んでいることについて「ありがたいですが、なんだか褒められ過ぎです。あくまでもあいさつですから」と話した。

玉城デニー知事の手話「ありがとう」 記者会見に「いいね」2万回 聴覚障がい者が投稿 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

これ、おそらく、謙遜でもなんでもなく、手話学習者としてはこういう感覚なんだろうと思います。いや、手話でなくとも、外国語を習得しようとした経験がある人なら、自己紹介とあいさつができる程度では、自分のことを「すごい」とは思わないでしょう。

私も少しばかり手話を学習したことがあるのですが、あいさつ程度の手話を覚えるくらいは、けっこう簡単です。手が動きさえすれば、ちょっと「手話 あいさつ」で検索して動画や画像を見てみるだけで、わりと誰でも「ありがとう」「よろしくお願いします」くらいは言えるようになるでしょう。

 

まぁ、「Thank you」とか「謝謝」とか言ってるのと同じですからね。逆に、その国の挨拶程度の言葉を発しただけで「すごい」「かっこいい」と言われる言語って、例えば何があるんだろう、と考えてみると……「コサ語」とか「ズールー語」とかですかね……?

玉城知事の手話は日本手話であり、国内言語なわけですが、多くの日本人にとって、日本手話は、英語や中国語やフランス語よりも非日常で、コサ語やズールー語くらい遠い存在だということなのでしょうか。それはつまり、多くの日本人にとって、聴覚障害者が心理的に遠い存在だということなのではないでしょうか。

 

「ありがとう」「よろしくお願いします」くらいの手話なら、みんな知ってる。別に珍しくもないしすごくもない。知事がやったからといって、注目されないし「かっこいい」とも言われない。聴覚障害者の人も、別に驚いたり嬉しいと思ったりしない。

……私は、そういう社会のほうが良いと思います。

 

 

日本手話であいさつ。


ことば紀行「日本手話」【あいさつしてみよう】

 

ところで、手話ができる知事といえば、鳥取県平井伸治知事がいますね。鳥取県は、日本で初めて手話言語条例が制定された県です。

 

〔追記〕

id:NOV1975 でもさ、嬉しいとかすごいと思ってもらえたらやる方の動機は高まると思うんだ

聴覚障害者の人は日本手話と日本語できる人多いから、すごいですよね。日本語と日本手話は、文法も言語形態も違う、それぞれ独立した言語ですから、日本手話で話して日本語で筆談やメールをする聴覚障害者は、2つ以上の言語ができる人ということになります。

考えてみれば、日本手話が第一言語聴覚障害者にとって、日本語は第二言語なわけですが*1、大多数の聞こえる人って、聞こえない人とコミュニケーション取る時に、彼らが日本語で筆談したりするの、特に嬉しいとかすごいとか思わず、当たり前だと思ってますよね…… 

 

※関連記事。これを読むと、手話通訳がマスクではなくフェイスガードをつける理由がわかります(笑)

yuhka-uno.hatenablog.com

*1:日本の聴覚障害者は、大きく分けて、日本語が第一言語の人と日本手話が第一言語の人がいます。詳しくは関連記事『「字幕だけじゃダメ?」←「ダメなんです」~なぜ手話通訳が必要なのか』をお読み下さい。

私はいかにして料理を覚えたか~親の手伝いという「下積み時代」の存在

blog.tinect.jp

 

上の記事を読んで、「そういえば、私はどうやって料理を覚えたんだったっけ?」と思った。

思い返せば、最初のうちは、まだ小さな子供の頃、料理をしている親の傍で簡単な手伝いをするところから始めたのだと思う。ボウルに入ったサラダや和え物を混ぜたり、絹さやのすじを取ったり、ふかしたじゃがいもの皮を剥いたり、シチューを煮込む時に混ぜたり(焦げないように底から混ぜて!と言われた)。ポテトサラダに使うじゃがいもを団扇で扇いで冷ます作業などは、子供が駆り出されるお手伝い筆頭だった。

包丁の扱いにしても、これまた記憶が定かではないのだが、おそらく、ケーキを切り分けるなどの、ごく簡単な作業から始めたはずだ。ピーラーで皮を剥く作業などを経て、最終的には、家庭料理における包丁使いの最難関「包丁で皮を剥く」に到達したと思う。これはよく果物を食べる時に練習した。

親もまた、子供が見ている時は、火が通りにくい食材から入れることや、味付けをする時に今何を入れているかなど、ちょっとした説明をしていた。

 

よって、

例えば、「カレー 初心者 レシピ」という検索ワードでぐぐるとします。

様々なレシピが表示されます。

「初めてでも安心!カレーの作り方」といった文章が表示されます。

優し気な感じに安心してクリックします。

 

而して、そこには例えば最初の手順として、「野菜の皮をむいておきます。」「肉と野菜を一口大にきります。」といったものが書かれているわけです。

 

分かる。分かります。

普通の人からすれば、「野菜の皮を剥く」というのは極めて自明な、あるいは理解しやすい手順なのでしょう。
しかしこちらは初学者です。

例えば人参があったとして、「これはどこまでが排除するべき皮で、どこからが食べるべき実なのか?」ということが判断出来ないわけです。

玉ねぎってあれどこまでが皮なの?本体ないんやけど。

 

あるいは、「じゃがいもはレンジでチンをすると剥きやすくなる」という情報に触れて、レンジでチンをした後直接じゃがいもを触って手を火傷したりするわけです。

めっちゃ熱いやんアレ。

つまり、手順の粒度が大変に荒いというか、本来であれば簡単に脳内で補完出来るところ、その前提知識がない為にこの粒度の手順についていけないわけです。

 この辺りのことは、いつ覚えたのか記憶がない。親の手伝いの過程で、自然に学習していたのだろう。

 

つまり、いきなり料理を一人で一品作る前に、親のアシスタント業という下積み時代があったわけだ。ということは、「初めてでも安心!カレーの作り方」といったレシピは、「もう下積みやってある程度基礎はできてるよね」という前提で、初めて最初から最後まで一人で料理を作るという意味での「初めてでも安心!」という意味なのだろう。

 

そもそもカレーは、料理ガチ初心者の人が作るのには向いていないのではないだろうか。ガチ初心者に教える小学校の調理実習でも、いきなりカレーからは入らなかったはずだ。

私の頃は、初めての料理実習はゆで卵入りのサラダだったと思う。今から考えれば、このメニューは、子供に初めて教える料理として、実に理にかなっていると思う。

レタスは洗って手でちぎり、プチトマトはヘタを取って洗うだけ。きゅうりの輪切りは、初めて包丁を扱うのに向いているし、不ぞろいでもドレッシングをかければ美味しい。ゆで卵で火の扱い方を教え、ドレッシング作りで大さじ小さじで計量するやり方を教える。ゆで卵はエッグカッターで切るので安全だ。

食材を洗う、包丁を使う、火を使う、計量するといった、料理の基本技術が学べて、簡単な一品ができあがるというわけなのだろう。

 

というか、世間の主婦の皆さんは、一体どうやっておかずを二品も三品も用意しているんでしょうか?

なんであんな複雑な工程を同時並行で進められるんですか?本気で謎。

 これに関しては、まずは一品一品を、それぞれちゃんと作れるようになっておく、ということに限ると思う。最初からおかずを二品も三品も作るなんて無理。

だから、カレーはある意味初心者に優しいメニューなのだ。ご飯を炊いてさえおけば、カレーはカレーだけで夕飯として成り立つ。

なので、既に「下積み」ができている初心者が夕飯を用意する場合は、「カレー」とか「シチュー」とか「焼きそば」とか「お好み焼き」とか、一品で成り立つ料理を作るとか、スーパーのお惣菜を活用したりするのが良いのではないだろうか。

 

むしろ、世間の主婦の皆さんが頭を悩ませているのは、「毎日献立を考える」という作業だろう。これは、漫画家に例えるなら「ネタを考える」という作業に当たる。料理ができるようになってしまえば、料理を作ること自体は「作業」だ。面倒だけれどまぁ終わりは見えている。

しかし、「献立を考える」という頭脳労働には終わりがない。しかも、見えない労働なので、社会からこの労働の存在自体がないもの扱いされ、評価されないという目にあってしまう。

主婦業における「料理」という労働は、ざっくり言っても、金額の設定、在庫管理、献立を考える、食材の買出し、調理、配膳、後片付け、ゴミ処理などから成り立っている。つまり、「調理」以外の作業、そして頭脳労働が締める割合がかなり多いのだ。

 

そこのところを理解していないと、松井一郎大阪市長のように、「(女性は)商品を見ながらあれがいいとか時間がかかる。男は言われた物をぱぱっと買って帰れるから(男性が)接触を避けて買い物に行くのがいいと思う」などと発言して、炎上してしまいかねない。人に言われたものを買ってくるだけなら、頭脳労働をしていないのだから、早いに決まっているというわけだ。

this.kiji.is

 

私は、料理を作る上で最も大事なのは「安全」、つまり食中毒予防だと思う。

大人になってから料理をやりだした人にとっては、ここが案外盲点なんじゃないだろうか。ガチ初心者は、料理の手順とか作り方に意識を持っていかれがちだと思う。でも、ネット上のレシピには、生肉を切った後の包丁とまな板でサラダを作るなとか、残りものは冷めたらすぐ冷蔵庫に入れろとか、そういうことは書いていない。

だから家庭科の授業は大切なのだ。ガチ初心者が最初に読むべき本は、レシピ本より家庭科の教科書だと思う。食中毒予防はもちろん、輪切りや千切りや銀杏切りといった食材の切り方、大さじ小さじやカップを使った計量のやり方から書いてある。

 

全く料理ができないところから料理にチャレンジしていった人が書いた本『チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の 理系の料理(著: 五藤隆介)』の中に、既に味付けがしてあってあとは焼くだけの「鶏の香草焼き」の調理に失敗するシーンがある。

“あまりにも「メシマズ(飯が不味い)」な写真で申し訳ありません。
「下味が付いているし、火が通っていれば食べられないことはないだろう?」
仰るとおりです。私も、そう思って口にしました。ところがこの料理、本当に、心の底から、不味かったんです。

焦げ臭いくせに、生焼けの部分がある。

だからと言って、これ以上火を通しても、ますます焦げるだけ。

しかし、不味くて食べきれずに残すという行為は、食材に申し訳ない。

そうは言っても、生焼けの鶏肉を食して良いものかどうかさえわからない。
最終的には「電子レンジ」の存在に気がつき、チンして食べたような記憶があるんですが、それでもやはり不味いものは不味いわけです。

「味付け肉なら焼くだけ」と高をくくっていた結果が完敗でした。”

 私はこの部分を読んだ時、以前から「今時、子供に家事を教えないのは、虐待と言っていいのでは?」と思っていたのが、確信に変わった。私は親から、「生焼けの鶏肉は食べてはいけない。中心まで火を通せ」と教わっていたからだ。

子供に家事を教えないのは、生きていく方法を教えないということ。生活の中の危険とその回避方法を教えないということなのだ。「生焼けの鶏肉は食べてはいけない」と教えるのは、「道路で急に飛び出してはいけない」「コンセントに手を突っ込んではいけない」と教えるのと、同じことなのではないだろうか。

(ちなみに、こうなった原因については、著者は「強火最強」という勘違いをしていたと、本の中で書いている。)

 

また、著者は、食材を無駄にしてしまったことを後悔しているが、確かに、無駄にしないほうが良いとはいえ、人が成長する過程では失敗はつきもの。料理を失敗してしまったり、賞味期限までに使い切れなかったり、腐らせてしまったりといったことは、そこそこあることだ。

以前、料理をしようと思って、食材を無駄にしてしまって、それがトラウマになってまた料理をしなくなった人の話を読んだことがあったけれど、料理ができる人というのは、余程の天才でない限りは、食材を無駄にしたことがないのではなく、無駄にしたことはあるけれど、メゲていないのだ。

ものすごく当然のことだけど、心身の健康と食材とでは、健康のほうが大事。危ない食材や料理は、食べずに捨てたほうが良い。無駄にしてしまった経験もまた教訓なのだから。

 

“ある人が「男性に家事能力を教えてこなかったのは、女性に学問を教えてこなかったのと同じくらい酷いことだ」と言っていたのを思い出した。”

この状況でも飲み屋に通う高齢の父...「家事ができない/妻もいない」彼らの「お台所機能」や「孤独」の問題 - Togetter

 

というわけで、上手とは言えないまでも、子供から大人への成長とともにある程度料理ができるようになっていった人間の話を書いておいた。おそらく、私のようにして料理ができるようになった人間にとっては、冒頭リンク先のような、全く料理ができない人のことはわからないし、全く料理ができない人は、料理ができるようになった人のことはわからないと思ったからだ。

 

 

自炊力 料理以前の食生活改善スキル (光文社新書)

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  • 作者:白央篤司
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どうせ外出自粛だし、家でやりたいメイク動画まとめてみた。〔ネタ記事〕

なんとなくTwitterを眺めていたら、こんな内容のTweetが流れてきた。

togetter.com

自宅でラメラメアイシャドウ塗って真面目に仕事してる人の姿を想像すると、なんだか面白くなった。私自身、マスクをつけて外出するようになったら、なるべくマスクが汚れないようにと、口紅もチークもつけなくなったので、今の環境だと、むしろ家の中のほうが、思いっきりメイクができると言えるのかもしれない。

というわけで、家でやりたいおもしろそうなメイク動画を集めてみた。

 

平安貴族風メイク

平安時代の貴族女性って、御簾の内側にひきこもっていたらしいから、これは在宅メイクにぴったりかもしれない。


麻呂眉おかめメイク☆Japanese Mask "OKAME" Makeup【ハロウィン】

 

古代中国風メイク

眉毛と、額に描く「花鈿(かでん)」がポイントなのかな?ディズニー実写版ムーランみたいなメイクができそう!


-梦诗Nicole- 这才是古妆:寿阳公主仿妆 梅花妆 Princess ShouYang makeup【Plum makeup】Flower Goddess

 

西洋の歴史上のメイク

古代エジプト古代ギリシャ、中世、ロココ時代、ヴィクトリア女王風など。

ロココ時代風メイクは、出来上がったら、菓子パン片手に「パンがなければお菓子を食べればいいのに」って言ってみよう。


Best and Worst Makeup Moments in History #FacePaintBook

 

ミュージカル『キャッツ』のメイク

街のゴミ捨て場に集う猫たちの物語。ゴミを捨てに行くときにやろう。


劇団四季「キャッツ」メイク!本格的な舞台メイクに挑戦 Halloween Cats Makeup

 

歌舞伎メイク

隈取にする?女形にする?それともスーパー歌舞伎


歌舞伎の化粧・隈取

 

懐かしのマンバギャルメイク

ギャルだった人も、ギャルじゃなかった人も、一昔前の時代に思いを馳せてやってみよう。


元ギャルが15年前のマンバギャルメイクを徹底再現!

 

ところで、このブログエントリを書いている間に、こんな記事を見つけた。4ページ目に売り上げが下がった商品の一覧があるが、軒並み化粧品が売れなくなっているらしい。

toyokeizai.net

これを見て、去年見かけたこのTweetを思い出したが、その通りになっていると言えるのではないだろうか。

 

家でやるメイクだし、他人に見せないのなら、仕事のためでもモテのためでもない、完全に自分の楽しみのためにメイクしてみてもいいじゃない!どうせ後で全部落とせるんだから。まぁ宅配便が来るという可能性はあるけどね……

新型コロナウイルス流行当初、「若者が感染を拡大」と言われていたことについての考察

日本でコロナウイルスの感染が広まってきた頃、各種メディアで「若者が感染を広める」と言われたことについて、思うところがあった。前回記事『「字幕だけじゃダメ?」←「ダメなんです」~なぜ手話通訳が必要なのか - 宇野ゆうかの備忘録』において、報道における手話通訳の問題を書くことを優先したため、やや時期を逃した感があるが、今からでも振り返っておこうと思う。というのも、私は以前から、年長者が若者を抑圧したりバッシングしたりする構造や心理に興味を持っていたからだ。

 

www.newsweekjapan.jp

この記事の中で、著者は、「行政やメディアにとって、主な『顧客』が中高年だから」と分析しているが、私は少し違うように思う。私の考えとしては、「顧客」以前に、「行政やメディアにおいて、主に意思決定して情報発信しているのが中高年だから」だと考えている。若者がいたとしても、立場が弱く発言力はないだろう。

 

この手の話は、マイノリティの世界ではよくあることだ。例えば、男性中心の職種においては、男性が下手を打った場合には、個人の資質の問題と見なされるが、女性が同じことをすると、「これだから女は」と、属性でくくられてしまう。犯罪者に外国人や精神障害者や少年が多いような気がするのも、このせいだ。健常者の成人日本人が犯罪を犯しても、わざわざ犯人が日本人であるとか、健常者であるとかは、特に言われない。

コロナウイルス流行初期において、若者がとやかく言われたのも、若者がマイノリティだからだろう。おそらく、中高年の人たちにとっては、自粛しない中高年は「その人個人の問題」と認識するのに対して、自粛しない若者は「これだから若者は」と捉えてしまう。そういう心理が働いたのではないだろうか。

 

私は、結果的にこれはあまり宜しくなかったと思っている。こういった属性でひとくくりにする態度は、それをされた側が不快に思うのも無理はない。今回のことは、若者の協力が必要不可欠なのに、若者をひとくくりにしてしまった。相手に対して失礼なことをしながら、相手の協力を求めていたのだ。

また、本来は「(特に若者は、感染しても症状があまり出ない場合もあるけれど、他の人にうつしてしまう場合があるから)若者は特に気をつけて」という意味なのに、あまりに若者若者言うと、()内のことをすっとばして解釈してしまい、「感染させるのは若者だから、自分は大丈夫」と誤解する中高年もいるのでは……と思っていたら、やっぱりいたようだ。

 

 ネット上では、「若者だけ家にいてくれるとありがたいと思うよ。だって若者いなきゃ感染しないんだから」と言った高齢者男性が話題になっていた。

 

殊更「若者が感染を拡大」と言われ、また、各種ネット上で、それに対して反発する声が上がるようになったのは、大阪のライブハウスでクラスターが発生したのがきっかけだったと思う。実際には、クラスター発生してしまったライブイベントは、40代前後が主な客層だったのだが、各種マスメディアが「若者が」と取り上げたため、また、既に屋形船やスポーツジム等で、中高年の感染が発生していたこともあって、反発を招いたのだろう。

www.asahi.com

2020年3月3日の記事。「大阪のライブハウスに参加した感染者ら」の図つき。ライブに参加したのは30~40代。

 

「ライブハウスで感染」のニュースには、「やっぱりライブハウスも高齢化しているんだな」という感想を書いている人をちらほら見かけたし、私も同じことを思った。ライブハウスに行く人の年代は、若者から中年まで幅広いというのが、私の認識だ。

ライブハウスの客層が高齢化しているのは、おそらく、若い頃にライブハウスに行っていた人が、今も行き続けているからだと、私は考えている。かつてロックは若者の音楽であったが、今では「かつて若者だった人」がずっとロックを愛好し続けているように。

しかし、行政など自粛を呼びかける側には、実際にそのライブイベントに行っていた人の年齢の数字を見ても、「ライブハウスといえば若者」という思い込みが維持されたままの人が多かったのだろうか。これはあくまでも私の憶測だが、自粛を呼びかける側は、自分たちが若かった頃のイメージでライブハウスの客層を想像しているのかもしれない。あるいは、40代前後でも「自分より若いから若者」という認識だったのか(まさか)。

 

“ーー若者が感染を広げているということはどのデータに基づいているのですか?

北海道のクラスター(小規模な感染者集団)を調査しているグループの意見ですね。

それを証明するデータはどこにあるのかと確かに言われているのですが、感染の動きから言うと、感染したのが中高年であろうが、感染した場所に溜まっているのは若者たちです。そこから拡散しているという推論ですが、実際の調査は進められています。

ーーということは、やはり推定とか状況証拠ということですね。

全て数字で証明されているわけではないです。そういうところに行く年代層の集まりから複数の感染者が出ているということです。そこには、症状がないか軽い人で本人も気づかず感染をさせた人がいる、だから感染がわかりにくいという考え方です。

インデックス・ケース(最初の感染者)がどういう人かはわかっていません。隠れた感染者がいるということです。それが若者の集まるライブハウスや閉鎖的な空間だったわけです。”

「流行の封じ込め」から「流行を前提とした対策」へ 専門家「切り替え時期を考えなくてはいけない」

2020年3月6日の記事。「若者が感染させた事実があるのか?」について、かなり突っ込んだ質問をしている。対する専門家の回答は、実際にその場所に来ているのは、若者のほうが中高年より明らかに多かったという事実からのものなのか、「ライブハウスに行くのは若者」という思い込みに基づくものなのか、この内容からは判断できない。

しかし、仮にこの時点で、北海道の事例で「若者が多い」というのが事実だったとしても、大阪での最初のライブハウスの事例はそうではなかったのだし、不要不急の集団を形成するのは若者だけの性質ではないのだから、同じように中高年も危険性があるのは、十分予見できたのではないだろうか。

 

その後、夜の繁華街という、一般に「中高年が行くところ」と認識されている場所でクラスター発生したことで、「もう年代は関係ない」という雰囲気になったという流れだったかと思う。

しかしながら、この時点でも、小池都知事は「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と呼びかけていた。ライブハウスは既に述べた通りだし、カラオケが好きな中高年は多いし、接待を伴う飲食店に行く若者だって沢山いる。

うつったりうつしたりするのに年代は関係ないが、相変わらず「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブ」という思い込みは維持されたままだったようだ。

news.yahoo.co.jp

 

念のため言っておくと、私は「若者は感染させていない。実際に感染させているのは中高年だ」と言いたいわけではない。実際に若者の集まりでクラスターが発生しているケースだってあるのだから。私が言いたいことは、「本来なら、最初から若者・中高年の区別なく、全世代に呼びかけるべきだったのではないか」ということだ。キャリアになってしまう危険性があるのは、若者も中高年も同じだし、違いがあるとすれば、それは年代ではなく、人が密集する場所に行く機会があるかないかだ。

本来なら、最初から全ての人に注意を呼びかけなければならなかったと思うのだが、若者をひとくくりにした言い方をしてしまったことで、若者は「なんで自分たちばかりが」と思い、中高年は「若者がちゃんとしないから」と思うことになり、若者と中高年を分断させることになってしまったのではないだろうか。

最初から全ての人に注意を呼びかけていれば、若者が不満を募らせることも、中高年が誤解したり油断したりすることもそれほどなく、今よりも、若者と中高年が協力関係を築く雰囲気ができていたのではないかと思うのだ。

 

 “荻上:またそういったコロナの対策という点を考えると、一時期、行政からもメディアからも「若者は出かけないでくれ」と言う結構ピンポイントのメッセージが出されていたと思います。

岩田:先ほども申しました通り、過去に起こったことから類推して、その過去に対する対策を立てている形になってるわけですね。若者の間で感染を広げた事例がありました。だから若者は自粛しましょうという考え方では駄目なんです。若者の間で感染が広がった事実はあるにせよ、当然、中高年でも広がる科学的な懸念は十分あるわけです。そうしたメッセージの出し方をするのは、「三密」と一緒で、感染防御には効果的なメッセージにならない。悪い意味での世代間論争になったり、必要のないリスクまで呼んでしまう可能性がありますね。”

【全文字起こし&音声配信】「マスクの意味、アルコールの代用品、BCGの効果…神戸大教授で医師の岩田健太郎さんに聞く新型コロナウイルス感染症対策」2020年4月14日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)

 2020年4月17日の記事。

 

8年前の2012年1月16日の記事。『絶望の国の幸福な若者たち』を発表した古市憲寿氏と小熊英二氏の対談。

“こういう状態の社会で、ニューエコノミーで変動した社会についていけない中高年の違和感と反発がどこに向かうか。どこの先進国も、製造業が衰退し、男性の平均賃金が低下し、女性が働きに出ざるをえなくなり、家族が揺らぎ、結婚できない若者が増えている。それでヨーロッパの場合は、移民が入ってから社会が悪くなったんだ、と語られる。ところが日本の場合は、こんな社会になったのは若者が悪いんだ、携帯いじってモラルが低い、意外と豊かそうなのに生活保護をもらっている、我々を脅かす連中で社会を不安定化させる、といった言説が流行る。これはいわば、日本における移民排斥運動の代替版です。

 

古市 若者バッシングは、ある種、移民排斥運動と同型だということですか。

 

小熊 ヨーロッパなら移民が入るはずの労働市場で若者が働いているわけですから、社会的な代替物になりやすいのでしょう。”

震災後の日本社会と若者 / 小熊英二×古市憲寿 | SYNODOS -シノドス-

当時は若者バッシングが激しい時代だった。小熊氏の、マジョリティ層の不満や不安がどこに向かうかで、欧米の場合は移民に原因を求め、日本の場合は移民が少ないので若者に原因を求めるのだろうという考えは、当時の私も同じことを考えていた。

現代のコロナウイルス禍において、欧米ではアジア系差別があり、日本では若者バッシングがあったことと、どこか似ているのかもしれない。

「字幕だけじゃダメ?」←「ダメなんです」~なぜ手話通訳が必要なのか

連日コロナウイルス関連の報道がなされる中、SNS上では、「志村けん」や「江頭2:50」を表す手話(サインネーム)の存在*1や、手話通訳の人がマスクをつけていない理由などが注目されていました。

www3.nhk.or.jp

 

私自身は、手話に関しては「ワタシ、シュワ、チョットデキル」程度のレベルなので、本来ならこの内容を取り上げるのに相応しい人間ではないかもしれません。ですが、私が知っている範囲で手話に関することを書いていきたいと思います。手話についてもっとよく知っている方、補足、ツッコミ等お願い致します。

 

コロナウイルス関連の報道において、3月末頃までは、記者会見の現場には手話通訳がついているにも関わらず、テレビ画面では、NHK以外の民放では手話通訳が映されていないということがよく目に付きました。このことは、4月1日の国会で横沢高徳議員によって取り上げられたり*2、民間からの提言があったり*3、ネット上で指摘する人がいたりした影響なのかわかりませんが、最近では民放でも徐々に手話通訳を映すようになってきたと思います。

 

ただ、気になるのは、聴覚障害者に対する情報保障について、「字幕でいいんじゃない?」と思っている人が多いところです。冒頭のNHKニュース記事のコメントにも、そういう趣旨のコメントが複数見受けられますね。これ、一般の人だけでなく、行政の広報や報道を担っている人たちも、実はそう思っていた人が多いんじゃないでしょうか。

 

結論から言うと、字幕だけでは不十分です。なぜなら、「日本語」と「日本手話」は、それぞれ別の言語形態で、文法も異なっているからです。これはどういうことかというと、日本の聴覚障害者には、大きく分けて、日本語を第一言語とする人と、日本手話を第一言語とする人がいるということです。

手話が第一言語の人にとっての日本語の字幕は、例えるなら、日本語話者が英語のテロップを読むようなものでしょう。世の中には、英語をスムーズに理解できる人から、頭の中で翻訳するのに時間が必要な人、ほとんど理解できない人までいるように、手話を第一言語とする人の中でも、日本語の理解度は様々です。

つまり、不特定多数の聴覚障害者に対する情報保障を十分に行うためには、手話(日本手話を第一言語とする人のため)と字幕(日本語を第一言語とする人のため)の両方が必要なのです。

 

また、手話においては、表情や口の形も大切です。手の動きだけでなく、表情や口の形にも文脈があるからです。例えば、疑問系の時には疑問を表す表情をつけたり(YesNo疑問文とWH疑問文で表情を使い分ける)、完了形を表す時には、口を「パ」と開く動作がついたり、頷き、首ふりなど、他にも沢山の表現があります。

日本語に例えるなら、「~ですか」という言葉の語尾が上がるか下がるかで、意味するところが違ってきたりするのと、似ているかもしれません。

なので、手話通訳は顔が見える必要があるのですね。

 

ちなみに、冒頭リンク先の、Twitterで話題になった漫画では、「口の動きから相手の言葉を読み取ることを“口話”っていうんだけど…手の動きはあくまでも口話を補助するためにあるんだ」という説明がありますが、これは日本語対応手話の場合であって、日本手話の場合には当てはまらないと思います。

日本で使われている手話は、大きく分けて「日本手話」と「日本語対応手話」があります。日本語対応手話とは、日本語の語順に合わせて手話を当てはめたもので、文法も日本語に沿っています。なので、見た目は同じ手話に見えても、言語形態としては、日本語対応手話と日本語が同じ仲間です。*4

日本語対応手話は、日本語が第一言語の人、難聴者や中途失聴者の間で使われることが多いです。

 

4月7日に行われた大阪府の吉村知事の会見は、手話通訳なしの会見で、知事がマスクをして話していたところ、聴覚障害者の要望を受けて、途中からマスクを外して話す場面がありました。おそらく、口の形を見たかったのでしょう。

もちろん、全ての聴覚障害者が口の形を読み取れるわけではありません。また、読み取れる人の場合でも、非常に集中力を必要とする人が多いそうです。情報保障という点では、手話と文章の両方があったほうが理想的であることに変わりはないでしょう。

 

私は、本来であれば、このことは、およそ行政や報道に携わる仕事をしている人たちの間では、業界の常識として知られているべきことだと思います。

数年前、南アフリカマンデラ氏の追悼式の手話通訳が、実は意味の通らないデタラメ手話だったという件が話題になりました。*5あの件は、多くの人に笑い話として受け取られていましたが、南アフリカで暮らしている手話が必要な人たちのニーズを、政治の中枢にいる人たちが理解していないことの表れかもしれないと考えると、なかなか笑えない話です。

それを考えると、日本はどうでしょうか。行政や報道に関わっている人たちが、手話が必要な人たちのニーズを、これまで理解できていなかったという点においては、南アフリカのデタラメ手話の件を笑っている場合ではなかったのかもしれません。

 

deaf-links.com

togetter.com

 

日本において、手話通訳の数は、ニーズに対して不足しているのが現状だそうです。おそらく、高い技能が求められるのに薄給なのが大きな理由でしょう。

ちなみに、手話通訳に限らず、同時通訳は15分くらいが限界だそうで、長時間の場合は、複数人で交代しながら通訳するそうです。私は詳しくないのですが、こういった会見の同時通訳は、専門性の高い通訳士が3人くらい必要なのではないでしょうか。

特に高齢者など、ネット環境がない聴覚障害者もいることでしょうから、テレビの手話通訳は大事な情報源だろうと思います。

 

障害者基本法 第三条


全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること。

 

第二十二条


国及び地方公共団体は、災害その他非常の事態の場合に障害者に対しその安全を確保するため必要な情報が迅速かつ的確に伝えられるよう必要な施策を講ずるものとするほか、行政の情報化及び公共分野における情報通信技術の活用の推進に当たつては、障害者の利用の便宜が図られるよう特に配慮しなければならない。

電気通信及び放送その他の情報の提供に係る役務の提供並びに電子計算機及びその関連装置その他情報通信機器の製造等を行う事業者は、当該役務の提供又は当該機器の製造等に当たつては、障害者の利用の便宜を図るよう努めなければならない。

 

 

ところで、私は、ほんの少し手話の世界を覗いてみただけの人間ですが、手話について知るということは、言語とは何か、言語はどのように生まれるのか、私たちはどうやって言葉を理解するようになるのかを知ることでもあるのだと思いました。

手話に対するよくある誤解は、「手話は世界共通」「手話は音声言語を手で表したもの」といったものでしょう。手話は、音声言語と同じく、それぞれの土地で自然に発生して成立し、広まっていったものです。なので、手話にはその土地の文化が反映されていますし、方言もあれば若者言葉もあります。

 

例えば、日本手話で「あいさつ」「こんにちは」を表す手話は、人と人が向かい合ってお辞儀をしている様子からきています。「ありがとう」は、相撲力士がご祝儀を受け取る時に手刀を切る仕草からきています。一方、アメリカ手話の「ありがとう」は、投げキスをする動作になります。

また、手話は音声言語とは異なる分布の仕方をしているので、音声言語の場合は、イギリスとアメリカの言葉が似通っていますが、手話の世界では、イギリス手話とアメリカ手話は別の言語で、アメリカ手話はフランス手話から枝分かれして成立したものです。

 

ちなみに、聞こえる人の中には、「手話を世界共通にしたら便利なのにね」と言う人がよくいますが、それは「日本語や英語やフランス語などををなくしてしまって、世界共通の言語にしたら便利なのにね」と言うようなものです。確かに便利かもしれませんが、言葉は文化なので、なくしてしまうのは嫌だと思う人は多いでしょう。

手話の共通語として、人工的に作られた「国際手話」という言語があり、聴覚障害者が集まる国際的な場で使われているそうです。

 

手話を勉強してからは、「ああ、こういう時、お互い手話が話せたら便利なのに」と思う時があります。

例えば、窓の向こうの相手と話したい時。静かにしなければならない環境で意思疎通したい時。飛沫感染予防のため、人と2m以上距離を置いて会話する必要がある時などです。

 

それにしても、なぜ私たちの社会は、手話の一語も知らない人がほとんどなのでしょうか。英語やフランス語、中国語や韓国語などで「こんにちは」「ありがとう」をどう言うのか知っている人は多いのに、手話においては、「こんにちは」「ありがとう」程度の簡単な挨拶すら知らない人が多い。毎年24時間テレビとかやってるのにね!

というわけで、この記事を見た人は、これを機会にいくつか手話の挨拶を覚えてみて下さいね!あと、手話に関する面白い記事のリンクを貼っておきますから、興味が沸いたら見ていって下さいね!

 


今日からできる手話講座

 

ニカラグア手話」…世界で最も新しく成立し、かつ、世界で初めて言語学者がその発生の過程を目撃し記録した言語。人間は言語を生み出す能力を持っているという仮説の裏付けになった。

www.bbc.com

 

手話について「わかっていないことをわかりました」という話。

手話は自然に発生した自然言語であること、長らくそれが理解されてこなかった(というより、今もあまり理解されていない?)こと、日本手話と日本語対応手話の違いなど。

www.tbsradio.jp

 

「ろう者」という言葉について。

“ろう者の意味内容は多義的であるが、主に聾学校卒業者や日本手話使用者、聾社会に所属している人が、自分のこと(自分のアイデンティティ)を「ろう者」と呼称する。音声言語獲得前に失聴した人が多い。また、聴覚障害者という単語には『障害』という言葉が含まれているので、その表現を嫌う人も自分のことを「ろう者」と表すことが多い。手話を堂々と使い、聞こえない自分を肯定している聴覚障害者に、自分を「ろう者」と呼ぶ人が多い。”

ろう者 - Wikipedia

 

 

デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 (文春文庫)

デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 (文春文庫)

  • 作者:丸山 正樹
  • 発売日: 2015/08/04
  • メディア: 文庫
 

 

光野桃『私のスタイルを探して』から読む自己表現の本質~ファッションと企業ブランディングの共通点

「ユニクロでよくない?」の理由~おしゃれの基準が“服”ではなく“技”になった時代』を書いて、バブル期と現代のおしゃれの違いについて考えたことをきっかけに、光野桃氏のエッセイ『私のスタイルを探して』を久々に読み返してみたら、「これ、おしゃれの本質が書かれている本だ…!」と思ってしまった。

以前この本を読んだのは、まだ10代くらいの時だったかもしれない。当時の私は、母親の「おしゃれや流行に興味のない子でいてほしい(金がかかるから)」という願望を内面化していて、おしゃれとは縁遠い芋な子だった。それでもこの手の本を読んでいたということは、やはり潜在的にはおしゃれに興味を持っていたのだろう。

ただ、当時の私は、若すぎたことと、まだおしゃれに目覚めていなかったせいもあってか、書かれている内容がなんだか難しく感じてしまい、また、大人のおしゃれや高級ブランドやミラノのファッションといった話が、自分には遠い世界のことに感じられて、この本の本質を十分に理解することができなかったのだと思う。

 

子供の頃、母親が縫ってくれたワンピースを着て純粋に喜んでいた光野氏は、思春期になると、好きな男の子を意識して着る服に悩み、大学では、当時流行っていた「ニュートラ」な女の子たちに出会って、自分の好みではないものの、人と同じ格好をして安心感を覚えたりする。その後、三宅一生川久保玲といった、当時の名だたるデザイナーが出入りする事務所に勤め、クリエイティブな空気に触発されるも、女性誌の編集部に勤めるようになると、バブル時代の「コンサバ」な女のファッションに身を包むようになる。

しかし、いつも「何かがおかしい」「なにか違う」と思っていたという。「買っても買っても着る服がない」状態だった光野氏は、結婚して夫の転勤でミラノに移住する。ミラノの人々の堂々とした佇まいにショックを受けた光野氏は、ミラノ女性の格好を真似してみるが、街のウィンドウには、ただの地味な東洋人が映っているだけだった。そこで光野氏は「おしゃれのどん底」に陥る。

 

 ここでは誰も、私が生きてきた今までのことを知らないのだ。どんな仕事をやってきたのか、なにを考え、なにに感動してきたのか、だれも知らない。伝える術もない。自分の存在がゼロになったような気がした。それは恐ろしい感覚だった。こんなことはとうてい受け入れるわけにはいかないと思った。

 ミラノ中に聞こえるような大きな声で叫びたかった。私はこんな人間なのよ、と。私はこんな風に感動するの。私はここに居るのだ、と。自分をわかってもらいたい。表現したい。焦がれるような気持ちが胸の奥から衝き上がってきた。

 その時、頭の中でなにかキラリと閃くものがあったのである。ハッとした。これだ、これをファッションで表現しなければ。自分をわかってもらうために、服を着るのだ。そういう服の着方をすればいいのかもしれない。

 考えてみれば、物心ついた頃から人がなにを着ているのかが気になった。流行に遅れていると焦った。人の目を意識し、人にどう思われるかということばかりで服を着てきたのだ。

 しかし、その発想は逆だった。人がどう思うかより、人にどう思わせたいか。自分をどう表現したいかということなのだ。

 

光野氏がミラノで体験したことを読んで、「これって、夏目漱石がロンドンで体験したことと同じだ…!」と思った。夏目漱石は、留学先のロンドンで鬱状態になり、そこから自己確立している。光野氏は、ミラノに行く前から問題を抱えていて、ミラノという外国の地でそれが表面化したわけだが、夏目漱石も全く同じだった。

 

“私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。”

 

“ 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。”

 

 ――夏目漱石『私の個人主義

 

また、私が驚いたのは、光野氏が自分のファッションスタイルを確立させる過程で取った方法が、クリエイティブディレクターである水野学氏が書いた『「売る」から、「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義(著:水野学)』の内容や、その水野氏がディレクションを手がけた、デザインとブランディングにこだわる手法で売り上げを伸ばしている中川政七商店の十三代目社長が書いた『老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道(著:中川淳)』『経営とデザインの幸せな関係(著:中川淳)』の中に出てくる手法と、ほぼ同じものだったことだ。

 

『「売る」から、「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義』によると、水野氏は、中川政七商店のロゴや紙袋や段ボール箱、本社社屋といった「外側」のデザインを手がけてはいるが、商品そのもののデザイン自体を、現代的なものに変えるなどはしていないらしい。

 つまり、流行をそのままもち込んだり、とにかく現代的で美しいものにしたりすれば、それでいいのか、ということ。

 結論からいうと、そのやり方だと、うまくいく場合もないわけじゃないけれど、ほとんどはうまくはいかないでしょうね。実際にぼくも、中川政七商店の商品を現代的に洗練された美しいデザインにしようとは考えませんでした。

 というのも、ブランディングを考えるうえで大切なのは、「似合う服を着せる」ということだからです。

考え方としては、スタイリストに限りなく近い。

一方、光野氏は、自分がミラネーゼの格好を真似てみても、ただの地味な東洋人にしかならなかったことで、ミラネーゼの服は、ミラノの女の魅力を引き立てるためにあるのだと悟っている。

 私は悟った。ミラノ服の定番ともいえるシンプルな紺のジャケットは、骨格のはっきりした顎の線と、広い肩幅があるから着こなせるのだ。

 きれいな色のセーターはこっくりと日に焼けた肌があってこそ、着る人を美しく引き立てる。男仕立ての紐結びの靴に細身のストレートパンツというマニッシュな装いは、彼女たちラテン女の体を流れるセクシーな熱い血を、かえって洗練された形で際立たせる効果があるのである。

 どの服にも、ひとつひとつに納得できる理由があった。ミラノの服は、ミラノの女のものなのだ。

 「ひとつひとつに納得できる理由がある」――これはまさに、デザインの分野でよく言われていることと同じだ。水野氏もまた、著書の中で「説明できないデザインはない」と言っている。

水野氏は、企業のブランディングをスタイリストに例えているが、光野氏も、著書の中で、外見でのプレゼンテーションを企業イメージに例えていた。

 

光野氏は、その後、自分のスタイルを確立させるために、まず自分がどんな人間なのか、内面の特徴を見つめ、紙に書き出していく。

次に、その内面を表現するヒントを掴むために、ファッション誌の中から、気に入った写真を切り取ってきて、スクラップする。ここで、自分の好みのファッションの傾向が明らかになってくる。そして、その中から、自分の外見に照らし合わせて、体型的に無理がありそうなものは外す。最終的に、友人の助けを借りながら、服を決めていく。

こういった過程を経て、光野氏は、日本の流行やミラネーゼの格好といったものから独立した、自分自身のファッションスタイルを確立した。

 

『老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道』『経営とデザインの幸せな関係』の中でも、ブランドを作る過程で、その企業の特徴や将来の希望などについて、こと細かに分析して書き出していくところから始める。

まず決算書を見るところから始めるのが企業ブランディングといったところだが、企業の強みや弱み、将来こうなりたいという理想の形などを書き出し、自分のことは自分が一番よくわからないので、外部の客観的な目線を入れながら、「自分たちは何者か」ということと、きれいごとではない本音の「自分たちがどうなりたいのか」ということを、はっきりさせていく。

ここから、自分たち「らしさ」とは何かというイメージを膨らませ、ブランドや商品のイメージに合った写真などを切り出して、イメージコラージュを作る。こうして、商品デザイン、ブランド名や企業ロゴ、店舗の雰囲気、ウェブサイトやカタログや商品パッケージなどの見た目に落とし込んでいく。

(ブログの都合上、ざっくりと書いたが、実際に本に書かれていることはもっと細かい。)

 

自分が何者なのか、これからどうなりたいのかということを分析してから、客観的にアドバイスしてくれる人の意見を取り入れつつ、切り抜き写真などを集めてイメージを固めていくという工程が、光野桃氏と中川政七商店の手法とで共通していた。『いいデザイナーは、見ためのよさから考えない(著:有馬 トモユキ)』*1というタイトルの本があるが、それは、人のファッションスタイルを決める上でも、企業のブランドイメージを作る上でも、同じなのだろう。

 

クライアントから依頼を受けてデザインするデザイナーの人たちがよく言うことの中に、「丸投げはやめてくれ」というのがある。クライアント側からすると、「自分はセンスがないから…」「デザインのことはわからないから…」と思って、デザイナーに任せれば何とかなるだろうと思ってしまいがちだが、デザイナー側からすると、あなたはどういう会社で、ターゲットはどういう人たちなのか、デザインによってどういうことを伝えて、どういう効果を得たいのか、そういったことをすり合わせて、クライアントとデザイナーで共通認識を持たないと、デザインを作ることはできない、ということなのだ。

 

光野氏が、ミラノの女性に、「あなたにとってファッションとは何ですか?」と問うた時、ある女性はこう語ってくれたという。

「人は誰でも自分のことを、正確に相手に知ってもらいたいと思うのではないかしら。特によいところは積極的にアピールしたいと思うものでしょう。でも、誰とでも一時間じっくり話し込む機会があるというわけではないわ。だから装いというのはとても大切なことなのです。自分というものを一目で端的に相手に知らせる、私にとっておしゃれとはそういう目的があるんですよ」

企業にとって、なぜブランディングが必要なのかも、これと同じではないだろうか。

 

パーソナルカラーや骨格診断や顔タイプ診断などは、とても役に立つけれど、例えるなら、それらは『ノンデザイナーズ・デザインブック』*2に書かれているような、見た目を整える基本技術のようなものなのだろう。

もちろん知識や技術はとても大事だ。それらがなければ思うような表現はできない。光野氏が「人がどう思うかより、人にどう思わせたいか」ということに気付いた時点から、自分のスタイルを確立できたのも、もともと光野氏にファッションに対する十分な知識と技術があったからだろう。もし光野氏がファッションを見る目が鍛えられていない人だったら、そもそも、自分がミラノの女性と同じ格好をしても似合わないということに気付くこともできなかったであろうから。

しかし、ある程度技術を身に着けた先にあるのは、その技術を使って何を表現するかだ。最終的には、自分はどういう人間で、服を着ることによって、自分はどうなりたいのかが大事なのだと思う。

 

日本では、わりと近年まで、ファッションは「若い女の子のもの」と思われ、中年以上の女性たちがおしゃれをする存在として認知されていなかったと思う。やっと最近になって、60代以上の女性ファッション誌が創刊されるなどしているけれど。

これは、長らく「おしゃれは、女が男に好かれるためにやるもの」という男性本位な偏見があったからだろう。それゆえ、ファッションは「女がするもの」として、一段下に見られ、軽薄で役に立たないものとして見なされていた。「若くない女がおしゃれしても無意味」という男性都合の目線もあっただろう。

しかし、この本を読んでいると、やはり、おしゃれとは自己表現であるし、他の知識や技能と同じで、経験として積みあがっていくものなのだと確認できた。若い頃は、まだ自分自身のことがよくわかっていないから、人の目が気になるし、周りに流されてしまいがちだけれど、年齢を重ねて、自分というものがわかってきて、ファッションの経験も積んで、自己確立できるようになると、その人のファッションスタイルも完成度が上がってくる。そういうことなのだと思った。

 

 

『私のスタイルを探して』について書かれたブログがありました。

quelle-on.hatenadiary.jp

 

 

私のスタイルを探して (新潮文庫)

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経営とデザインの幸せな関係

経営とデザインの幸せな関係

 

 

*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4061385623/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_4H2jEbTP4YCG3

*2:デザイナーではないけれど、プレゼン用スライドやチラシや文書などをデザインをする必要がある人のための、基本的なグラフィックデザインのテクニックが書かれた本。デザインの世界ではとても有名な本で、デザインについて説明する時によくこの本の内容が引用される他、この本を読んでデザイナーになった人も多い。https://www.amazon.co.jp/dp/4839955557/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_2E2jEbCX39DGV