宇野ゆうかの備忘録

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不登校やひきこもりが回復できなくなるメカニズムについて

タイトルにはこう書いたけれど、ひきこもりや不登校の要因や環境は様々で、一概にこうとは言えないことを、最初に言っておかなければならない。だから、これから書くことは、全ての類型に当てはまるわけではない。ただ、私自身が体験し、そして、他のひきこもり状態にある(あった)人の話を見聞きした経験から、よくある類型について話してみようと思う。

 

結論から簡潔に言うと、本人は「生きるか死ぬか」というレベルの状態にあるのに、家族や周りの大人たちが、本人のことを「学校に行くか行かないか」「働くか働かないか」というレベルでしか考えていないという状態に陥るのが、不登校やひきこもりが回復できなくなるメカニズムだ。

 

例えば、もしあなたが事故に遭ったり病気になったりして、身体が生きるか死ぬかというレベルの状態になったとしよう。そういう時、家族があなたの状態を理解せず、「なんで働かないの?」「学校に行きなさい」と言ってきたら、どうだろう。そして、必要な治療を受けるための費用を自分で払うことができず、病院にも行けなかったとしたら。

あるいは、もしあなたのお子さんが、身体が生きるか死ぬかというレベルの状態になったとしたら、学校へ行ったり働きに出たりすることを求めるだろうか。むしろ、子供本人が「学校へ行かなきゃ……」「このままだと将来が心配で……」と言ったとしても、「今はそんなこと考えなくていいから、とにかく休みなさい」と言うのではないだろうか。

 

ひきこもりや不登校の経験者には、「あの頃は死にたいと思っていた」と語る人は多い。(人によっては「消えたい」と表現することもある。)そこまでは思っていなかったとしても、少なくとも、精神的に重いダメージを受けている。

心と身体は似ていて、身体が「生きるか死ぬか」というレベルの状態にある時には、とても働くなどということはできないように、心が「生きるか死ぬか」というレベルの状態にある時も、とても働けるような状態ではない。「生きるか死ぬか」というレベルの怪我や病気をした場合に必要なのは、適切な治療と安静であるように、心が「生きるか死ぬか」というレベルのダメージを負った場合も、それは同じなのだ。

 

心が「生きるか死ぬか」というレベルの状態では、むしろ、無理に働いたり学校に行ったりしたら、命の危険すらある。しかし、その状態を家族から責められ、心を傷つけられるので、家庭は休息と回復の場にならず、逆に、自分を学校や就業の場に戻そうとする親から身を守るため、常に「死なないための戦い」を強いられる場所になる。かといって、収入がないから自主的に治療を受けられないので、家庭の外に回復の場を持つことも難しい。

こうして、ひきこもりは回復不可能な状況に陥ってしまう。私は、これがひきこもりが回復できず長期化するメカニズムだと思っている。傍目には何もせず休んでいるように見えても、本人の精神は全然休めていないのだ。

 

こう考えると、家族を避けて自室に閉じこもる、ゲームやネットばかりする、昼夜逆転するといった、ひきこもりにありがちな行動も、全て「死なないようにするため」で説明がつく。

「なんで働かないの?」「なんで学校に行かないの?」と言ってきて、自分を否定的な目で見る家族と接していると、死にたくなってくるので、死なないために家族を避けて過ごす。

「死にたい」という気持ちを紛らわせるために、外出しなくてもできる気晴らしをする。結果的にそれがネットやゲームになる人は多い。ゲームをしている間は、少しだけ「死にたい」という気持ちを忘れられる。ネット上なら匿名性が確保できるから、ある程度安心して他人とコミュニケーションが取れるという理由もある。

自分が普通に働けなかったり学校に行けなかったりすることで自己肯定感が失われているひきこもりにとって、世の中の人が働いたり学校に通ったりしている昼間の時間帯は苦痛だ。それに、昼間は玄関のチャイムを押されたり、家に電話がかかってきたりして、家の外の人がアクセスしてくることもあるから、安心できない。だから夜のほうが落ち着く。

将来のことは考えないようにする。考えると、絶望的なイメージしか浮かんでこなくて、死にたくなるからだ。

 

「死にたい」というのは、なかなか打ち明けられるものではない。「こんなこと、親が聞いたら悲しむ」と思うし、あまりにも理解のない答えが返ってきたら、かえってさらに心にダメージを受けるからだ。なので、言うのは慎重になるし、言う相手は選ぶ。(ただ、我慢し切れなくなって言ってしまう場合もあるけれど。)

訓練を受けていない人は、誰かから「死にたい」と打ち明けられると、「何を言ってるの」「そんなこと言っちゃダメだよ」と答えてしまいがち。しかし、死にたい気持ちになった人が回復していくには、安心して「死にたい」と言える環境が必要だ。

 

また、子供がひきこもりになると、親が子供に自分の不安感をぶつける関係になりがちだ。

「機能不全家庭」でよく言われる不健全な親子関係というのは、親と子の役割が逆転してしまっている関係だ。本来であれば、親が子の不安感を受け止めてあげるところが、子が親の不安感を受け止め、なだめてあげる関係になってしまっていたりする。

子供が不登校やひきこもりになってしまうと、親は不安になり、子供に対して、自分が不安に思わない行動を期待し要求するようになってしまう。つまり、「学校へ行け」とか「働け」とか「将来のこと、どう思っているの?」などと言ってしまう。

こうなると、本人は既に心をすり減らしている状態なのに、さらに親の不安感を受け止めることを求められる状態になる。本当は、本人が不安感を抱えていて、誰かにその不安感を受け止めてもらう必要があるにも関わらず。

なので、親の不安感は子供にぶつけず、カウンセラーや家族会などの人に受け止めてもらい、ひきこもりはひきこもりで、自分の不安感を受け止めてくれる存在が必要になる。

 

となると、ひきこもりが回復するために必要なことは、自分が今、とても働けるような精神状態ではないことが理解されて、十分な休息が取れる環境だ。そして、必要であれば精神科に行ってカウンセリングを受けられたり、ひきこもり支援のサポートを受けられることだ。

ひきこもりや不登校において「居場所」のニーズがあるのは、実は家では全く休めておらず、今の自分の状態を責められることがない「居場所」に来て、やっと休める状態になるからだろう。

 

また、ひきこもりが社会に出て行く時に一番の壁になるのが、「世間の、ひきこもりに対する攻撃的な目線」である。おそらく、これが一番の、不登校やひきこもりが回復できなくなるメカニズムだ。そもそも、ひきこもりに対する親の接し方は、世間のひきこもりに対する認識の反映である。つまり、世間がひきこもりに偏見を持っているから、親も偏見を持つのだ。

ひきこもりに一生ひきこもってもらう一番良い方法は、「ひきこもりは甘え」と言うことである。

 

私は、不登校やひきこもりになった子供に対して、周囲の大人がまず心配するべきことは、「勉強が遅れる」とか「このままだと将来が~」とかではなく、「この子、精神的にかなり辛いんじゃないかな」だと思う。たしかに、勉強は後から取り戻すのは簡単ではないが、心身の健康は、それ以上に取り戻すのが難しいのだから。そして、勉強は、心身が健康でないとできないから。

そして、専門家に相談してほしい。いくら子供に対する愛があっても、病気や怪我は親の愛だけでは治らない。それと同じだ。

 

“ーー不登校になるんじゃないかとか、そのまま引きこもって社会に出られなくなるのではないかと親は心配するのでしょうね。

気持ちはわかりますが、自殺既遂者の調査で興味深いなと思ったのは、若くして自殺している人はみんな、中学などで不登校の経験を持っているということなんです。7割か8割、不登校の経験があります。

でも驚くことに、不登校の子は通常そのままズルズル学校に行かずに引きこもることが多いのですが、自殺した子供はほぼ全員学校に復帰していたんです。

不登校になるほどしんどかったのでしょうけれども、周りの意向に応えて頑張って行ったのでしょうね。その代わりに命を縮めた可能性があります。不登校を続けていたほうが生き延びていたのではないかという気さえするのです。

自殺予防の観点から言えば、不登校を恐れるべきではないのだろうと思います。”

不登校を恐れるな 誰かとつながっていればいい

 

“この言葉を聞いて私はやっと気がつきます。”

“娘の苦しみは思ってる以上に深いこと。
誰もが認めるような理由が見えなくても甘えなんかではないこと。

そして休んだからと言って気持ちは全然休めていないということに。”

woman.excite.co.jp

これを見ると、最初のうち「しっくりこない」と思っていた、病院の医師の「学校に戻そうと思っているうちは子どもは動かないよ」と言うのは、その通りなんですね。子どもからすると、学校に戻されたら命の危機だもの。

この親御さんは、娘さんの「消えたい」という言葉で気づけたけれども、気づかない親も沢山いるからね……

 

 

 

もしも「死にたい」と言われたら  自殺リスクの評価と対応

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「性格重視」の人に対する誤解~内面で選ぶ人は、よく話したことがない相手と付き合わない

 

わりと以前のTweetの話を今さらするのも何だけど。当時、上のやり取りを見ていて、こう思った。

「そもそも、性格重視の人間が、よく話したことのない人間と付き合うわけないから……」

あと、顔の見えないTwitterでなんで容姿差別してることになるんだろ……

 

私はデミセクシャル*1に近い人間だと思うので、性格重視と言っていいのかもしれないけど、今まで他者に恋愛感情を持った経験を振り返ってみれば、よく話すようになってから好きになるまで、だいたい半年近くかかっている。

容姿の許容範囲が広い人は、容姿以外の部分が主な判断基準になっていることが多い。そして、その部分については、容姿が判断基準になっている人より、許容範囲が狭いかもしれない。容姿重視の人間が、容姿の好みにうるさいように、性格重視の人間は、性格の好みがうるさい。つまり、性格重視の人間は、人を性格でえり好みするのだ。

 

あと、「性格重視=ブサイクと付き合う」ではない。「性格重視=容姿にこだわらない」なので、性格が合った相手がたまたまイケメンだった場合なら、そのイケメンと付き合うこともあり得る。(もっとも、私が今まで好きになった人たちは、全員容姿レベルがさほど高いわけではなかったけれど。)

「私は性格重視」と言った人に対して「嘘つけ!じゃあブサイクと付き合ってみろよ!」って言う人は、「イケメン=性格悪い・ブサメン=性格良い」というふうに、容姿と性格をごちゃまぜにして認識しているんじゃないかな。内面で判断するっていうのは、容姿評価と性格評価を切り分けて考えるってことなんだけど。

非モテをこじらせてしまった男性で、「モテ=イケメン、非モテ=ブサメン」と思い込むあまり、彼女持ちの男や既婚男性が全員自分よりイケメンに見えてしまう人がいたけれど、これも容姿と性格をごちゃまぜにしている例だろう。あと、「俺の気に入らない女=ブス・ババア」と認識したりする男性も。

 

というわけで、性格重視派の人間がされがちな誤解について書き出してみた。

 

  • 「じゃあ付き合って」

初対面の人とは無理です。(自分で自分の性格が良いだなんて、大した自信だな……)

 

  • 「じゃあ○○(ブサイクで有名な芸能人)とも付き合えるの?」

一度も会って話したことがないので無理です。

  • 「○○(イケメンで有名な芸能人)が告白してきても、付き合わないの?」

一度も会って話したことがないので無理です。

 

  • 「性格重視なら、イケメンとは付き合わない(ブサイクと付き合う)はず」

性格が合った相手がたまたまイケメンだった場合は、イケメンとも付き合うでしょう。というか、「イケメン=性格悪い・ブサイク=性格良い」という思い込みって、完全に他人を容姿で判断してるよね……

  • 「寛容なんだね」

容姿重視の人間が、容姿の好みにうるさいように、性格重視の人間は、性格の好みがうるさいです。むしろ、「イケメンだったらOK」な人のほうが、ずっと寛容なんじゃないかとすら思えます。

  • 「性格の良い人が好き」

性格が良いのはもちろん最低条件ですが、気が合うかどうかも大問題なので、「話題の共通点がない」「ノリやテンションが合わない」などの、わりと理不尽な理由で付き合いに至らないことがあります。

  • 「イケメン/美女に興味がない」

美しいものを美しいと思う感性があるように、美しい人を美しいと思う感性はあります。しかし、その人と付き合ったりセックスしたりしたいかというと、それはまた別の話です。

例えば、クジャクは美しいし、クジャクと道ですれ違ったらつい二度見してしまいますが、クジャクとセックスしたいとは思わないでしょう。

 

  • 「おしゃれやファッションに興味がない」

ファッションは、絵画や音楽などと同じ自己表現なので、自分自身や他人の自己表現に興味を持つことはあり得ます。

そもそも、全ての人のおしゃれをする動機が「モテたい」から始まるわけではありません。これを書いている私は、おしゃれやファッションに興味があるほうですが、「世界の民族衣装」「日本のファッション100年」みたいな本を読んでいたところで、別にモテたりはしませんしね。

 

たぶんだけど、「よく話したことのない人間と付き合うわけない」というのは、性格重視派の人間なら、感覚的に理解できることだと思う。それが理解できないということは、つまり、その人自身が、相手の中身に興味を持っていないということなんじゃないかな。

性格重視の人間は、相手が自分の中身に興味を持っていないことを察したり、まだ十分にお互いのことを分かり合ったとは到底思えない時点で好意を顕わにされたりすると、「この人は、私の何をわかっているんだ?」「私はあなたのことをよく知らないし、あなたも私のことをよく知らないよね?」と思って、引いてしまいがち。

外見は一瞬でわかるけど、中身は理解するまでに時間がかかる。性格重視の人間だって、テレパシー能力の持ち主ではないので、付き合うまでに、お互いをよく知るための十分な期間が必要なのだ。

 

……ただし、「この人、私がどういう人間なのかってことに興味がないし、付き合えるなら誰でもいいんだな」と思った場合には、その時点で「ナシ判定」が出てしまう可能性が非常に高いし、ましてや、ふられたからといって怒り出す人は、他人の性的自己決定権を尊重できない、暴力的な人だという内面が一発でわかってしまうから、もちろん「ナシ」だ。

「アリ」かどうかの判断には時間がかかるが、「ナシ」はわりと早い段階でわかること、けっこうあるよね。(というか、男を顔で選ぶ女を嫌悪しておきながら、自分は女性の内面を見ようとしていないって、どうよ……)

 

それに、「女は気持ち悪いオタクと付き合うのが嫌だから暴力的な男とでも付き合う」って言うけど。まぁ「気持ち悪いオタク」はともかく、「好みじゃない相手と付き合うのが嫌だから、今のところ誰とも付き合ってない」っていうのも、普通にあるよね。これ男でも女でもある。

私自身、モテることにさほど興味を持ってこなかったので、お付き合いセックス等未経験の期間を長く過ごしたし。

まぁ世の中、常に付き合う相手がいないとダメな人もいるけど、そうじゃない人だって普通に沢山いるしね。というか、そうじゃない人のほうが多いんじゃないかな?常に付き合う相手がいないとダメって、恋愛依存っぽい。

 

「暴力的な男」が女と付き合えているケースに関しては、世の中悪徳商法で儲ける人もいるよねっていう話だと思う。実際は普通に商売してる人のほうが多い。売るための方法や戦略も、客層や商品によって様々。幅広い層にウケる路線もあれば、ニッチ層の需要を掴む路線もある。ただ、やっぱり「商売下手」な人はいるよね、ということかと。

男性だって、タチの悪い女に引っかかってる人は沢山いるわけで、そういう自分は絶対に大丈夫だと言い切れるのかな?と思いました。ほら、詐欺啓発でも「『俺は絶対に騙されない』って思っている人ほど騙されやすい」って言うしね。他人事じゃないと思うよ。

 

私は、選ぶ基準が容姿でも中身でも良いと思う。他人のことを、容姿に恵まれないからといってバカにしたり、容姿関係ない場で容姿基準を持ち出すのが良くないんであって。ただ、今の世の中、それが徹底されていないから、ミスコンの開催とかも色々微妙になるんでしょうね。

 

ちなみに、私が今まで付き合ったり親しくなったりした男性には、「親しくなった相手じゃないとセックスしたいと思わない」という人が多かったですね。類友

 

 

 

 内面を重視する女性ほど、お互いをよく知らない段階で早急にアプローチしてくる男性は選ばないからね……というか、「知り合い」程度の仲の段階では、まだ恋愛を意識してないな。

 

 

あと、最後に言っておきたいことがある。

女にもオタクいるよ!?*2

ていうか、創作側は昔から女のほうが多いからね。コミケの歴史調べてみて!

それに、もともと「オタク」って「モテない人」っていう意味じゃなかったよね?そういう人は「非モテ」って言うんじゃないの?

 

 

「私は性格重視」と言った途端に「じゃあ付き合って」と言ってくる人って、随分自分の性格の良さに自信があるんだなーと思うけど、うん……まぁ……ね。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

 

なかみグラフィックス

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  • 作者:Juan Velasco,Samuel Velasco
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愛するということ 新訳版

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*1:心が繋がった相手だけに性的魅力を感じる性的指向、デミセクシュアリティ(半性愛)とは

*2:これを書いている人は、中学生の頃から同人活動している創作系オタクです。最初はつけペンスクリーントーンを駆使して漫画を描いて、ネット時代になってからは、html直打ちでイラストサイト作って運営してました。『ダミーエンター』とか『毒吐きネットマナー』とか、懐かしいよね。

なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか・後編 ~学校の服装指導から考える

前回記事『なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか・前編~着物との比較から考える』においては、(特に男性が)ファッションに取り組もうとして失敗し挫折する要因として、現代日本における着物と洋服、それぞれの衣服をとりまく現状から考えた。

私はもう一つの理由として、学校における服装指導の影響があると思っている。

 

前回記事の引用文に「いやぁ、男は毎日スーツを着ているうちは、どうでもいいやって思っちゃうんですよ。」とあるが、多くの男性がそう思ってしまう理由として、スーツを、中高生時代の学生服の延長だと認識してしまっているというのがあるのではないだろうか。

 

“最近、娘の学校説明会などでスーツを着る機会が多い。僕は企画業という仕事柄、Tシャツと短パンというラフな格好が多く、スーツは慣れていない。むしろスーツを着ることに対して抵抗感すらある。

そんなわけだから“スーツ着用”って書かれていても、なるべく手を抜こうとしてしまう癖がある。普段手ぶらだから鞄を持たなかったり、暑ければノーネクタイにシャツだったり。まぁそれでも我慢して着てる分だけ偉いと思ってた。

ただ、その様子に見かねた妻が、あんたなぁ…と呆れた顔して問うてきた。

「なんなん?そのスーツの着こなしは?」

いやいや、ちゃんと着てるやん。と答える俺

「あんたさ、スーツはなんのために着ると思う?」

えっ、、場の風紀を乱さないためでしょ。”

個性と惰性を履き違えるな。|高木新平|note

引用元の内容は、「型があるのが『型破り』、型がないのが『型なし』」という、巷でよく言われていることそのものだろう。

私は、この文の「風紀」という言葉から、学校的なものを連想してしまった。スーツを着る理由を「場の風紀を乱さないため」と思うのは、もしかしたら、校則で縛られていた学生服時代の延長でスーツを捉えているからではないだろうか。

 

学校における服装指導と、社会一般のドレスコードやスーツの着方は、違うものだ。思い出してみても、制服を着ていた頃の学校生活の中で、結婚式や葬式に何を着ていくかや、「スーツを着る時は、座った時でもスネ毛が見えない長さの靴下をはくように」といったスーツの着方について、教わった記憶はない。

……つまり、学校は熱心に服の着方を指導するが、社会一般で通用する服装のルールについて教えているわけではないのだ。学生時代に真面目に校則を守っていた人のスーツの着方がおかしいというのは、よくあることである。

しかしながら、服装を指導する教員は、指導する理由を「学校は社会に出るための場。そのための生活指導」などと言ったりするので、学校の校則というローカルルールと、社会一般に通用する服装のルールを、混同してしまうのだろう。そもそも、指導する教員自身も混同していることが多いのではないだろうか。

 

多くの学校では、生徒のおしゃれ――外見的自己表現に対して、あまり良い顔をしない。なので、学生服を着ている期間においては、「きちんとした学生服=おしゃれじゃない」「校則違反の学生服=おしゃれ」みたいな図式ができあがる。

その結果、個性を出したいタイプの人にとっては、学生服の延長として認識してしまっているスーツを、「おしゃれじゃない」と思い、逆に、勉強ができる優等生だったことがアイデンティティになっている人や、おしゃれに対して苦手意識がある人は、「おしゃれ=校則違反するような連中がするもの=チャラ男&キラキラ女子=バカ=自分はあんな連中とは違う!」という、鬱屈した偏見を育ててしまうケースも多いのではないだろうか。

 

しかし、実際には、スーツをおしゃれに格好良く着こなすには、スーツに対するリテラシーが必要だ。この部分は、前回記事で述べた着物の着こなしに対するリテラシーと似ている。多くの人は、着ている人が同一人物であっても、スマートに着こなしたスーツとそうでないスーツを並べられれば、どちらがスマートかの見分けはつく。しかし、どこがどう違うのか、何をどうすればスマートに着こなせるのかは、知識が必要になってくる。

これらは、学校で言われた「髪を染めるな」とか「ピアスを開けるな」などといったこととは、全く別のことだ。着物をきれいに着付けられるかどうかが、それらのこととは全く別のことであるように。

 

前回記事で、「『フォーマルな着物はわかるけど、浴衣や着流しはわからない』という人は、あまりいないだろう。」と書いたが、私は、スーツの着方がわかれば、おのずとカジュアルもわかるものだと思う。

なぜなら、スーツの着方がわかるということは、沢山種類があるジャケット、パンツ、シャツ、靴、靴下、ベルト、ネクタイなどのアイテムのうち、どれがフォーマル用でどれがカジュアル用かがわかるということだからだ。そして、洋服の中ではスーツのサイジングが最も厳密なので、自分に合ったサイズ感やシルエットがわかるということだからだ。

 

洋服は、なまじ、子供の頃から当たり前に着ていた衣服なだけに、基礎から洋服の着方について解説する本が少なかったし、自分がどこから洋服のことを知らないのかも知らないし、当たり前だと思っていることを問い直してみたり、一から調べてみるという発想ができにくいのかもしれない。

あまりにも身近で当たり前にあるものなので、意識することは少ないが、スーツだって、着物と同じように、西洋の衣服の歴史と文化の上に成り立っているものなのだ。

 

一方、スーツの着方云々とは別に、日本のクールビスに限らず、海外でも服装はカジュアル化していっているが、こういったカジュアル化の波は、時代の流れとして自然なものだと思う。

20世紀初頭の貴族の邸宅の人間模様を描いた英国のドラマ『ダウントン・アビー』では、グランサム伯爵がタキシードを着ながら「こんなカジュアルな服を着る時代になってしまった」とぼやくシーンが出てきたが(つまり、これまではこういう場面では燕尾服を着るものだったという意味である。)、100年程経った現在、再びカジュアル化の大きな転換期が着ているのだと思うと、ちょっと面白い。

あと何十年か経ったら、スーツはそれこそ冠婚葬祭の時にしか着なくなるかもしれない。その時には、今時の若い子に「私が若い頃は、スーツを着て仕事をするのが当たり前だったんだよ」なんて言ったりしているのだろう。

 

余談だが、“スーツ着用”と書かれているということは、「スーツまたはスーツと同格の民族衣装」として考えて良いだろう。グローバルなドレスコードは大抵そうなっている。ここでもし「民族衣装はダメ」と言ったら、民族差別になってしまうからだ。なので、スーツが嫌ならスーツと同格の着物姿で行くという手もあるだろう。

ま、場合によっては、「そもそも、ここって本当にスーツ着ていく必要あるの?」ってケースもあるだろうけど。*1

 

まぁ色々言ったけど、「なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか」については、結局、女性より外見に気を使う文化がないからっていうのが、一番の理由だと思うけどね!(ミもフタもない)

実はこれもけっこう大きな原因で、女性の場合だど、ギャルでもキラキラ女子でもない人が普通におしゃれだったりするけど、男性の場合、女性よりおしゃれする人の絶対数が少ないから、身近にロールモデルが見当たらないというのもありそうだな、と思う。

なぜ(特に男性は)ファッションに失敗する人が多いのか・前編 ~着物との比較から考える

前回記事『ダサい服はなぜダサいのか。また、人はなぜ「ダサい」に過剰反応してしまうのか。』を書く上で、着物と洋服の違いについて考えていたところ、(特に男性が)ファッションに取り組もうとして失敗し挫折する要因の一つが見えてきた気がするので、書き留めておこうと思う。

 

前回記事では、着物と洋服のおしゃれの基準の違いとして、着物は服の形は同じようなもので、色と柄でバリエーションを出す文化があるのに対し、洋服は服の形のバリエーションが多く、着た時のシルエットを重視するということを書いた。

 

ここまで散々「洋服はシルエット」と言っておいてなんだけど、私は、実は、着物もまずシルエットが大事な衣服なんじゃないかと思う。いくら長着や帯や半衿等がおしゃれな組み合わせであっても、着付けがイケてなかったら、決してサマにならないからだ。

日本で育って、着物を見慣れている人にとっては、着物を見慣れていない外国人が自分で着てみた姿は、なんとなくおかしく感じる。しかし、着物を見慣れていない人にとっては、着付けの違いはよくわからないかもしれない。

つまり、着物を見慣れている人は、その外国人の着付けが変だと思う程度には、着物のファッションリテラシーがあるということだ。

 

着物は、「着付ける」ということによって、着る人が自分でシルエットを作る服で、洋服は、(ネクタイを結んだり、裾を入れたり入れなかったり、自分でシルエットを作る部分もあるけれど、)大部分は、服を選んで買う時点で、シルエットを作る服なのだと、私は考えている。

今でこそ、既製品の中から自分に合うサイズのものを選び取るのが、普通の洋服の買い方だけど、昔は、身体の寸法を測って、その人の身体のサイズに合わせて仕立てるのが、一般的な洋服の作り方だったのだから。

 

(※スーツのフィッティングとサイズ選びについて。)


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思うに、苦手な人が取り掛かっておしゃれになるには、実は着物より洋服のほうが難しいのではないだろうか。

着物は、既に日常的に着る人が減って久しく、着たいが着方がわからないという人が多い。そのため、いちから着物の着方を解説した本の需要があり、そういう本は沢山出ている。「着物が着たい」と思った人は、まず一般書籍コーナーに行って、着物の着方についての本を探すところから始めるだろう。着物のファッション誌ではなく。*1

そして、本を読んでもわからなければ、誰かに教わろうとするだろう。巷には着物教室もあるのだし。

 

一方、おしゃれが苦手な人が、洋服のおしゃれをしようとすると、大抵、まずファッション誌を読むことから初めてしまう。「おしゃれといえばファッション誌」と思い込んでいるため、一般書籍コーナーに行こうという発想ができない。そもそも、一般書籍のファッション解説本の存在自体知らない。

そして、独学で頑張ろうとしてしまう。(ファッション好きな友達がいれば、その人に聞くかもしれないが、こういう人の周りには、ファッショナブルな人がいないことが多い。)ファッションアドバイスのプロに頼もうという発想がない。そもそもそういう人の存在自体を知らないから。

 

つまり、着物に取り組もうとする人は、「着物の基本的なことを解説した本を読み、人に聞く」という工程を踏む人が多いのに対し、洋服のおしゃれをしようとする人は、「服の流行を紹介するファッション誌を読み、独学でやろうとする」という工程を踏む人が多いのだと思う。どちらが上手くいきそうかは、明らかだろう。

 

これは、着物の場合、服の着方についての基本的な本が存在しているということと、初心者に着付けを教える仕事をしている人の存在が、広く世間に知られているからだろう。その分、着物ファッション誌の存在はあまり知られていない。

一方、洋服はというと、特にメンズファッションについては、今でこそMB氏をはじめ様々な本が出ているが、2000年代以前は、特にカジュアル方面はほとんどないも同然だったし、*2「パーソナルスタイリスト」や「イメージコンサルタント」といった、洋服のファッションアドバイスをするプロの存在も、ファッション感度が高い人は知っているが、低い人は知らない状態だと思う。そして、ファッション誌の存在感がありすぎる。

つまり、洋服のおしゃれがしたい人にとっては、着物に比べて、上達しやすい手順が踏みにくい状態なのだ。

 

これは、普段、みんなが日常的に着ている衣服だからこそ、起こることなのかもしれない。誰もが着物を着ていた時代、わざわざ着物の着方から解説した本はなかったのではないだろうか。一方、戦前の日本では、洋服の着方に関する本は需要があったようだ。

実のところ、私たちは、普段、日常的に洋服を着てはいるが、案外、洋服のことをよく知らないのだと思う。日本人が洋服を着始めたのは、明治時代からだったが、一般庶民に至るまで、誰もが洋服を着るようになったのは、まだ数十年のことだ。

 

“――月曜から金曜までスーツを着ている男性の中には、何十年もスーツ以外の服を全然買ってこなかったという人も多い。おじさんが土日に着る私服がひどいという話はよく聞きます。

MB:男性は結構危機感を持っていますよ。僕がやっているファッション指南のメルマガ読者は、当初から上の年代を狙っていたんですが、蓋を開けてみると思った以上に多かった。65歳で定年を迎えて、スーツを脱いだ瞬間に何着ていいかわかんなくなるんですよ。

米澤:65歳か。もうちょっと早く気付けなかったんですかね。

MB:いやあ、男は毎日スーツを着ているうちは、どうでもいいやって思っちゃうんですよ。だけど、いざ定年して第二の人生となった時、自分の服装ってこれでいいのかな?って思うけど、そんなにお金もかけられない。だからユニクロでかっこよくなる方法を教えてくださいって、僕のところに駆け込み寺のようにやってくるんです。”

 

“MB:カジュアルにしなきゃいけないのに、どうやってカジュアルにしていいか、わからないという男性は多いです。結局、男はファッションに対するリテラシーが培われていないんですよ。女の子はお母さんから服の良し悪しや着方を教えてもらうけど、我々男は父親から教えてもらったことがない。だからリテラシーが存在しない。”

 

インスタとユニクロで日本人の「おしゃれ」が変わった(米澤 泉,MB) | 現代ビジネス | 講談社(1/7) 

これは、みんなが洋服を着るようになってまだ数十年だから、起こっている現象なのかもしれない。もし誰もが着物を着ていた時代だったら、隠居した途端、「羽織袴を脱いだら何着ていいかわからなくなった」と言ってアドバイスを求める男性はいただろうか? (落語になりそうな話だな……)

「浴衣は着れるけど、フォーマルな着物はわからない」という人はよくいるが、「フォーマルな着物はわかるけど、浴衣や着流しはわからない」という人は、あまりいないだろう。

 

クールビズが啓発され出した頃、いつものスーツのネクタイを外しただけの姿になってしまう年配男性が多かったが、上下揃いのスーツスタイルはネクタイありきのものなので、ネクタイを外したスタイルにする場合は、ジャケットやパンツ等もカジュアル用のものにしないとおかしい。

着物にも、長着や帯、半衿や履物等の格の違いで、合う組み合わせ合わない組み合わせというのはある。多くの人は、着物に取り組もうとする場合、着付け方と共に、まずここから知ろうとするだろう。本来であれば、洋服についても、まず知るべきことは、洋服のそれぞれのアイテムの格を知り、合う組み合わせ合わない組み合わせと、どのシーンでどういう格好をして行くのが相応しいのかということだと思う。

 

上記引用部分に、「我々男は父親から(服の着方を)教えてもらったことがない」という話が出てくるが、父親世代は、洋服において、合う組み合わせ合わない組み合わせという段階からして、リテラシーがない人が多いということなのだろう。これでは確かに、息子に服の着方を教えようがない。

これがもし、着物が日常的に着られていた時代だったらどうだっただろう。上の世代の男性は、「男が見た目にこだわるなんて女々しい」と言われて育った人が多いが、こういった着物の組み合わせについては、おしゃれ以前の問題として、常識的なことだったのではないだろうか。

洋服において、ここの段階を知らないまま、「男が見た目にこだわるなんて……」を適用してしまうと、「カジュアルがわからない」「スーツを脱いだ瞬間に何着ていいかわかんなくなる」ということになるのかもしれない。

これについては、戦中戦後の混乱の中で、一旦、明治時代から取り入れつつあった洋装の文化資本が途絶えた部分もあったのではないだろうか。

 

(※どの服にどの靴を合わせるべきかについて。)


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さて、今回は、男性がファッションに挑戦して失敗する理由として、着物との比較から考えた。もう一つの理由として、学校における服装指導にも要因があるのではないかと思うのだが、長くなったので後編に書くことにする。

 

 

なお、このエントリは、数年前に読んだこちらの記事が頭にあって書いた。

blog.gururimichi.com

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戦前の洋装を現代に着ている人たち。

togetter.com

 

 

30代からでも身につく メンズファッションの方程式

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*1:KIMONO姫」などの着物ファッション誌を見たことがきっかけで、着物の世界に足を踏み入れる人もいるだろうけど。

*2:脱オタクファッションガイド」くらいだろうか。

ダサい服はなぜダサいのか。また、人はなぜ「ダサい」に過剰反応してしまうのか。

togetter.com

 

Twitter界隈で話題になった、買う人を不幸にするという「ダサい服」。私はこれを見て、下の記事を思い出した。

 

sirabee.com

 

この記事によると、おしゃれな人のほとんどは、いきなりおしゃれになるのではなく、徐々にこのような段階を踏んでおしゃれになるのだと言う。

 

  1. ちょっと変わったものが気になる期
  2. キテレツ期
  3. ブランド期(トレンド期)
  4. ユニクロ
  5. ミニマル期

 

このうち、元Tweetでダサい例として挙げられているボトムは「ちょっと変わったものが気になる期」、全面に英字プリントがあるTシャツなどは「キテレツ期」の人が選びがちなアイテムと見なすことができそうだ。

要するに、「おしゃれ初心者が選びがちな服」ということなのだろう。

 

では、なぜこれらの服は、「ダサい」と見なされるのか。あるいは、なぜ初心者は、こういう服を選んでしまいがちなのか。

それには、まず、「洋服におけるおしゃれのキモは何か」について考える必要がある。

 

端的に言うと、洋服におけるおしゃれのキモは、シルエットである。つまり、着た時に、頭から足の先まで、全体がきれいな形になると、「かっこい」「素敵」ということなのだ。

着物と比べてみるとわかりやすいかもしれない。着物は平面裁断で、服の形自体はどれも似たようなものだが、色や柄に豊富なバリエーションがあり、その組み合わせで違いを出す。また、素材の違いも重要な要素だ。

一方、洋服は立体裁断で、服の形に豊富なバリエーションがある。襟の形、袖の形だけでも、何種類もある。もちろん、洋服のおしゃれにおいても、色・柄・素材の要素はあるが、洋服において「おしゃれが上達する」とは、ほぼほぼ「シルエットを見る目が養われる」ことだと言っていいだろう。*1

かつて、西洋の婦人は、コルセットでウエストを締め上げ、クリノリンやバッスルでスカートを膨らませていたが、あれは洋服がシルエットで魅せる文化だからだ。

 

ファッションは学校では習わない。なので、多くの人は独学になってしまう。「ここを練習すればいい」ということすらわからない状態だ。だから、初心者のうちは、「まだシルエットを見る目が養われていない」どころか、「まだシルエットが大事なのだと気付いていない」状態からスタートすることになる。

シルエットが大事だと気付いていない段階では、裾の折り返しがチェック柄になっているとか、全面に英字プリントがついているとか、わかりやすい要素に惹かれてしまいがちだ。今までただ無頓着に着ていた服との違いを出そうとした時に、シルエットの違いではなく、わかりやすくて目立つ柄などで、違いを出そうとしてしまうのだろう。

 

下記リンク先の記事の、2種類のシャツを提示して「どちらがおしゃれに見えますか?」という問いは、まさにそういうことを言っていると思う。

cakes.mu

 

つまり、冒頭のTweetに挙げられているような服がなぜダサいのかというと、単純に柄が微妙というだけでなく、それ以前にシルエットが微妙という理由もあるのではないだろうか。

 

よく言われる「おしゃれな人ほどシンプルな服を着る」というのは、シルエットで表現することができるようになるからだろう。もちろん、派手な柄物をおしゃれに着こなす人も沢山いるが、その場合も、シルエットを綺麗に見せている人が多い。最近人気の「骨格診断」も、シルエットを綺麗に見せるための方法論と言える。

以前、音楽家の人と話した時に、「リズムキープができないとプロのドラマーにはなれない」という話になったが、それに似ているのかもしれない。初心者は、派手で目立つ演奏に惹かれがちだが、耳が肥えた人は、控えめだが確実に上手い演奏が聞き分けられるのだろう。

 

また、おしゃれが苦手な人たちを悩ませる「流行」だが、これもシルエットの要素が大きい。洋服における流行の変化とは、大部分はシルエットの変化だ。80年代の肩パッドなどはわかりやすい例だと思う。昨今では、2010年代半ばまでは細身のシルエットが流行っていたが、2020年現在はビッグシルエットの時代である。

サコッシュ」などの、ある特定のアイテムが流行することはよくあるが、こういう流行は、別にそのアイテムを身に付けていなくても、ダサいとは見なされない。だが、既に流行が過ぎたシルエットの服を着ていると、それは野暮ったい感じがしてしまう。

ただし、何十年も昔のシルエットの服に関しては、「レトロ」「ヴィンテージ」「クラシック」の領域として、好ましいと見なされたりする。

 

現代、着物においては、あまり流行の変化は見られなくなっていると思う。(正確にはあるのだが、洋服よりはずっと変化が緩やかだ。)それは、着物が既にみんなが当たり前に着る衣服ではなくなったからだ。着物が日常着として着られていた時代、着物にも流行があった。

私は以前、チャイナドレス(旗袍)の歴史を少し調べてみたことがあったが、やはり、チャイナドレスが日常着として着られていた1950~60年代以前の時代には、チャイナドレスにも流行があったらしい。

ということは、洋服に流行があるのは、今現在、洋服が、人々の生活に密着した、当たり前に着られている衣服だからだろう。生きている文化だからこそ、変化があるというわけだ。

 

ちなみに、 冒頭のような「ダサい服」は、たぶん売れるんだろうな……と思っていたら、ファッション企画会社で働いていた方がそう書いていた。こういう服は、おしゃれ初心者に人気があるのだろう。どの分野でも、上級者より初心者のほうが多いしね。

www.yamadakoji.com

 

 

ところで、この話題については、ブコメも含めて気になった。人はなぜ、「ダサい」という話にここまで反応してしまうのか。他のジャンルだと、下手なことはそれほど問題にならないのに。

ネット上では、デザインやイラストレーションの技術的な話なんかはよくあるし、デザインリテラシーのない上司やクライアントの口出しに悩まされるデザイナーの話もよくある。しかし、ことファッションの話になると、途端に「イケメン無罪」みたいなことを言い出す人が出てくる。つまり、多くの人が、ファッションを正当に評価できないし、ファッションのことを、他のクリエイティブ分野のように「普通に」語れないのだ。

 

id:hakusai_chan はてブはウェブやプロダクトのデザインの話は受け入れられるのになぜか服のデザイン(ファッション)の話は忌避されるのである

id:jagaimojanaizo ことファッションの話となると「ダサい」にキレちゃう人多いのはなんでなんだろ。どんなプロダクトだろうとそれぞれにとっての美醜があるのは当然だろうに。

 

絵や音楽や料理や造型など、それぞれの好みがあり、これが正解というものがはっきりしない分野でも、上手い下手はある。そこについてはファッションも同じだ。

ただ、下手というのは事実であっても、下手は悪いことではない。人には得意不得意があって当たり前だ。もちろん、音楽を仕事にしようというのに音楽が下手だったら問題だが、私が音楽が下手だったとして、特に何も問題はない。ならば、なぜ「ダサい=おしゃれが下手」というのは、これほどまでに人の心をかき乱すのか。

 

理由の一つとして、おしゃれは、「下手」ということを隠しておけないというのがあるだろう。絵や音楽などは、自分でやらずに日常を過ごすことが可能だ。しかし、多くの人にとって、服を着て出歩くという行為は避けられない。ファッションが他の分野と違うのは、常に「下手さ」が他人の目に晒されることだろう。

現代に生きる私たちは、和歌をやらなくても日常生活に支障はないが、もし平安貴族に生まれていたら、和歌が下手というのは大きなコンプレックスになったかもしれない。

 

また、ファッションについては、多くの人が、ただ単に「知らない」「わからない」だけではない。幼少期から学生時代までに、親から、あるいは学校の先生から、「ファッション=見た目ばかり気にして、軽薄なもの」「おしゃれなんて下らない。そんなことより勉強しなさい」という刷り込みを受けて育った人は、沢山いる。私は、ファッションとゲームは、子供が夢中になると大人が不安がるもの2大趣味だと思う。

ファッションは、かなり偏見を持たれているジャンルだ。偏見とは、間違った知識である。つまり、多くの人は、ファッションについて考える時、まっさらな知識がない状態ではなく、間違った知識を持った状態からスタートしてしまうのだ。それが、ファッションを正当に評価できない原因の一つになっていると思う。

 

おしゃれに興味がない人にとっては、「何のためにするのかわからない」というのもあるだろう。自分がする意味だけでなく、そもそも、ファッション自体、何を目的にした行為なのかわからない。

何のためにするのかわからない。正解がわからない。学校でやり方を教わらないし、親も教えてくれない。(むしろ、親と学校から偏見を植え付けられている場合もある。)なのに、服を着て外に出て誰かに合うことは、普通の日常生活を送っていては避けられないし、多かれ少なかれ、それで評価される。勘のいい人は上手くなるが、そうでない人は、ずっとわけがわからないまま。ファッションを取り巻く環境は、こうなっているのではないだろうか。

 

実のところ、装いには「非言語コミュニケーション」の要素がある。結婚式や葬式に着て行く服に、社会的な取り決めがあるのもそうだ。結婚式にはドレスアップすることで、お祝いの気持ちを表し、葬式には喪服を着ていくことで、弔いの気持ちを表す。葬式にジーンズをはいて行くと失礼な気がするのは、装いがコミュニケーションだからだ。

また、装いには、誰かに自分をアピールするという側面がある。それは「モテ」だけに限らず、面接を受ける時にスーツを着ていくのだってそうだ。

 

つまり、ファッションが下手ということは、ある種のコミュニケーション下手ということなのだと思う。だからこそ、「ファッションがわからない」「ダサい」ということは、これほどまでにコンプレックスになるのではないだろうか。

再び平安貴族の例えを持ち出すと、現代では、和歌は愛好家の趣味という位置付けだが、平安貴族の間では、まさに和歌はコミュニケーションの一環であり、和歌が下手ということはコミュ下手ということだった。現代日本では、ファッションが下手ということは、ある面でのコミュ下手と見なされるのだろう。(もっとも、平安貴族の世界でも、ファッションは必須科目だったが。)

 

ちなみに、ファッションが何を目的にした行為なのかについては、私なりに思うところがあって、それはここで書いた。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

 

ところで、元Tweetで挙げられている「ダサい服」は、全て男性向けのものだけれど、もしこれを女性向けでやったら、どのようなアイテムが挙げられるだろうか。また、ブコメ等での反応はどうなるのだろうか。男性向けの場合と同じだろうか。違うのだろうか。ちょっと気になる。

 

 

そういえば、こんなのあったな(笑)

togetter.com

 

 

ファッションに関する過去記事。 

ファッションと企業ブランディングの共通点。「ファッションの目的とは何か」という話。

yuhka-uno.hatenablog.com

なぜ、かつて「ユニバレ」と言われるほどダサいイメージだったユニクロが支持されるようになったのかという話。

yuhka-uno.hatenablog.com

ネタ記事。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

 

*1:ファッション・アパレル用語索引|モダリーナのアパレル・ファッション図鑑 服の名称について調べられるサイト。洋服の形状がいかにバリエーションに富んでいるかということがわかる。

BBC出演中の「子供乱入」から考える、テレワーク時代のビジネスマナー

www.bbc.com

 

最早テレワークでありふれた光景になった「子供乱入」が、またもやBBCで起こったとのこと。これについて、BBCのキャスターと、自宅から出演する博士と、博士の娘のやり取りを考察している細馬宏通氏の連続Tweetが興味深かった。とりあえず、連続Tweetを全て読んでみてほしい。

 

 

子供は、まず部屋の中に絵を持ち込んで、どこに飾ろうかと考えている。そして、母親に「Excuse me」と言う。母親は子供の問いかけに答えず、しばらく画面に向かって仕事モードで話し続けるが、スタジオにいるキャスターから「娘さんのお名前は?」と尋ねられ、母親が「彼女はスカーレットです」と答る。(この時点で、一人で絵をどこに飾ろうか考えていた子供は、振り返って反応する。)キャスターから話しかけられた子供は、「この人のお名前は?」と母親に尋ねる。母親はそれに対して、人差し指を口に当てて「シーッ」と言い、静かにするよう促す。キャスターが「クリスチャンです」と答えると、子供は「クリスチャン、これをどこに置けばいいのか、お母さんに聞いてるの」と言う。

 

この子供の行動は、自分の家に大人のお客さんが来た時の行動として、ごく自然な振る舞い、というか、むしろ礼儀正しい子供の振る舞いだと思った。大人同士が話している最中に親に話しかけたくなった時には「Excuse me」と言っているし、自分の家に知らない人が来たとなれば、紹介を求めるのは当然と言えるだろう。

大人は、テレワークを会社の仕事の延長として考えているが、子供は、家に親のお客さんが来ていると考えているのかもしれない。

 

大人は、こういうシチュエーションで子供が乱入すれば、画面の向こうの相手に対して迷惑をかけたと考えてしまうものだ。件のBBCの博士も、子供が乱入したことについて「I'm so sorry」と謝っている。

しかし、スカーレットちゃんの振る舞いは、テレワークとは何かという本質を、ある意味浮き彫りにしたと思う。つまり、テレワークとは、その家の子供をはじめ、相手の家族にとってのプライベート空間である「お家」に、大人が「お邪魔している」ということなのだ。そうなると、大人たちは、子供をはじめ相手の家族に対して、礼儀正しく振舞えているのだろうかと考えてしまう。

 

以下の記事に書かれていることは、BBCの「子供乱入」と同一線上にある問題だと思う。

“夫の会社がオフィスを半減するというのが、ニュースで入ってきて、会社は全然分かってないのかな、と思う。
自分も系列の会社にいたことがある。

シェアオフィスでもなんでもいいし、週に半分でもいいから、外で仕事をしてほしいと思ってしまう。
それは仕事に行って、ということではなく、失われたささやかな日常の時間と、くつろぎの場であったリビングを返してほしい、という意味で。

東京の感染者数が増えていて、またテレワークを強化する会社が出てくるだろう。
テレワークにすれば先を行っている、感染症対策に積極的な会社であると考えているとしたら、それはたくさんの家庭にいる人の犠牲のうえに成り立っているのだと知ってほしい。”

ささやかな日常の営みが人生を作っている|下司 智津惠|Geshi Chizue/月と流星群|note

note.com

 

 テレワークというのは、本来その家の家族のものである空間の一室や、本来家族がそこで過ごしていたはずの時間に侵入するということなのだ。

となると、「子どもが乱入」という言葉も、あまり相応しくないかもしれない。子供は自分の家なのだから、乱入していない。むしろ、入って行っているのは会社のほうである。

 テレワークにおいては、子供を乱入させないことがマナーなのだと、多くの人が思っているが、本当は、会社の側が、相手の家に「お邪魔している」という自覚を持つことのほうが、マナーかもしれない。

 

もう一つ思うことは、昔からの農家や商家では、このような「仕事/プライベート」が混じり合う環境というのは、ごく普通のことだっただろうということだ。作業をしている親の傍で子供が遊んでいたり、抱っこ紐で子供を背負った親が客の相手をすることは、ごく当たり前の光景だっただろう。

その後、会社勤めが仕事のスタンダードスタイルになると、仕事の場に子供が入り込まないのが普通になった。

そうして、今の時代、テレワークをせざるをえない状況になって、再び「仕事/プライベート」が混ざる時代になっているというのは、ある意味では興味深いことである。

婚活デート様式から考える、男と女で奢るか奢らないか問題

ameblo.jp

上の記事と、ついているブックマークコメントが、なかなか興味深かった。

結婚相談所のデート様式は、男性が店を選び、予約し、全額奢るということになっているらしい。一方、下の記事によると、大学生に対して「あなたはデート中の食事費用の支払いについて、どのようにすべきだと思いますか」という質問に対して、「男性が全額支払う」がダントツの最下位である(しかも女性のほうが少ない)。最も多いのは、女性では「自分が食べた分だけを支払う」、男性では「男性が多めに支払う」だ。

そして、30代の男女にも同様の傾向が見られるという。

toyokeizai.net

ということは、結婚相談所のデート様式は、バブル時代以前のデート様式がモデルになっているのかなと思う。たとえ、イーブンな付き合いをしたがる傾向にある30代以下の男女であっても、結婚相談所においては、その様式に従っておいたほうが良いということになっているのだろう。

 

実際、上記の記事の中でも、「おつきあい」と「つきあい」の違いとして、こういうことが書かれている。 

社会学者の加藤秀俊先生は、人と人とのコミュニケーションについて論じる中で、「おつきあい」と「つきあい」を区別しています。

「おつきあい」とはお互いの共通点を発見し、その話題をめぐって会話を楽しむような関係です。恋人になる前のデートは、まさにこの「おつきあい」の段階だと言えます。好きな食べ物や趣味などの共通点を探し、同じところがたくさんあると「相性がいい」と喜び、一般的には、恋愛へと至る可能が高いと考えます。”

 

“「おつきあい」レベルの関係では、どれだけ楽しく会話をしていても、表面的な話題に終始しています。そのため、相手の男女観や金銭感覚が十分にはわかりません。だから、実際に目の前の女性がどう思っているかではなく、ステレオタイプの女性像に基づいて、男性側は「女性がしてほしい」と思っている行動を予想することになります。

これは女性側から見ても同じことで、ステレオタイプの男性像に基づいて、相手の気持ちを予想する必要があります。だから、男性には、「初めてのデートは全部おごれるぐらいのおカネを財布に入れていく」、女性には「財布を出して払う気があるフリをする」といった「無難なマナー」が推奨されるのです。”

 

「女は男におごってほしい」はほぼ"妄想"だ | 男性学・田中俊之のお悩み相談室 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 これは、確かに婚活の初デートに当てはめることができるだろう。

 

冒頭の結婚相談所のブログによると、以下のような質問をする男女は苦戦するとのこと。元の記事では「こじらせレベル2・当たり前のことを質問する」として、

「婚活服(スーツ)が苦手なんですけど、

どうしても着なきゃダメですか?」

 

「一人暮らしした方がいいですか?」

 

「痩せた方がいいですか?」

 

「タバコやめた方がいいですか?」

 こういった質問が並んでいるのだが、このうち、

「初デートは男が奢らなきゃダメですか?こっちが2000円で相手が1500円とかはダメなんですか?」

 

「お見合いは男の奢りって相談所のルールで決まってるのに、払ってもらったお礼を言わなきゃいけないんですか?」

 

「お店は男が予約した方がいいですか?」

に関しては、他の質問と質が違っていると思う。これらは、見た目を整えるとか、コミュニケーション能力を上げるといった、男女双方に必要なことではなく、いわば「男尊女卑プレイ」なのである。*1

 

よって、 上記3つの質問に関しては、

予備校に例えたらこんな感じ?

「英単語を覚えるのが苦手なんですが、

覚えた方がいいですか?」

は、例えとしてはちょっと違うんじゃないかと思う。英単語を覚えるのに男女の違いはないから。

例えるなら、

  •  「スカートはきたくないんですけど、パンツスーツで面接受けるのはダメですか?」
  • 「ヒール靴嫌なんですけど、履いたほうがいいんですか?」

とかに近いと思う。

 

これらのことを嫌がるのは、全然おかしくないし、こじらせどころか、むしろ当たり前だと思う。「現状はこうやってたほうが合格率が高い」ということと「やるのが嫌なのは当たり前」は、何も矛盾なく両立することもある。

嫌だと思って当たり前。でも現状はこうだ。じゃあ、どうやって戦うか、ということなんじゃないかな。

 

とはいえ、まだまだ男性より女性のほうが平均賃金が低いという現実がある以上、学生以外は、完全に割り勘にしてしまうと、女性のほうが損な感じがしてしまうというのはあるよね。なので、男女の平均賃金の差から割り出したレートに基づいて、双方いくら出すのかを算出するのが、平等なのかもしれない。最も平等なのは、お互いの年収の差に基づいて算出することだろうけど(笑)。

 

一方で、特に男性は、あらかじめ店に予約を入れておくというテクニック自体は、身に付けておいて損はないとは思った。なぜなら、これは対女性デートテクニックだけでなく、広く対人おもてなしテクニックでもあるから。

これも、店を選ぶのは男女どっちでもいいと思うんだけど、なぜ「特に男性は」と書いたのかというと、女性は既にこれを身に付けている人が多いと思うから。私も、具体的にいつ身に付けたのかわからないけれど、こういう時、店の予約はする。適当な店を探して長時間ウロウロするはめになったら、自分が疲れるからだ。

健康で健常な成人男性は、人類の中で最も体力がある部類の人たちなわけで、そうであるからこそ、自分より体力が少なめの人をエスコートする技術を身に付けておいても良いと思う。例えば、お互いの両親を招いて食事会とか、そういう時、対女性デートテクニックは、対年配者おもてなしテクニックとして、そのまま応用できるだろうし。

 

 

ten-navi.com

上の記事に対して、「奢らないとモテない」「誰が『奢らなくてもいい女性』なのかわからないから、結局奢るしかない」という趣旨のブコメがちらほらついていたのを見て、「モテたい」という願望が薄い私は、「そんな女性とはどうせ合わないんだから、奢らないことで嫌われても構わんだろ」と思ってしまった。

 

ただ、「モテたい」という願望があったとしても、女性から嫌われることを恐れて奢るっていうのは、あんまりモテには繋がらない気がする。そもそも、奢る男性がモテるのは「自信があるから」であって、自信のない男性が、女性から嫌われるのを恐れて奢っていても、せいぜい「モテ」じゃなくて「カモ」にされるだけなのでは……

自信のある男性は「自分は女を選べる」と思っている。自信のない男性は「自分には女を選べない」と思っている。「奢る」という行為自体は同じでも、内容は全く違う。

 ここで言う「女を選べる」っていうのは、モテるから彼女候補が沢山いるとか、そういう話だけではなくて、自分に合う相手、合わない相手を理解して、合う相手にコミュニケーションチャンネルを合わせられるということ。自信がない人は嫌われるのを恐れるから、合わない相手にコミュニケーションチャンネルを合わせてしまう。

 

一方、女性と会計をイーブンにする男性でも、適度に自信がある人は、彼女がいたりする。そういう男性は、彼女にしろ女友達にしろ、会計をイーブンにする女性たちと付き合っている。

ただ、そういう女性たちは、会計以外のところでもイーブンな付き合いを求めるだろうから、女性と対等に付き合えない男性は、女に貢がせられるモテ男でない限り、奢り続ける関係しか築けないかもしれない。

 

“自信ない女はモテない、カモられるだけ”


“じゃー「モテる」と「カモられる」の違いってなんなのよってことですが、端的にいえば「モテる」とは「相手をきちんと考えられる思いやりのある人に好かれる」ってことです。「カモられる」というのは「相手の欲望が中心で、こちらの痛みや思いなどは軽視する人に好かれる」ということ。”

 

“ぶっちゃけ、顔やスタイル、服装やらモテテクニックやら趣味なんて、どーでもいいんですよ。モテるかどうかってもう「自分のことを認めている、自分の望みをはっきり理解している=セルフコンフィデンスがあるかどうか」の一点勝負。”

 

なぜ『姉の結婚』『今日は会社休みます』は駄目ファンタジーなのか - 妖怪男ウォッチ

 これ、男女を入れ替えても、同じことが言えると思う。*2

 

“また別のメンバーは女性との関わりについて考えるワークで、女性と食事に行ったときのエピソードを紹介してくれた。会計の際、相手の女性が「自分の分は自分で払う」と言っているにもかかわらず、それを制して無理に全額おごったという。初めての食事に緊張した彼は、会計をどうしていいか分からずに焦り、深く考えることなく「男性が女性に奢るべき」という社会通念に従った。「もうそれ以外のことが考えられなくなってましたね」。

この関わりは、相手の女性を一段下にいる存在として位置づけるものであり、男女間の不平等な構造を無意識のうちに維持してしまっている。彼は女性の優位に立たなければならないという司令官の指示に従ったわけだが、その後彼女からの連絡は来なくなったという。彼は「相手も来たいという主体的な思いを持って一緒に食事をしたのに、その気持ちを考えてませんでした」と振り返っていた。”

男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)

「誰が『奢らなくてもいい女性』なのかわからないから、結局奢るしかない」と言う男性は、「奢らないと嫌われるかもしれないけど、奢って悪いことはないだろう」と考えているのだろうけど、そうとは限らないみたい。

 

とすると、若い世代ではもう実質時代遅れであるにも関わらず、婚活業界が「男が全額奢る」をルール化しているのは、男性側の「奢るべきか奢らざるべきか、どっちが正解なんだ?」問題を避けられる効果があるからなのかもしれない。

女性慣れしていない男性に、その場で「奢るべきか奢らざるべきか」の判断をさせるよりは、「男性が全額奢って下さい。そういうルールです」と言ったほうが、もしかしたら、男性にとって楽なのかもしれない。

だとしたら、婚活業界の「男が全額奢る」ルールは、女性慣れしていない男性の負担を減らすための負担額だと考えられるかも。

 

なお、奢られないと「大事にされていない」と感じる女性に関しては、まぁ、何が大事なのかは人それぞれだし、「お金をくれること」が自分にとって大事で、相手に求めることなら、その人にとっては、確かに「奢られない=大事にされていない」ということになるのだろう。

ただ、私自身の考えとしては、大事にされているかどうか、相手に自分を尊重しようという気があるかどうかは、メシを奢るかどうかよりも、セックスの時の態度を判定基準にしたほうが、より精度が高いとは思うけど。

 

あと、女が料理すると聞くや否や「じゃあ作って!」と言う男は、男が金持ちと聞くや否や「じゃあ奢って!」って言う女と一緒だと思う。

*1:厳密に言えば、「婚活服(スーツ)が苦手なんですけど、どうしても着なきゃダメですか?」も、ジェンダー的な問題があるかもしれない。「男女ともちゃんとした服装で」ならわかるけど、「ちゃんとした服装」がスーツである必要があるかどうか、かな。スーツが嫌なら着物はどう?(笑)

*2:もっとも、「顔やスタイル、服装やらモテテクニックやら趣味」は、適度に自信がある人をより魅力的に見せる効果はあると思う。「顔やらモテテクやらがあっても、自信がなければカモられるだけ」という意味なのかな?