宇野ゆうかの備忘録

ちょっとした作品発表的な場所。/はてなダイアリー→d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/

どうせ外出自粛だし、家でやりたいメイク動画まとめてみた。〔ネタ記事〕

なんとなくTwitterを眺めていたら、こんな内容のTweetが流れてきた。

togetter.com

自宅でラメラメアイシャドウ塗って真面目に仕事してる人の姿を想像すると、なんだか面白くなった。私自身、マスクをつけて外出するようになったら、なるべくマスクが汚れないようにと、口紅もチークもつけなくなったので、今の環境だと、むしろ家の中のほうが、思いっきりメイクができると言えるのかもしれない。

というわけで、家でやりたいおもしろそうなメイク動画を集めてみた。

 

平安貴族風メイク

平安時代の貴族女性って、御簾の内側にひきこもっていたらしいから、これは在宅メイクにぴったりかもしれない。


麻呂眉おかめメイク☆Japanese Mask "OKAME" Makeup【ハロウィン】

 

古代中国風メイク

眉毛と、額に描く「花鈿(かでん)」がポイントなのかな?ディズニー実写版ムーランみたいなメイクができそう!


-梦诗Nicole- 这才是古妆:寿阳公主仿妆 梅花妆 Princess ShouYang makeup【Plum makeup】Flower Goddess

 

西洋の歴史上のメイク

古代エジプト古代ギリシャ、中世、ロココ時代、ヴィクトリア女王風など。

ロココ時代風メイクは、出来上がったら、菓子パン片手に「パンがなければお菓子を食べればいいのに」って言ってみよう。


Best and Worst Makeup Moments in History #FacePaintBook

 

ミュージカル『キャッツ』のメイク

街のゴミ捨て場に集う猫たちの物語。ゴミを捨てに行くときにやろう。


劇団四季「キャッツ」メイク!本格的な舞台メイクに挑戦 Halloween Cats Makeup

 

歌舞伎メイク

隈取にする?女形にする?それともスーパー歌舞伎


歌舞伎の化粧・隈取

 

懐かしのマンバギャルメイク

ギャルだった人も、ギャルじゃなかった人も、一昔前の時代に思いを馳せてやってみよう。


元ギャルが15年前のマンバギャルメイクを徹底再現!

 

ところで、このブログエントリを書いている間に、こんな記事を見つけた。4ページ目に売り上げが下がった商品の一覧があるが、軒並み化粧品が売れなくなっているらしい。

toyokeizai.net

これを見て、去年見かけたこのTweetを思い出したが、その通りになっていると言えるのではないだろうか。

 

家でやるメイクだし、他人に見せないのなら、仕事のためでもモテのためでもない、完全に自分の楽しみのためにメイクしてみてもいいじゃない!どうせ後で全部落とせるんだから。まぁ宅配便が来るという可能性はあるけどね……

新型コロナウイルス流行当初、「若者が感染を拡大」と言われていたことについての考察

日本でコロナウイルスの感染が広まってきた頃、各種メディアで「若者が感染を広める」と言われたことについて、思うところがあった。前回記事『「字幕だけじゃダメ?」←「ダメなんです」~なぜ手話通訳が必要なのか - 宇野ゆうかの備忘録』において、報道における手話通訳の問題を書くことを優先したため、やや時期を逃した感があるが、今からでも振り返っておこうと思う。というのも、私は以前から、年長者が若者を抑圧したりバッシングしたりする構造や心理に興味を持っていたからだ。

 

www.newsweekjapan.jp

この記事の中で、著者は、「行政やメディアにとって、主な『顧客』が中高年だから」と分析しているが、私は少し違うように思う。私の考えとしては、「顧客」以前に、「行政やメディアにおいて、主に意思決定して情報発信しているのが中高年だから」だと考えている。若者がいたとしても、立場が弱く発言力はないだろう。

 

この手の話は、マイノリティの世界ではよくあることだ。例えば、男性中心の職種においては、男性が下手を打った場合には、個人の資質の問題と見なされるが、女性が同じことをすると、「これだから女は」と、属性でくくられてしまう。犯罪者に外国人や精神障害者や少年が多いような気がするのも、このせいだ。健常者の成人日本人が犯罪を犯しても、わざわざ犯人が日本人であるとか、健常者であるとかは、特に言われない。

コロナウイルス流行初期において、若者がとやかく言われたのも、若者がマイノリティだからだろう。おそらく、中高年の人たちにとっては、自粛しない中高年は「その人個人の問題」と認識するのに対して、自粛しない若者は「これだから若者は」と捉えてしまう。そういう心理が働いたのではないだろうか。

 

私は、結果的にこれはあまり宜しくなかったと思っている。こういった属性でひとくくりにする態度は、それをされた側が不快に思うのも無理はない。今回のことは、若者の協力が必要不可欠なのに、若者をひとくくりにしてしまった。相手に対して失礼なことをしながら、相手の協力を求めていたのだ。

また、本来は「(特に若者は、感染しても症状があまり出ない場合もあるけれど、他の人にうつしてしまう場合があるから)若者は特に気をつけて」という意味なのに、あまりに若者若者言うと、()内のことをすっとばして解釈してしまい、「感染させるのは若者だから、自分は大丈夫」と誤解する中高年もいるのでは……と思っていたら、やっぱりいたようだ。

 

 ネット上では、「若者だけ家にいてくれるとありがたいと思うよ。だって若者いなきゃ感染しないんだから」と言った高齢者男性が話題になっていた。

 

殊更「若者が感染を拡大」と言われ、また、各種ネット上で、それに対して反発する声が上がるようになったのは、大阪のライブハウスでクラスターが発生したのがきっかけだったと思う。実際には、クラスター発生してしまったライブイベントは、40代前後が主な客層だったのだが、各種マスメディアが「若者が」と取り上げたため、また、既に屋形船やスポーツジム等で、中高年の感染が発生していたこともあって、反発を招いたのだろう。

www.asahi.com

2020年3月3日の記事。「大阪のライブハウスに参加した感染者ら」の図つき。ライブに参加したのは30~40代。

 

「ライブハウスで感染」のニュースには、「やっぱりライブハウスも高齢化しているんだな」という感想を書いている人をちらほら見かけたし、私も同じことを思った。ライブハウスに行く人の年代は、若者から中年まで幅広いというのが、私の認識だ。

ライブハウスの客層が高齢化しているのは、おそらく、若い頃にライブハウスに行っていた人が、今も行き続けているからだと、私は考えている。かつてロックは若者の音楽であったが、今では「かつて若者だった人」がずっとロックを愛好し続けているように。

しかし、行政など自粛を呼びかける側には、実際にそのライブイベントに行っていた人の年齢の数字を見ても、「ライブハウスといえば若者」という思い込みが維持されたままの人が多かったのだろうか。これはあくまでも私の憶測だが、自粛を呼びかける側は、自分たちが若かった頃のイメージでライブハウスの客層を想像しているのかもしれない。あるいは、40代前後でも「自分より若いから若者」という認識だったのか(まさか)。

 

“ーー若者が感染を広げているということはどのデータに基づいているのですか?

北海道のクラスター(小規模な感染者集団)を調査しているグループの意見ですね。

それを証明するデータはどこにあるのかと確かに言われているのですが、感染の動きから言うと、感染したのが中高年であろうが、感染した場所に溜まっているのは若者たちです。そこから拡散しているという推論ですが、実際の調査は進められています。

ーーということは、やはり推定とか状況証拠ということですね。

全て数字で証明されているわけではないです。そういうところに行く年代層の集まりから複数の感染者が出ているということです。そこには、症状がないか軽い人で本人も気づかず感染をさせた人がいる、だから感染がわかりにくいという考え方です。

インデックス・ケース(最初の感染者)がどういう人かはわかっていません。隠れた感染者がいるということです。それが若者の集まるライブハウスや閉鎖的な空間だったわけです。”

「流行の封じ込め」から「流行を前提とした対策」へ 専門家「切り替え時期を考えなくてはいけない」

2020年3月6日の記事。「若者が感染させた事実があるのか?」について、かなり突っ込んだ質問をしている。対する専門家の回答は、実際にその場所に来ているのは、若者のほうが中高年より明らかに多かったという事実からのものなのか、「ライブハウスに行くのは若者」という思い込みに基づくものなのか、この内容からは判断できない。

しかし、仮にこの時点で、北海道の事例で「若者が多い」というのが事実だったとしても、大阪での最初のライブハウスの事例はそうではなかったのだし、不要不急の集団を形成するのは若者だけの性質ではないのだから、同じように中高年も危険性があるのは、十分予見できたのではないだろうか。

 

その後、夜の繁華街という、一般に「中高年が行くところ」と認識されている場所でクラスター発生したことで、「もう年代は関係ない」という雰囲気になったという流れだったかと思う。

しかしながら、この時点でも、小池都知事は「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と呼びかけていた。ライブハウスは既に述べた通りだし、カラオケが好きな中高年は多いし、接待を伴う飲食店に行く若者だって沢山いる。

うつったりうつしたりするのに年代は関係ないが、相変わらず「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブ」という思い込みは維持されたままだったようだ。

news.yahoo.co.jp

 

念のため言っておくと、私は「若者は感染させていない。実際に感染させているのは中高年だ」と言いたいわけではない。実際に若者の集まりでクラスターが発生しているケースだってあるのだから。私が言いたいことは、「本来なら、最初から若者・中高年の区別なく、全世代に呼びかけるべきだったのではないか」ということだ。キャリアになってしまう危険性があるのは、若者も中高年も同じだし、違いがあるとすれば、それは年代ではなく、人が密集する場所に行く機会があるかないかだ。

本来なら、最初から全ての人に注意を呼びかけなければならなかったと思うのだが、若者をひとくくりにした言い方をしてしまったことで、若者は「なんで自分たちばかりが」と思い、中高年は「若者がちゃんとしないから」と思うことになり、若者と中高年を分断させることになってしまったのではないだろうか。

最初から全ての人に注意を呼びかけていれば、若者が不満を募らせることも、中高年が誤解したり油断したりすることもそれほどなく、今よりも、若者と中高年が協力関係を築く雰囲気ができていたのではないかと思うのだ。

 

 “荻上:またそういったコロナの対策という点を考えると、一時期、行政からもメディアからも「若者は出かけないでくれ」と言う結構ピンポイントのメッセージが出されていたと思います。

岩田:先ほども申しました通り、過去に起こったことから類推して、その過去に対する対策を立てている形になってるわけですね。若者の間で感染を広げた事例がありました。だから若者は自粛しましょうという考え方では駄目なんです。若者の間で感染が広がった事実はあるにせよ、当然、中高年でも広がる科学的な懸念は十分あるわけです。そうしたメッセージの出し方をするのは、「三密」と一緒で、感染防御には効果的なメッセージにならない。悪い意味での世代間論争になったり、必要のないリスクまで呼んでしまう可能性がありますね。”

【全文字起こし&音声配信】「マスクの意味、アルコールの代用品、BCGの効果…神戸大教授で医師の岩田健太郎さんに聞く新型コロナウイルス感染症対策」2020年4月14日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)

 2020年4月17日の記事。

 

8年前の2012年1月16日の記事。『絶望の国の幸福な若者たち』を発表した古市憲寿氏と小熊英二氏の対談。

“こういう状態の社会で、ニューエコノミーで変動した社会についていけない中高年の違和感と反発がどこに向かうか。どこの先進国も、製造業が衰退し、男性の平均賃金が低下し、女性が働きに出ざるをえなくなり、家族が揺らぎ、結婚できない若者が増えている。それでヨーロッパの場合は、移民が入ってから社会が悪くなったんだ、と語られる。ところが日本の場合は、こんな社会になったのは若者が悪いんだ、携帯いじってモラルが低い、意外と豊かそうなのに生活保護をもらっている、我々を脅かす連中で社会を不安定化させる、といった言説が流行る。これはいわば、日本における移民排斥運動の代替版です。

 

古市 若者バッシングは、ある種、移民排斥運動と同型だということですか。

 

小熊 ヨーロッパなら移民が入るはずの労働市場で若者が働いているわけですから、社会的な代替物になりやすいのでしょう。”

震災後の日本社会と若者 / 小熊英二×古市憲寿 | SYNODOS -シノドス-

当時は若者バッシングが激しい時代だった。小熊氏の、マジョリティ層の不満や不安がどこに向かうかで、欧米の場合は移民に原因を求め、日本の場合は移民が少ないので若者に原因を求めるのだろうという考えは、当時の私も同じことを考えていた。

現代のコロナウイルス禍において、欧米ではアジア系差別があり、日本では若者バッシングがあったことと、どこか似ているのかもしれない。

「字幕だけじゃダメ?」←「ダメなんです」~なぜ手話通訳が必要なのか

連日コロナウイルス関連の報道がなされる中、SNS上では、「志村けん」や「江頭2:50」を表す手話(サインネーム)の存在*1や、手話通訳の人がマスクをつけていない理由などが注目されていました。

www3.nhk.or.jp

 

私自身は、手話に関しては「ワタシ、シュワ、チョットデキル」程度のレベルなので、本来ならこの内容を取り上げるのに相応しい人間ではないかもしれません。ですが、私が知っている範囲で手話に関することを書いていきたいと思います。手話についてもっとよく知っている方、補足、ツッコミ等お願い致します。

 

コロナウイルス関連の報道において、3月末頃までは、記者会見の現場には手話通訳がついているにも関わらず、テレビ画面では、NHK以外の民放では手話通訳が映されていないということがよく目に付きました。このことは、4月1日の国会で横沢高徳議員によって取り上げられたり*2、民間からの提言があったり*3、ネット上で指摘する人がいたりした影響なのかわかりませんが、最近では民放でも徐々に手話通訳を映すようになってきたと思います。

 

ただ、気になるのは、聴覚障害者に対する情報保障について、「字幕でいいんじゃない?」と思っている人が多いところです。冒頭のNHKニュース記事のコメントにも、そういう趣旨のコメントが複数見受けられますね。これ、一般の人だけでなく、行政の広報や報道を担っている人たちも、実はそう思っていた人が多いんじゃないでしょうか。

 

結論から言うと、字幕だけでは不十分です。なぜなら、「日本語」と「日本手話」は、それぞれ別の言語形態で、文法も異なっているからです。これはどういうことかというと、日本の聴覚障害者には、大きく分けて、日本語を第一言語とする人と、日本手話を第一言語とする人がいるということです。

手話が第一言語の人にとっての日本語の字幕は、例えるなら、日本語話者が英語のテロップを読むようなものでしょう。世の中には、英語をスムーズに理解できる人から、頭の中で翻訳するのに時間が必要な人、ほとんど理解できない人までいるように、手話を第一言語とする人の中でも、日本語の理解度は様々です。

つまり、不特定多数の聴覚障害者に対する情報保障を十分に行うためには、手話(日本手話を第一言語とする人のため)と字幕(日本語を第一言語とする人のため)の両方が必要なのです。

 

また、手話においては、表情や口の形も大切です。手の動きだけでなく、表情や口の形にも文脈があるからです。例えば、疑問系の時には疑問を表す表情をつけたり(YesNo疑問文とWH疑問文で表情を使い分ける)、完了形を表す時には、口を「パ」と開く動作がついたり、頷き、首ふりなど、他にも沢山の表現があります。

日本語に例えるなら、「~ですか」という言葉の語尾が上がるか下がるかで、意味するところが違ってきたりするのと、似ているかもしれません。

なので、手話通訳は顔が見える必要があるのですね。

 

ちなみに、冒頭リンク先の、Twitterで話題になった漫画では、「口の動きから相手の言葉を読み取ることを“口話”っていうんだけど…手の動きはあくまでも口話を補助するためにあるんだ」という説明がありますが、これは日本語対応手話の場合であって、日本手話の場合には当てはまらないと思います。

日本で使われている手話は、大きく分けて「日本手話」と「日本語対応手話」があります。日本語対応手話とは、日本語の語順に合わせて手話を当てはめたもので、文法も日本語に沿っています。なので、見た目は同じ手話に見えても、言語形態としては、日本語対応手話と日本語が同じ仲間です。*4

日本語対応手話は、日本語が第一言語の人、難聴者や中途失聴者の間で使われることが多いです。

 

4月7日に行われた大阪府の吉村知事の会見は、手話通訳なしの会見で、知事がマスクをして話していたところ、聴覚障害者の要望を受けて、途中からマスクを外して話す場面がありました。おそらく、口の形を見たかったのでしょう。

もちろん、全ての聴覚障害者が口の形を読み取れるわけではありません。また、読み取れる人の場合でも、非常に集中力を必要とする人が多いそうです。情報保障という点では、手話と文章の両方があったほうが理想的であることに変わりはないでしょう。

 

私は、本来であれば、このことは、およそ行政や報道に携わる仕事をしている人たちの間では、業界の常識として知られているべきことだと思います。

数年前、南アフリカマンデラ氏の追悼式の手話通訳が、実は意味の通らないデタラメ手話だったという件が話題になりました。*5あの件は、多くの人に笑い話として受け取られていましたが、南アフリカで暮らしている手話が必要な人たちのニーズを、政治の中枢にいる人たちが理解していないことの表れかもしれないと考えると、なかなか笑えない話です。

それを考えると、日本はどうでしょうか。行政や報道に関わっている人たちが、手話が必要な人たちのニーズを、これまで理解できていなかったという点においては、南アフリカのデタラメ手話の件を笑っている場合ではなかったのかもしれません。

 

deaf-links.com

togetter.com

 

日本において、手話通訳の数は、ニーズに対して不足しているのが現状だそうです。おそらく、高い技能が求められるのに薄給なのが大きな理由でしょう。

ちなみに、手話通訳に限らず、同時通訳は15分くらいが限界だそうで、長時間の場合は、複数人で交代しながら通訳するそうです。私は詳しくないのですが、こういった会見の同時通訳は、専門性の高い通訳士が3人くらい必要なのではないでしょうか。

特に高齢者など、ネット環境がない聴覚障害者もいることでしょうから、テレビの手話通訳は大事な情報源だろうと思います。

 

障害者基本法 第三条


全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること。

 

第二十二条


国及び地方公共団体は、災害その他非常の事態の場合に障害者に対しその安全を確保するため必要な情報が迅速かつ的確に伝えられるよう必要な施策を講ずるものとするほか、行政の情報化及び公共分野における情報通信技術の活用の推進に当たつては、障害者の利用の便宜が図られるよう特に配慮しなければならない。

電気通信及び放送その他の情報の提供に係る役務の提供並びに電子計算機及びその関連装置その他情報通信機器の製造等を行う事業者は、当該役務の提供又は当該機器の製造等に当たつては、障害者の利用の便宜を図るよう努めなければならない。

 

 

ところで、私は、ほんの少し手話の世界を覗いてみただけの人間ですが、手話について知るということは、言語とは何か、言語はどのように生まれるのか、私たちはどうやって言葉を理解するようになるのかを知ることでもあるのだと思いました。

手話に対するよくある誤解は、「手話は世界共通」「手話は音声言語を手で表したもの」といったものでしょう。手話は、音声言語と同じく、それぞれの土地で自然に発生して成立し、広まっていったものです。なので、手話にはその土地の文化が反映されていますし、方言もあれば若者言葉もあります。

 

例えば、日本手話で「あいさつ」「こんにちは」を表す手話は、人と人が向かい合ってお辞儀をしている様子からきています。「ありがとう」は、相撲力士がご祝儀を受け取る時に手刀を切る仕草からきています。一方、アメリカ手話の「ありがとう」は、投げキスをする動作になります。

また、手話は音声言語とは異なる分布の仕方をしているので、音声言語の場合は、イギリスとアメリカの言葉が似通っていますが、手話の世界では、イギリス手話とアメリカ手話は別の言語で、アメリカ手話はフランス手話から枝分かれして成立したものです。

 

ちなみに、聞こえる人の中には、「手話を世界共通にしたら便利なのにね」と言う人がよくいますが、それは「日本語や英語やフランス語などををなくしてしまって、世界共通の言語にしたら便利なのにね」と言うようなものです。確かに便利かもしれませんが、言葉は文化なので、なくしてしまうのは嫌だと思う人は多いでしょう。

手話の共通語として、人工的に作られた「国際手話」という言語があり、聴覚障害者が集まる国際的な場で使われているそうです。

 

 

それにしても、なぜ私たちの社会は、手話の一語も知らない人がほとんどなのでしょうか。英語やフランス語、中国語や韓国語などで「こんにちは」「ありがとう」をどう言うのか知っている人は多いのに、手話においては、「こんにちは」「ありがとう」程度の簡単な挨拶すら知らない人が多い。毎年24時間テレビとかやってるのにね!

というわけで、この記事を見た人は、これを機会にいくつか手話の挨拶を覚えてみて下さいね!あと、手話に関する面白い記事のリンクを貼っておきますから、興味が沸いたら見ていって下さいね!

 


今日からできる手話講座

 

ニカラグア手話」…世界で最も新しく成立し、かつ、世界で初めて言語学者がその発生の過程を目撃し記録した言語。人間は言語を生み出す能力を持っているという仮説の裏付けになった。

www.bbc.com

 

手話について「わかっていないことをわかりました」という話。

手話は自然に発生した自然言語であること、長らくそれが理解されてこなかった(というより、今もあまり理解されていない?)こと、日本手話と日本語対応手話の違いなど。

www.tbsradio.jp

 

「ろう者」という言葉について。

“ろう者の意味内容は多義的であるが、主に聾学校卒業者や日本手話使用者、聾社会に所属している人が、自分のこと(自分のアイデンティティ)を「ろう者」と呼称する。音声言語獲得前に失聴した人が多い。また、聴覚障害者という単語には『障害』という言葉が含まれているので、その表現を嫌う人も自分のことを「ろう者」と表すことが多い。手話を堂々と使い、聞こえない自分を肯定している聴覚障害者に、自分を「ろう者」と呼ぶ人が多い。”

ろう者 - Wikipedia

 

 

デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 (文春文庫)

デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 (文春文庫)

  • 作者:丸山 正樹
  • 発売日: 2015/08/04
  • メディア: 文庫
 

 

光野桃『私のスタイルを探して』から読む自己表現の本質~ファッションと企業ブランディングの共通点

「ユニクロでよくない?」の理由~おしゃれの基準が“服”ではなく“技”になった時代』を書いて、バブル期と現代のおしゃれの違いについて考えたことをきっかけに、光野桃氏のエッセイ『私のスタイルを探して』を久々に読み返してみたら、「これ、おしゃれの本質が書かれている本だ…!」と思ってしまった。

以前この本を読んだのは、まだ10代くらいの時だったかもしれない。当時の私は、母親の「おしゃれや流行に興味のない子でいてほしい(金がかかるから)」という願望を内面化していて、おしゃれとは縁遠い芋な子だった。それでもこの手の本を読んでいたということは、やはり潜在的にはおしゃれに興味を持っていたのだろう。

ただ、当時の私は、若すぎたことと、まだおしゃれに目覚めていなかったせいもあってか、書かれている内容がなんだか難しく感じてしまい、また、大人のおしゃれや高級ブランドやミラノのファッションといった話が、自分には遠い世界のことに感じられて、この本の本質を十分に理解することができなかったのだと思う。

 

子供の頃、母親が縫ってくれたワンピースを着て純粋に喜んでいた光野氏は、思春期になると、好きな男の子を意識して着る服に悩み、大学では、当時流行っていた「ニュートラ」な女の子たちに出会って、自分の好みではないものの、人と同じ格好をして安心感を覚えたりする。その後、三宅一生川久保玲といった、当時の名だたるデザイナーが出入りする事務所に勤め、クリエイティブな空気に触発されるも、女性誌の編集部に勤めるようになると、バブル時代の「コンサバ」な女のファッションに身を包むようになる。

しかし、いつも「何かがおかしい」「なにか違う」と思っていたという。「買っても買っても着る服がない」状態だった光野氏は、結婚して夫の転勤でミラノに移住する。ミラノの人々の堂々とした佇まいにショックを受けた光野氏は、ミラノ女性の格好を真似してみるが、街のウィンドウには、ただの地味な東洋人が映っているだけだった。そこで光野氏は「おしゃれのどん底」に陥る。

 

 ここでは誰も、私が生きてきた今までのことを知らないのだ。どんな仕事をやってきたのか、なにを考え、なにに感動してきたのか、だれも知らない。伝える術もない。自分の存在がゼロになったような気がした。それは恐ろしい感覚だった。こんなことはとうてい受け入れるわけにはいかないと思った。

 ミラノ中に聞こえるような大きな声で叫びたかった。私はこんな人間なのよ、と。私はこんな風に感動するの。私はここに居るのだ、と。自分をわかってもらいたい。表現したい。焦がれるような気持ちが胸の奥から衝き上がってきた。

 その時、頭の中でなにかキラリと閃くものがあったのである。ハッとした。これだ、これをファッションで表現しなければ。自分をわかってもらうために、服を着るのだ。そういう服の着方をすればいいのかもしれない。

 考えてみれば、物心ついた頃から人がなにを着ているのかが気になった。流行に遅れていると焦った。人の目を意識し、人にどう思われるかということばかりで服を着てきたのだ。

 しかし、その発想は逆だった。人がどう思うかより、人にどう思わせたいか。自分をどう表現したいかということなのだ。

 

光野氏がミラノで体験したことを読んで、「これって、夏目漱石がロンドンで体験したことと同じだ…!」と思った。夏目漱石は、留学先のロンドンで鬱状態になり、そこから自己確立している。光野氏は、ミラノに行く前から問題を抱えていて、ミラノという外国の地でそれが表面化したわけだが、夏目漱石も全く同じだった。

 

“私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。”

 

“ 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。”

 

 ――夏目漱石『私の個人主義

 

また、私が驚いたのは、光野氏が自分のファッションスタイルを確立させる過程で取った方法が、クリエイティブディレクターである水野学氏が書いた『「売る」から、「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義(著:水野学)』の内容や、その水野氏がディレクションを手がけた、デザインとブランディングにこだわる手法で売り上げを伸ばしている中川政七商店の十三代目社長が書いた『老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道(著:中川淳)』『経営とデザインの幸せな関係(著:中川淳)』の中に出てくる手法と、ほぼ同じものだったことだ。

 

『「売る」から、「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義』によると、水野氏は、中川政七商店のロゴや紙袋や段ボール箱、本社社屋といった「外側」のデザインを手がけてはいるが、商品そのもののデザイン自体を、現代的なものに変えるなどはしていないらしい。

 つまり、流行をそのままもち込んだり、とにかく現代的で美しいものにしたりすれば、それでいいのか、ということ。

 結論からいうと、そのやり方だと、うまくいく場合もないわけじゃないけれど、ほとんどはうまくはいかないでしょうね。実際にぼくも、中川政七商店の商品を現代的に洗練された美しいデザインにしようとは考えませんでした。

 というのも、ブランディングを考えるうえで大切なのは、「似合う服を着せる」ということだからです。

考え方としては、スタイリストに限りなく近い。

一方、光野氏は、自分がミラネーゼの格好を真似てみても、ただの地味な東洋人にしかならなかったことで、ミラネーゼの服は、ミラノの女の魅力を引き立てるためにあるのだと悟っている。

 私は悟った。ミラノ服の定番ともいえるシンプルな紺のジャケットは、骨格のはっきりした顎の線と、広い肩幅があるから着こなせるのだ。

 きれいな色のセーターはこっくりと日に焼けた肌があってこそ、着る人を美しく引き立てる。男仕立ての紐結びの靴に細身のストレートパンツというマニッシュな装いは、彼女たちラテン女の体を流れるセクシーな熱い血を、かえって洗練された形で際立たせる効果があるのである。

 どの服にも、ひとつひとつに納得できる理由があった。ミラノの服は、ミラノの女のものなのだ。

 「ひとつひとつに納得できる理由がある」――これはまさに、デザインの分野でよく言われていることと同じだ。水野氏もまた、著書の中で「説明できないデザインはない」と言っている。

水野氏は、企業のブランディングをスタイリストに例えているが、光野氏も、著書の中で、外見でのプレゼンテーションを企業イメージに例えていた。

 

光野氏は、その後、自分のスタイルを確立させるために、まず自分がどんな人間なのか、内面の特徴を見つめ、紙に書き出していく。

次に、その内面を表現するヒントを掴むために、ファッション誌の中から、気に入った写真を切り取ってきて、スクラップする。ここで、自分の好みのファッションの傾向が明らかになってくる。そして、その中から、自分の外見に照らし合わせて、体型的に無理がありそうなものは外す。最終的に、友人の助けを借りながら、服を決めていく。

こういった過程を経て、光野氏は、日本の流行やミラネーゼの格好といったものから独立した、自分自身のファッションスタイルを確立した。

 

『老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道』『経営とデザインの幸せな関係』の中でも、ブランドを作る過程で、その企業の特徴や将来の希望などについて、こと細かに分析して書き出していくところから始める。

まず決算書を見るところから始めるのが企業ブランディングといったところだが、企業の強みや弱み、将来こうなりたいという理想の形などを書き出し、自分のことは自分が一番よくわからないので、外部の客観的な目線を入れながら、「自分たちは何者か」ということと、きれいごとではない本音の「自分たちがどうなりたいのか」ということを、はっきりさせていく。

ここから、自分たち「らしさ」とは何かというイメージを膨らませ、ブランドや商品のイメージに合った写真などを切り出して、イメージコラージュを作る。こうして、商品デザイン、ブランド名や企業ロゴ、店舗の雰囲気、ウェブサイトやカタログや商品パッケージなどの見た目に落とし込んでいく。

(ブログの都合上、ざっくりと書いたが、実際に本に書かれていることはもっと細かい。)

 

自分が何者なのか、これからどうなりたいのかということを分析してから、客観的にアドバイスしてくれる人の意見を取り入れつつ、切り抜き写真などを集めてイメージを固めていくという工程が、光野桃氏と中川政七商店の手法とで共通していた。『いいデザイナーは、見ためのよさから考えない(著:有馬 トモユキ)』*1というタイトルの本があるが、それは、人のファッションスタイルを決める上でも、企業のブランドイメージを作る上でも、同じなのだろう。

 

クライアントから依頼を受けてデザインするデザイナーの人たちがよく言うことの中に、「丸投げはやめてくれ」というのがある。クライアント側からすると、「自分はセンスがないから…」「デザインのことはわからないから…」と思って、デザイナーに任せれば何とかなるだろうと思ってしまいがちだが、デザイナー側からすると、あなたはどういう会社で、ターゲットはどういう人たちなのか、デザインによってどういうことを伝えて、どういう効果を得たいのか、そういったことをすり合わせて、クライアントとデザイナーで共通認識を持たないと、デザインを作ることはできない、ということなのだ。

 

光野氏が、ミラノの女性に、「あなたにとってファッションとは何ですか?」と問うた時、ある女性はこう語ってくれたという。

「人は誰でも自分のことを、正確に相手に知ってもらいたいと思うのではないかしら。特によいところは積極的にアピールしたいと思うものでしょう。でも、誰とでも一時間じっくり話し込む機会があるというわけではないわ。だから装いというのはとても大切なことなのです。自分というものを一目で端的に相手に知らせる、私にとっておしゃれとはそういう目的があるんですよ」

企業にとって、なぜブランディングが必要なのかも、これと同じではないだろうか。

 

パーソナルカラーや骨格診断や顔タイプ診断などは、とても役に立つけれど、例えるなら、それらは『ノンデザイナーズ・デザインブック』*2に書かれているような、見た目を整える基本技術のようなものなのだろう。

もちろん知識や技術はとても大事だ。それらがなければ思うような表現はできない。光野氏が「人がどう思うかより、人にどう思わせたいか」ということに気付いた時点から、自分のスタイルを確立できたのも、もともと光野氏にファッションに対する十分な知識と技術があったからだろう。もし光野氏がファッションを見る目が鍛えられていない人だったら、そもそも、自分がミラノの女性と同じ格好をしても似合わないということに気付くこともできなかったであろうから。

しかし、ある程度技術を身に着けた先にあるのは、その技術を使って何を表現するかだ。最終的には、自分はどういう人間で、服を着ることによって、自分はどうなりたいのかが大事なのだと思う。

 

日本では、わりと近年まで、ファッションは「若い女の子のもの」と思われ、中年以上の女性たちがおしゃれをする存在として認知されていなかったと思う。やっと最近になって、60代以上の女性ファッション誌が創刊されるなどしているけれど。

これは、長らく「おしゃれは、女が男に好かれるためにやるもの」という男性本位な偏見があったからだろう。それゆえ、ファッションは「女がするもの」として、一段下に見られ、軽薄で役に立たないものとして見なされていた。「若くない女がおしゃれしても無意味」という男性都合の目線もあっただろう。

しかし、この本を読んでいると、やはり、おしゃれとは自己表現であるし、他の知識や技能と同じで、経験として積みあがっていくものなのだと確認できた。若い頃は、まだ自分自身のことがよくわかっていないから、人の目が気になるし、周りに流されてしまいがちだけれど、年齢を重ねて、自分というものがわかってきて、ファッションの経験も積んで、自己確立できるようになると、その人のファッションスタイルも完成度が上がってくる。そういうことなのだと思った。

 

 

『私のスタイルを探して』について書かれたブログがありました。

quelle-on.hatenadiary.jp

 

 

私のスタイルを探して (新潮文庫)

私のスタイルを探して (新潮文庫)

 
経営とデザインの幸せな関係

経営とデザインの幸せな関係

 

 

*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4061385623/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_4H2jEbTP4YCG3

*2:デザイナーではないけれど、プレゼン用スライドやチラシや文書などをデザインをする必要がある人のための、基本的なグラフィックデザインのテクニックが書かれた本。デザインの世界ではとても有名な本で、デザインについて説明する時によくこの本の内容が引用される他、この本を読んでデザイナーになった人も多い。https://www.amazon.co.jp/dp/4839955557/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_2E2jEbCX39DGV

優しくない人ほど自分のことを優しいと思っている説~虐待とDVとダニング・クルーガー効果

 「ダニング・クルーガー効果」という言葉がある。端的に言うと、その分野において能力が低い人ほど、自分の能力を実際よりも高く見積もっており、能力が高い人ほど、実際よりも低く見積もっているという認知バイアスだ。

私は、「優しさ」や「性格の良さ」にもダニング・クルーガー効果が適用できるのではないかと思っている。虐待やDVをする人ほど、自分のことを「優しい」と思っていて、自分の優しさレベルを実際よりも高く見積もっていることが多いからだ。

 

togetter.com

上のリンク先の、わが子を虐待していた人は、「子どもは好きですか?」ときかれて「子ども、大好きです」と答えている。おそらく、この人は、「子どもと遊ぶ」ことと「子どもで遊ぶ」ことの区別がついていなかったのではないだろうか。

虐待を受けて育った人からよく聞く話として、「うちの親は、虐待のニュースを見て、『なんてひどい親なの!』『子供がかわいいと思えないのか!?』と言っていた」というのがある。上のtogetterのブコメでも、親に虐待の自覚がなかったと言う人がいる。

 

これは、「優しさ」だけではなく、教育虐待における指導力についても、同じことが言えるだろう。

togetter.com

中学受験で子供を不登校になるまで追い詰めた父親の話。私は、父親の「子供の才能が期待ほどじゃなかった」という言葉が気になった。たぶん、それ以前に、この父親にコーチングの才能がなかったのではないか。

傍から見れば、こんなやり方では子供が潰れてしまうのは当たり前だと思うのだけれど、親側に「自分には子供を教える能力がない」という自覚がなければ、子供の成績が上がらないのは、自分ではなく子供が原因だと思ってしまうのだろう。この父親は、子供に勉強を教える前に、自分がコーチングを教わるべきだったかもしれない。

もし「自分には子供を教える能力がない」と自覚していれば、勉強を教えるのは学校や塾の先生に任せ、自分は子供の健康や心理面でのサポートに徹するという判断もできるのに。

 

ここから学べることは、虐待やDVは、自分がしていて気付くことができないものだということだ。虐待やDVの加害者を他人事として「ひどい人がやるもの」と思っているより、「自分もするかもしれないもの」ぐらいに思っておいたほうが良いのだろう。何せ、前者の考え方は、虐待している親も思っていることなのだから。

 

恋愛の話題においても、「女は悪い男にばかりひっかかるから、真面目で善良な自分に見向きもしない」と言う人がいるけれど、当然ながら、恋愛未経験者であることは、支配的・暴力的ではないことを保障しない。子育て経験がないことが、虐待親にならないことを保障しないように。

実際、子供が生まれる前は「虐待するなんて信じられない!」と思っていたのに、いざ子供を育ててみると虐待してしまったという人も、よくいるのだから。(というより、こう自覚できる人はまだマシで、重篤な人ほど虐待しているという自覚がないという話なのだけれど。)

 

さて、「優しさ」や「性格の良さ」にもダニング・クルーガー効果が適用できるとしたら……本当に優しい人や性格が良い人は、自分のことをそれほど「優しい」「性格が良い」とは思っていないかもしれない。

ヒール靴強要問題~他人の痛みは100年でも我慢できる

yuhka-uno.hatenablog.com

 

さて、上の記事を書いたところ、「フェミニストはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている」という事例として「上野千鶴子がいるじゃないか」と反応する人があまりにも多かった。その反応を見て、私は「皆、なんで上野千鶴子氏一人の発言にそんなにこだわるんだろう」と思っていたが、下の記事を読んで、少しその原因が見えてきたような気がする。

もしかして、この問題にあまり関心がない人には、ヒール靴強要問題を訴える女性たちが、上野氏の発言以前からずっと「どうせハイヒールが嫌いなだけなんだろ」と言われ続けていたのが、見えていないということなのだろうか?

 

azanaerunawano5to4.hatenablog.com

 

以前、ある芸能人が、中学時代にいじめに遭っていた体験を話していたことがあった。クラスの男子数人から中心的にいじめられており、学校の焼却炉のところで体に熱した火ばさみを当てられたり、トイレで唇をカッターで切られるなどされたという。その芸能人は、当時、このことを誰にも相談しなかったという。

私はこれを見て、「被害者が誰にも言わなかったということは、当時、教師や他のクラスメイトたちは、この人がそこまで酷いいじめを受けていたことを知らなかった可能性が高いな」と思った。軽度のいじめは教室で行われることもあったが、深刻ないじめは、トイレや焼却炉など、いじめの中心人物と被害者だけがいる空間で行われていたからだ。教師や他のクラスメイトの認識としては、「ちょっとからかわれたりして、孤立している子はいるけれど、そこまで酷いいじめじゃない」程度の認識だったかもしれない。

 

また、いじめは集団で行われるケースが多いため、いじめをするほうからは1回やったことでも、いじめをする者が20人30人いれば、被害者にとっては、20回30回やられているということになる。加害者や傍観者の立場から見る光景としては、「いじめられている子は、自分が見ていないところでもいじめられている」という想像力を働かせられないと、「そこまで深刻ではない」と認識してしまうことは、大いにありえる。

こうなると、被害者が、自分がやられたことに対して当然のレベルで怒ったり傷ついたりいるのに、それを見た傍観者的立場の者は、「怒りすぎ」「大げさだ」と捉えてしまうことになりかねない。

 

差別もまた、大抵はこれと同じメカニズムになっている。

つまり……ヒール靴強要の件においても、傍観者的立場の者からすると、「フェミニストが言っていることはよく見えるが、フェミニストが言われていることはあまり見えていない」ということになっているのではないだろうか。

 

私は#Kutoo運動について、そこまで詳しく見ていたわけではないが、冒頭で言ったように、上野氏の発言以前、少なくとも、署名を集めたり厚生労働相に質問する動きがあった時から、この運動に対して「どうせハイヒールが嫌いなだけなんだろ」と言う人が沢山いた。

#Kutoo運動に関しては、きっかけを作った石川優実氏の職場を特定しようとする人たちまで現れたらしい。その影響で、石川氏は当時勤めていた葬儀会社を辞めてたそうだ。*1職場を特定しようとする動きまであったくらいだから、ネット上でのバッシングがいかに多かったかということは想像余りある。

ちなみに、石川氏は、葬儀会社に勤めていたことから、女性だけがヒール靴を履いて労働することに疑問を持つようになったらしいが、石川氏は、最初から「男性と同じ革靴ではダメなのか」と言っていたにも関わらず、彼女に対して「葬儀の席でスニーカー履く気かよ」などと言っていた人もいた。

 

こういうことは本当によくある。以前、私が「ダサピンク現象」という言葉を言った時も、「どうせピンクが嫌いな女が言ってるんだろう」と言う人が、それはそれは沢山いたものである。*2

ちなみに、女性がこういった問題に疑問の声を上げると「どうせブスorババアなんだろう」と言われるのは、少なくとも100年以上前の婦人参政権運動時代からよくある話だ。*3

 

ある意味で興味深いと思うのは、バッシングする人々が、職場の女性たちにヒール靴を強要するような立場に就いているわけでもなさそうな人が多いことだった。どうやら、この問題を、労働問題だけでなく女性差別問題でもあると言ったことが、彼らの怒りの原因になったらしいが、ヒール靴を強要されているのは実質女性だけであり、現代日本では、企業の「偉い人」はほぼ男性という社会なのだから、女性差別だと見るのは至極当然だと思う。

批判されたり改善を求められたりしているのは、そういった企業の「偉い人」や厚生労働相であって、それ以外の人は特に批判されているわけでもないのに、彼らが何をそこまで怒る必要があるのか、正直よくわからないのだが、ここで言うところの「冷たい怒り」なのかもしれない。

 

“ある種の心理的な状態を描写して、それをひとつの概念として確立したいと思います。とりあえず、私はそれを「冷たい怒り」と名づけました。

伝統的な慣習で惰性的に続いているものに関連して起こることなので、例として社員旅行を使います。

日本では、こういう伝統を守ろうとする人たちは、「社員旅行はよい」と主張しないで「社員旅行に文句をつける奴は悪い奴だ」と主張する傾向があります。権力のある人から、繰り返しそれを受け続けると、社員旅行の好き嫌いと関係なしに、「社員旅行に文句を言えないことに対する怒り」がたまってきます。この怒りはどこに向かうかと言うと、社員旅行が好きな人ではありません。「社員旅行に文句を言うな」と言った人でもありません。「社員旅行に文句を言う人」に向かって吐き出されます。これが「冷たい怒り」です。”

冷たい怒り - アンカテ

 

“まず、僕はホモソーシャルにおける弱者男性の一員である。サラリーマンとして男性社会を生きているが、男性社会とはすなわち弱肉強食の競争社会であり、オトコなら弱音は吐かず我慢してナンボ、泣いちゃダメ、出世しろ、という精神が今も根付いている。しかし、僕ははっきり言ってメンタルが弱いし、そこそこの収入で家族とのんびり暮らしたい、もっと寝たいetc...としか思っていない。「オトコ」の風上にも置けない奴だ。つまり、ジェンダーと自分の性格が乖離していることにより、大層ストレスが溜まる。

こういったストレスが引き金となり、「男性(僕)はジェンダーを受け入れて我慢しているのに、女性は愚痴ることができていいよな」、「女性も我慢しろよ」、という論理性の破綻した反発につながる。”

#ツイッターでウィメンズマーチ に反感を抱いてしまう弱者男性(の一人) - 男女問題に関するいろい論

 

さて、多くの人がこだわっていた上野千鶴子氏の発言はこれだろう。

 それに対して、石川氏はこう言っている。

おそらく、石川氏は、著名なフェミニストである上野氏がこう言うことで、「ほら見ろ!やっぱりフェミはハイヒールが嫌いなだけなんだろ!」と言いたがる人が沢山出てくることを懸念したのではないかと思う。

ちなみに、上野氏は自身の発言についてはこう言っているが。

mirror.asahi.com

 

漫画『王様の仕立て屋』の中の例のシーンにおける「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」というセリフが上野氏のことを指しているとしても、私は「取材・考証不足」だなと思う。

いじめにおいて、いじめられる側から見た視点を取材せず、ただ、いじめのあるクラスの傍観者という立場から見た風景だけを元に描いて、それが正確な描写になりえるものだろうか?

傍観者の立場にある者は、自分自身を中立かつ客観的な立場だと思い込んでいることが多いが、実際には、いじめがある集団の中で感覚が麻痺してしまっただけの者であったり、既に書いてきたように、いじめの実態が見えていない立場であったりするものだ。

 

自分はハイヒールやパンプスなど一生履く必要に迫られないと思っている人にとっては、どうやら「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」ということが一番の関心事になる傾向があるらしいが、職種によってはハイヒールを強要されかねない立場の人間にとっての一番の関心事は、「足が痛い」「健康を損ねる」「その職場を辞めざるをえない」ということである。

むしろ、女性がハイヒールを履くか履かないかという、多くの男性にとっては、接客する女性たちの見た目が多少変わる程度の影響でしかないことでさえ、「声を上げる女性を蛇蝎の如く嫌っている人がいる」のだなぁと思う。

 

そういう点においては、私はある意味、この問題においては、上野氏にも石原氏にも、あまり興味を持っていないのかもしれない。過去記事『女性参政権運動家:エメリン・パンクハーストの「過激さ」をどう評価するか』の中で、私はエメリン・パンクハーストの「過激さ」を、当時の社会がいかに女性たちの声を聞かなかったかということを映し出す「鏡」であり、注目すべきは当時の社会状況のほうであるという趣旨のことを書いたが、この件においても、私は、石川氏が言ったことよりは、石川氏が言われたことのほうに注目しており、石川氏のことを「鏡」として見ているところがあるのだろう。

 

なお、職場におけるヒール靴強要を問題視する声は、石川氏以前から言っている人は沢山いたということは書いておこうと思う。ある意味では、石川氏がたまたま「バズッた」から、2019年の流行語に「#Kutoo」が選ばれるくらいには注目されるようになったのだが、このヒール・パンプス問題は、2019年だけでなく、それ以前からずっとあった問題なのである。近年話題になった「保育園落ちた日本死ね!!!」の何十年も前から、ずっと保育所不足問題があったように。

 

また、この問題について「本当に強要なんてあるの?」と言っている男性の中には、どうにも「職場=オフィス」としか考えていないのではないかと思えるような人もいた。確かに、昨今のオフィスはカジュアル化が進んでいるが、飲食業、宿泊業、営業等の「接客」要素が高い職場においては、まだまだ「きちんとした格好」としてヒール靴が求められる傾向があるようである。*4ちなみに、女性の半数以上は非正規雇用である。

そもそも、「本当に強要なんてあるの?」と思うこと自体が、傍観者的立場の人からは実態が見えないという現象そのものなのだが。

 

私は、ヒール靴強要問題に関しては、もしかしたら、女性が男性と同様にヒール靴を履かなくても済むようにしていくよりも、男性にも女性と同等にヒール靴を強要したほうが、問題が解決されやすいのではないかと思う。

なぜなら、男性は論理的かつ合理的な生き物らしいので、それが明確な強要であれ暗黙の空気によるものであれ、ヒール靴を履くことが求められる立場になったら、夕方にはあまりの足の痛みと疲労に、上野千鶴子氏の発言とかもわりとどうでも良くなって、「こんな慣習、今すぐやめるべきだ!」と言うであろうから。そうすれば、職場でのヒール靴&パンプス強要は、すぐになくなるであろう。

他人の痛みは100年だって我慢できるが、自分の痛みは1秒だって我慢できないものだ。

 

しかしまぁ、#Kutoo運動がきっかけで、職場によってはヒール靴を見直すところも出てきているのだから、今後もこういう流れに傾いていくのではないかと思っている。過去、差別が是正されてきたのは、差別的な人たちが考えを変えたからというよりは、それ以外の人たちが社会の空気を変えて、差別的な人たちを置いてきたからという面が強い。だから、この問題についても、「声を上げる女性を蛇蝎の如く嫌っている人」たちを置いていくことになるのだろう。

#Kutoo運動に関しては、そう思っていることもあり、また、既に沢山言及している人がいるので、私はあえて今まで書いてこなかった。私がこの記事を書こうと思ったのは、漫画『王様の仕立て屋』の件があったからだ。ああいうものは作品として残ってしまう。過去に創られてきた、今から見れば差別的なシーンがある作品のように。そういったシーンは、美味しいチョコレートボンボンの中に混入した小石のようである。

 

おまけ。痛みと差別の関係といえば、こういう記事があった。歴史的に長らく白人は黒人の痛みに鈍感であったが、どうやらそれは今も続いているらしい。

www.j-cast.com

なぜ「フェミニストはハイヒールを嫌っている」と思われるのか~『王様の仕立て屋』への意見

前編では、フェミニストの主張がすり替えられてしまうカラクリについて書きました。後編では、件の『王様の仕立て屋』の回について、思うところを書いていこうと思います。

※前編はこちら。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

togetter.com

 

さて、件の漫画についてですが、「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」と思っているキャラクターが出てきても良いのですが、作中でそれを訂正しておかないと、漫画によって誤った認識を広めることになってしまいかねません。

それは、例えるなら、作中でブラック企業の問題を取り上げておいて、キャラクターに「ブラック企業だと言って批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人がいますが」と言わせたなら、その後の話の展開はそれで良いのかということです。

 

スワールトゥの靴を強要される職場などまずないのに対して(せいぜい靴のモデルの仕事ぐらいでしょう)、ハイヒールのそれは、実際に会社からの強要の例がかなりあるので、比較対象として適当ではないように思われます。

また、女性がハイヒールかフラットシューズかの選択肢を与えられていないという問題に対して、ただ「好きな物を履けばいい」と言うのは、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言うようなものです。「(本来なら)好きな物を履けばいい(はずなのに)」という文脈で語られるべきでしょう。

 

普段ならば、紳士服のあれこれについては、丁寧に調べて描く必要があるとわかるのに、こういった問題については、どういうわけか、うっかり調べないで描いてしまったのかもしれませんが、むしろ、こういった問題こそ、自分自身が誤解している可能性を疑って、きちんと調べなくてはならないものです。ただでさえ、マイノリティの実像は、マジョリティによって歪められ、ステレオタイプ化されて広まっていることが多いので、ちゃんと調べて書かないと、「調査不足・考証不足」と見なされてしまうでしょう。

これまで服飾について掘り下げて描いてきたであろうこの漫画において、女性の靴について、「フェミニストはハイヒールを嫌っている」というイメージのまま、十分に調べることなく描写するのは、その漫画が今まで積み上げてきたものを棄損してしまいかねないのでは?と思います。

 

この「調査不足・考証不足」についてですが、私はこの、2014年の映画『ベイマックス』を見た人の感想から派生した話を思い出しました。

“political correctness にコミットメントするのは、いまのものづくりにおいて、時代考証や、SFの超科学に説得力を持たせるのと同じく、推敲、洗練、煮詰め、練り上げ……といった作業のはずなのですが、何故ここまで嫌悪、もっとはっきり言えば「面倒くさがられる」のか。”

 

“PC的なものはSF考証とか歴史考証みたいなものかもしれませんね。
手間だし、やろうとするとシナリオ全体をいじらないといけなくなるけど、うまくできればそれ自体が快楽になるという。” 

 

“まさにそれだと思います。PCが分かってないことが、ただの考証不足、取材不足として扱われるようになるだろうと予感させるような出来でした。”

 

ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン - Togetter

 

上記リンク先の内容をかいつまんで話すと、今まで白人中心の映画会社が作ってきた作品の中で、日本がステレオタイプ的に描かれるのが「普通」だったのが、ベイマックスの中の日本要素は、日本人の目から見ても違和感を感じないものに仕上がっていたこと。

そこから派生して、女性から見て違和感のない女性描写、黒人から見て違和感のない黒人描写、障害者から見て違和感のない障害者描写というのは、日本人から見て違和感のない日本描写や、時代考証がきちんとなされた作品などと同様であり、これからはこのレベルが「普通」になっていくだろう……という内容です。

 

そして、実際その通りになってきています。2018年公開の、主要キャストのほとんどが黒人の『ブラックパンサー(Black Panther)』、主要キャストのほとんどがアジア系の『クレイジー・リッチ!(Crazy Rich Asians)』は、それまでのハリウッド映画にありがちだった人種・民族的ステレオタイプ、「とりあえず黒人出しときゃいいんでしょ」感がほとんどないと、高い評価を受けました。

2015年公開『マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)』においては、ジョージ・ミラー監督は、悪の親玉イモータン・ジョーの子供を産むために捕らわれていた5人の妻を描写するにあたって、人身売買に詳しい人を招いて監修してもらったと言っています。これは実はとても重要なことで、なぜなら、性暴力被害者を描写するにあたって、誤解や偏見に基づいた描写をしてしまう作品が、これまでよくあったからです。

 

“ミラー監督 映画を作る際、きちんとした世界観を構築するためには、できる限り物事を正確に描く必要がある。ウォーボーイズとイモータン・ジョーを描くにあたってはミリタリーの専門家にアドバイザーを依頼し、(俳優たちのための)ワークショップをやってもらった。そこで(ウォーボーイズやイモータンの)想定し得るコミュニケーションの方法を、現代の戦場におけるコミュニケーション方法を反映させた形で作り上げていったんだ。それと同じことを女性キャラクターについても行った。とくに5人の〈ワイヴズ〉の人物造形のためにだ。なぜなら〈ワイヴズ〉たちは、共通するバックグラウンド(というか境遇)があり、そのことで心がひとつに結ばれているーーということを示す必要があったからだ。そこで、特にアフリカにおける女性の人身売買や搾取(訳注:隷属状態、といってもいいです)に詳しいイヴ・エンスラーを招いて、〈ワイヴズ〉を演じた女優たちに「彼女たちがいったいどういう(精神的・肉体的な)状況にいるのか」ということがしっかりと理解できるよう手助けをしてもらった。”

TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

 

では、『王様の仕立て屋』の件のシーンにおいて、どのようにするのが良かったのかというと……これはあくまでも私の考えですが、「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」というセリフは、男性である織部に言わせ、女性陣がそれを訂正するという流れにするほうが、リアリティがあったのではないでしょうか。(というより、最初からこんなセリフ出さないほうがスムーズかもしれませんが……)

彼女たちは女性として当事者なわけですから、織部より若い女性キャラたちのほうが、最近のフェミニズムやハイヒール事情についてアンテナ感度が高かったとしても、何もおかしくはないでしょう。

 

そして、ハイヒールの歴史に関しては、織部は知っているけれど、実際にそういう靴を履いて足の具合がどうなるのかということについては、女性陣のほうが、経験者として一日の長があるはずです。例えるなら、医師は病気についての知識は持っているけれど、その病気になるとどのように苦しいのかは、病気になったことのない人にはわからないのと同じです。

いずれにせよ、こういう女性周りの問題まで、何でもかんでも男性である織部のほうが知っていて、年下の女性たちに説明するというのも、些か不自然なのではないかと思います。

 

今日において、映画『ティファニーで朝食を』のユニオシ氏というキャラクターは、「あの時代の日本人キャラクターは、ああいうふうに描かれていた」という、ある種、人種や民俗に対するステレオタイプの例として機能しています。*1ディズニーにおいても、問題があると指摘された歌詞を変更したり、過去作品の実写化をするにあたって、オリエンタリズムを刷新したりしています。*2

こういった部分をよく調べずに描いた作品は、何十年後か、いや、場合によっては数年もしないうちに、とりわけそのシーンだけが、非常に古い印象を抱かせるものになってしまいがちです。一方、丁寧に描くと、普遍的なものになったり、その時代においては画期的だという評価がなされたりすることも多いです。

 

フェミニストは、エマ・ワトソンのようにセクシーな服を着てもいいのか?」、記者によるこの質問に対して、スタイネムはこう答えている。

フェミニストは着たいものを何だって着てもいいのよ。

エマ・ワトソンの『ノーブラ論争』で何を思った? 「フェミニストが着る服は...」 | ハフポスト

 こっちは「パンがなければ…」じゃないほうの「好きなものを着ればいい」。

 

 

王様の仕立て屋 1 ~下町テーラー~ (ヤングジャンプコミックス)

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炎上しない企業情報発信 ジェンダーはビジネスの新教養である

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