なぜ「フェミニストはハイヒールを嫌っている」と思われるのか~すり替えのカラクリ
『王様の仕立て屋』という漫画の中で、「そういえば フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいますけど」というセリフが出てきて、物議を醸していました。
この件について書いてみましたが、長くなりましたので、前編と後編に分けて書くことにします。
フェミニストに対して、この登場人物のような認識を持っている人は、実際多くいます。一方で、実際にフェミニストが言っていることは、概ね「ハイヒールの強要をやめよう」なのですね。
欧米においては、カンヌ映画祭において、フラットシューズを履いた女性が入場を拒否されたことから、ジュリア・ロバーツやクリステン・スチュワートがレッドカーペットを裸足で歩くパフォーマンスをしてみせたりします。日本においては、『#Kutoo運動』の提唱者である石川優実氏が有名ですが、石川氏も「職場におけるハイヒールの強要」を問題視しているのであって、かなり最初期から「ヒールを履きたい女性を否定する運動ではない」と言っています。
この辺りのことは、少しネットで調べればわかることでしょう。
では、なぜ「フェミニストはハイヒールを嫌っている」という誤解が広まっているのでしょうか。
ハラスメント気質な人によくあることとして、「部分否定を全否定だと受け取る」というのがあります。
例えば、勧められたお酒を断るという行為は、アルハラ気質のない人からすると、「飲めない体質なのかな」「今は飲みたくないのかも」と思うのがせいぜいでしょう。一方、アルハラ気質の人が言うことの代表例は、「俺の酒が飲めないのか!」というセリフですよね。
アルハラ気質の人は、自分の勧めた酒を断られたということが、「自分の好意を拒否された」→「俺のことが嫌いなんだろう」という思考に結びついてしまう。相手はただ酒が飲めないから断っただけなのに、自分が全否定されたと感じるのです。
同じようなことはセクハラでもあります。「セクハラはやめろ」という趣旨のことを言われた人が、「性欲なくせって言うのか!」と言い出すのは、よく見る光景です。相手は別に、性欲を抱くことまで否定しているわけではありません。ただ、頭の中で思うことと、実際に言ったりやったりすることとは、全然違うのだから、自分の領域と他人の領域の区別をつけろということなのです。
しかし、セクハラ気質の人は、性の分野において、自分の領域と他人の領域の区別がつかないので、相手の許可なく他人の領域に踏み込むし、それを拒否されると、自分自身の性、ひいては自分そのものが全否定されたと感じるのです。
こういった、「部分否定を全否定だと受け取る」気質の特徴がよく表れていたのが、この件だったかなと思います。
ワタミグループでは2008年6月、居酒屋で働いていた新入社員が過労自殺し、12年に労災認定されている。渡辺氏は中原氏への質問の中で、「私も10年前に愛する社員を亡くしている経営者。過労死のない社会を何としても実現したい」としたうえで、「国会の議論を聞いていますと、働くことが悪いことであるかのような議論に聞こえてきます。お話を聞いていますと、週休7日が人間にとって幸せなのかと聞こえてきます」と発言した。
過労自殺した遺族の訴えに対する、渡辺氏の「働くことが悪いことであるかのような議論に聞こえてきます」「週休7日が人間にとって幸せなのかと聞こえてきます」という発言は、ネット上では、おおむね「この人は何を言っているのだ…?」という反応をする人が多数でした。まぁ、経営者側のほうが権力的に強いとはいえ、ネット上では、ブラック企業に批判的な人が大多数ですから、このような反応になるのでしょう。
しかし、もしこれが、うっすらブラック企業側の感覚を持った人が多数の世界だとしたら……おそらく、「遺族は、働くことが悪いことだと言っている」「批判しているのは、週休7日が人間にとって幸せだと考えている人たちだ」と言われて、あっという間にその言説が広まってしまっていたことでしょう。
これが、「職場でハイヒールを強要しないでほしい」というフェミニストの主張が、「ハイヒールが悪いものであるかのように聞こえる」「フェミニストはハイヒールを嫌っている」にすり替えられてしまうカラクリです。
実際のところ、フェミニストの中には、ハイヒールを嫌っている人もいますが、ハイヒールが好きという人もいます。(「休日のおしゃれに履くのはいいけれど、“労働”の時に履くのは嫌」という人が多数かもしれません。)その辺は、アルハラに反対する人には、下戸もいれば上戸もいるのと同じでしょう。共通しているのは「他人に強要するのはやめろ」ということです。
問題は、「ハイヒールの強要」という問題において、「ハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人」の存在を持ち出してくることに、何の意味があるのかということです。
そりゃあ、ブラック企業を批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人もいるでしょうが、ブラック企業問題を語る上で、「ブラック企業を批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人もいますが」と言うことに、何の意味があるのかということです。労働を蛇蝎の如く嫌っている人がいたところで、「労働基準法を守るべきだ」ということに変わりはないはずですから。
…まぁ、もし「できれば労働基準法なんて守りたくない」と思っている人や、「労働問題はどうでもいい。とにかく声を上げる人が気に食わない」という人*1がいたとすれば……そういう人からすると、わざわざ「批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人もいますよね」と言うことには、それなりに意味があるのかもしれませんが。
それにしても、ヒール靴強要問題における、こういったネット上の反応は不思議だなぁと思います。職場において、非合理的な慣習がまかり通っていること、中でもとりわけ、それで健康被害が出ていることに対しては、実社会はともかく、少なくともネット上であれば、「非合理的」「こんな慣習は早くなくすべき」「時代遅れだ」という反応になるのが普通なのですが、こと女性だけが被害を被っている問題となると、「女のわがまま」という解釈しかできなくなったり、「職場が強制しているという事実があるのか?女の勘違いなんじゃないのか?」という方向へ持って行く人が多数出てくるようです。
と、ここまで書いてきて、この文面を見つけて「マジかよ……」と思いました。
というか、個人的には「履いてる人はバカだなぁ」と思ってたくらいなので、
KuToo運動を見たときに女性がそれを強制されていたことを知らなくて大変申し訳なく思いました。
これに関しては、本当に無知ですみません。
いやー、この問題については「どうせ女が大げさに騒いでいるだけだろ」みたいな反応する人を多く見かけたわけですが、マジでそのレベルだったのか…… まぁ予想はしていましたが、こうしてはっきり提示されると、改めて「マジかよ……そこからかよ……」ってなりますねぇ……
結局これも、子連れの女性が嫌がらせを受けることを、男性の目撃者が出てくるまで「女が自意識過剰なだけじゃね?」と思っていたり*2、女性を狙ってわざとぶつかる人がいるのを、映像が出てくるまで信じられなかったりするのと、同じなのかもですね。
しかし、私は「男子に丸刈りを強要する学校がある」と聞いても、「本当にそんな学校あるの?」「男が騒ぎすぎているだけじゃね?」とは思わないのになぁ……
“女性の感情に対する(多くの)男性の典型的見方と、有色人種の人々の感情に対する(多くの)白人の典型的な見方には共通点がある。黒人は人種差別を訴えているが、(多くの)白人はそれを実際に目にするまで信じないと、世論調査や研究が伝えている。白人や社会的地位の高い黒人の話は信用されるが、その他の黒人の個人的な体験や感情は論理的でないとみなされるのだ。”
〔追記〕
色々書いたけど、結局ここで書かれているようなことなのかもしれないな……
“まず、僕はホモソーシャルにおける弱者男性の一員である。サラリーマンとして男性社会を生きているが、男性社会とはすなわち弱肉強食の競争社会であり、オトコなら弱音は吐かず我慢してナンボ、泣いちゃダメ、出世しろ、という精神が今も根付いている。しかし、僕ははっきり言ってメンタルが弱いし、そこそこの収入で家族とのんびり暮らしたい、もっと寝たいetc...としか思っていない。「オトコ」の風上にも置けない奴だ。つまり、ジェンダーと自分の性格が乖離していることにより、大層ストレスが溜まる。
こういったストレスが引き金となり、「男性(僕)はジェンダーを受け入れて我慢しているのに、女性は愚痴ることができていいよな」、「女性も我慢しろよ」、という論理性の破綻した反発につながる。”
※後編はこちら。
※業務上必要なヒール靴の例。この演目を演じるには、ハイヒールが必要!
ブロードウェイミュージカル「キンキーブーツ」ゲネプロ2019 小池徹平 三浦春馬
その靴、痛くないですか? ――あなたにぴったりな靴の見つけ方
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大丸梅田店の生理バッジについて思うこと~障害学の視点からなど
大丸梅田店において、女性店員が生理であることを示す「生理バッジ」をつける試みが話題になっています。生理をオープンにして、生理の時に気遣い合えるようにすることを目的としているようです。
ネット上では、既に「任意とは言うけれど、会社側が言うことによって、実質強制にならないか」という批判は沢山出ているので、また別の角度から思うところを書いてみようと思います。
私は以前、一見障害者だとわからない障害者が抱えている問題について、健常者の人たちに解説するという趣旨の集まりに参加したことがあります。講師の人が一通り話し終えた後、一人の健常者が「街中で見かけてもわからないから、わかりやすいように印とかつけといてくれたらいいのにね」と発言しました。その提案は、障害当事者たちには、おおむね不評でした。
私自身、発達障害者ですが、職場などで発達障害だということをオープンにして働くことと、「発達障害バッジ」みたいなものをつけて歩くことは、全く別だというのが、私の認識でした。「だいたい、なんで発達障害者だけが印つける必要があるのかなぁ。それなら、定型発達者も『定型発達バッジ』つけたほうが便利だよ」とも思いました。*1あと、単純に、いちいちバッジつけるのめんどくさいです。
一方で、世の中には、ヘルプマーク、耳マーク、オストメイトマークなど、障害者であることを表すマークはあります。*2これらのものは、障害者が任意で身に着けるものですね。で、職場で、これらのマークを「身に着けたい人は身に着けて下さいね」というふうに置いておいて、従業員が任意で身に着けられるようにしておくというのは、良いんじゃないかなと思います。
ただ、私が大丸百貨店の試みに違和感を感じた点は、これ「キャンペーン」的なものなんですよね。お客さんを意識しているというか、対外的な要素が強いんじゃないでしょうか。そういう対外的な「キャンペーン」のために、従業員のプライベートを開示するというのは、「それでええんか?」という気がするのですね。
うーん、なんというか、例えるなら「世間に子育て熱心なことをアピールする親」「対外的にイクメンアピールする夫」を見た時に似たもやもやを感じてしまったんです。対外的にアピールするよりも、まず自分たちの職場を良くしていくことを考えたほうが良いのでは、と思いました。
でもまぁ、たぶんそっちのほうが難しいのかもしれませんね……日本って、「お客様のため」という大義名分があれば言いやすいけれど、「自分たちが働きやすくなるため」だと言いにくい、みたいな空気ありますもんね。でも、ことこの問題に関しては、どうせ批判覚悟でやるなら、「自分たちが職場で働く上で、本当に求めているものは何なのか」から出発して、それを実施して、その上で「うちではこういう取り組みを始めました」と発信したほうが、世の女性たちからの反応も良いものになるんじゃないかなって思います。
生理バッジ導入するくらいなら
— 伊月いつき (@itsukinoaka) November 25, 2019
レジに接客してないとき座っていい椅子とかお手洗いにいざという時使っていいナプキンとか、生理休暇取得できる環境とかそういうのを導入した方がいいのではと思ってしまう
それから、「これ、むしろ『生理が来てる』場合より『生理が来ない』場合のほうが問題だな」と思いました。 生理が来ない理由は、生まれつきそういう体質という人もいれば、病気とか妊娠とかそろそろ閉経とか、特に原因がわからないケースとか、様々ですが、むしろ「生理が来ない」ことこそ他人に知られたくないということはあるでしょう。女性なら、誰もが毎月きちんきちんと生理が来るわけではないですしね。
元になった漫画については、「残念だなぁ」と思っていることがあります。それは、バッジをつけない女性のモデルが、おおむね「バッジをつけずに我慢するのが美徳だと思っている女性」しか登場していなかったこと。
私は、この漫画の中に、ただ単に「バッジつけるのめんどくさ~」という理由でつけず、「バッジはつけないけど、気軽に『今日生理だから~』と言って休む女性」が登場しても良かったのではないかと思いました。バッジをつけたくない女性だって多種多様だろうからです。
というか、もし私だったらそうするだろうな、と思ったからなんですけどね。そして、これを考えた時、私は女子校に通っていた時代のことを思い出しました。女子校では、バッジなんてつけなくても、生理は普通のことでした。生理周りの体調不良も、当たり前に理解されました。
小学校の性教育では、「ナプキンはポーチに入れて持ち歩くといいよ」と教わったので、そういうもんだと思っていたのですが、女子校に行くと、ナプキンを隠さなくなる子が続出しました。鞄から何にも包まれていないナプキンを取り出して、そのままトイレに持っていく子が沢山いました。
でも、賃金労働の世界に行くと、生理周りのことは、なんとなく隠すものという空気が漂っていました。これは、賃金労働の世界のシステムが、生理がない人を基準に作られてしまっているからなんですね。そうなると、たとえ女性が多い職場であっても、男性社会のシステムで動くわけですから、「生理で休むなんて」「私は我慢した」みたいな空気が漂うことになったりする。生理が思い人と軽い人で分断されるのです。
障害学の世界には、「医療モデル」と「社会モデル」という考え方があります。障害を体の内側にあるものと捉えるか、体の外側にあるものと捉えるか、ということです。
障害者の歴史においては、長らく「医療モデル」を中心に考えられてきました。つまり、障害者をなんとか「治療」するなり「訓練」するなりして、社会に適応できるようにしよう、という方法論です。
現代では、「医療モデル」に偏っていた過去が反省されて、マジョリティである健常者が、健常者中心の社会システムを作ってしまったために、障害者が生きづらくなっている。障害は社会のほうにあるという「社会モデル」の考え方が主流になってきています。
例えば、痛みや倦怠感があるなどといった問題は、病院に行って痛み止めを打ってもらったり、病気そのものを治療するなどして対処する。これは「医療モデル」ということになります。一方、痛みや倦怠感があることが周囲から理解されず、そのために不自由する。これは「社会モデル」ということになります。
で、この「医療モデル」「社会モデル」を、生理に当てはめて考えてみると、痛みや倦怠感などを緩和するために、婦人科を受診したり薬を処方してもらうなどの「医療モデル」においても、社会システムを生理がない人に合わせて作ってしまったために、生理がある人が不便な思いをしているという「社会モデル」においても、日本は遅れているということになるでしょう。
またちょっと違った角度の話になるのですが、LGBT周辺の問題でよく言われることに、「同性愛者にカムアウトを促す前に、異性愛者がカムアウトしやすい世の中を作るほうが先」というのがありますね。本来、こういった問題を解決する責任があるのは、マイノリティじゃなくてマジョリティのほうなんです。
これに照らし合わせて考えれば、女性が生理をオープンにするために、本当に頑張らないといけないのは、どこの誰?ということになってくるでしょう。「女性に」バッジをつけさせて、「女性に」発信させる前に、まずやることが沢山あるような気がするのです。
私は、大丸梅田店の女性店員さんたちが「生理バッジ」をつけるよりも、大丸の男性職員さんたちが、女性の生理についてメッセージを発信したほうが、もっと良いんじゃないかな、と思うのです。
あと、生理ちゃんの作者は「女子校の生理ちゃん」を描いてもいいですよ。
[2019.12.1 追記]
取り止めになった模様。
*1:ここで書かれているようなこと。→多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー
女性参政権運動家:エメリン・パンクハーストの「過激さ」をどう評価するか
はてなブックマーク巡りをしていて、上の記事が目に入った。全体的に楽しく読ませて頂いたが、女性参政権運動家:エメリン・パンクハーストについての記述だけ、違和感を感じてしまった。私は歴史には詳しくないが、差別の構造については少しばかり興味を持っているので、違った歴史の見方を提示できるかもしれない。
念のため、最初に言っておくけれど、これは投石や爆破や放火などを肯定するものではない。パンクハーストはじめサフラジェットたちの抵抗運動をどのように評価するかという話だ。
上の記事から、エメリン・パンクハーストに関する記述を引用させて頂く。
彼女をここにランクインさせるべきかは非常に悩ましいところである。
エメリン・パンクハーストは恐らく世界史で最も有名なフェミニストで、いい意味でも悪い意味でも現在のフェミニスト運動の先駆けとなった人物である。
彼女の手法はとにかく過激かつ非合法なもので、自説を主張するために自身を含めた運動家を逮捕させる行動を繰り返し世間の注目を集め続けた。彼女の組織したWSPUという女性の権利団体はひたすら窓ガラスを割り続け、国会の傍聴席に自分たちの身体を鎖でしばりつけたり、爆弾を使って郵便受けを爆破したりするなどもはやテロリズムと言っても良い手段で女性の地位向上を狙っていた。
特にイギリスの伝統あるエプソムダービーでゴールの前に飛び出して運動員が死亡するという事故を起こした際には世界中から顰蹙を買ったのだが、途中からハンガーストライキに訴えたり、一次大戦の際には運動を辞めて暴力的な戦術を停止するなどただの過激派ではない面もある。
彼女の過激なフェミニズムは海を渡ったアメリカでも受け入れられ、ウーマンリブのような過激な運動組織へと継承させていく。
彼女の与えた影響は悪い意味でも大きく、現在でもフェミニストが暴れやすい傾向にあるのはエメリン・パンクハーストにその源流を求めることができるだろう。
とはいえ彼女の尽力で1918年にイギリスで、1920年にアメリカで女性参政権が実現できたのも確かなので、エメリン・パンクハーストはやはり偉人なのである。
英米において女性の参政権が認められたのは1920年前後のことであり、そう言ったことを考えるとやり方や内容はともかくエメリン・パンクハーストの功績はやはり大きいと言えるだろう。ただ、暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった人物でもあるが…
歴史上、植民地支配や独裁体制、人種・民族・身分差別等により、参政権やその他の権利を奪われている人たちが抵抗する運動というのは、世界各地で起こってきた。現在では香港の状況がそれに当たるだろう。こういった抵抗運動においては、言論による抵抗に止まらず、投石や爆破といった事態になった例は珍しくなく、場合によっては紛争や戦争にまで発展してしまったものもある。
パンクハーストたちの運動は、これらの男性が参加してきた抵抗運動に比べて、ことさら「過激」なものなのだろうか。もし、男性が主体になっていた抵抗運動に比べて、女性参政権運動のそれのほうが過激に見えるとしたら、それはなぜだろうか。
既に支配と抑圧の歴史が終わり、新たな価値観と社会制度が確立された後の出来事においては、その歴史が語られる時、「当時はこういった支配体制があって、こういう抵抗運動があって、体制が変わりました」という語られ方をする。
一方、現在進行形の支配と抑圧については、抵抗する側の問題点に注目が集まるが、その一方、抑圧する側については、抵抗する側以上に無茶苦茶なことを言ったりやったりしていても、大して注目されないし記憶に残らない。なぜなら、その支配と抑圧のただ中にある人々は、生まれた時からそういう環境で過ごしているので、その環境が「普通」だと思っているからだ。そういう感覚の中では、抵抗する側は「異端者」として見られる。
差別に対する抵抗運動の流れには、ある種の類型がある。
まず、マイノリティは穏健に訴える。マジョリティはとことんそれを無視する。痺れを切らしたマイノリティの中から、「穏健に訴えていても埒が明かない!」と、明確に怒りを表明したり、実力行使に及ぶ者が出るようになる。それに対して、マジョリティは「過激派」というレッテルを貼る。マイノリティは過激派と穏健派に分断され、マジョリティは、過激派を「悪いマイノリティ」、穏健派を「良いマイノリティ」と評価し、後者を「模範的なマイノリティ」として持ち上げる。
つまり、マジョリティは、「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かないのだ。そして、大抵の場合、差別する側は差別される側よりも、ずっと過激で暴力的である。
こういったことは、差別運動の歴史において繰り返されてきた。
さて、当時の女性参政権運動の場合はどうだったのかというと…
1860年代には、既に様々な女性参政権運動が各地で行われ、集会の開催やチラシの配布、国会への嘆願書提出が行われていた。にもかかわらず女性参政権に関する法案は常に否決され、一般国民や政府にとって彼女らの運動は見慣れた行事のようなものでしかなかった。だが1905年に風向きが変わる。
WSPUのメンバー2人が、マンチェスターで開催された自由党の集会に出向き「政権を取ったら、女性に選挙権を与えるのか」などと大声で叫び妨害。取り押さえた警官に唾をはきかけるなどして逮捕・投獄された。各新聞はこの「女性らしからぬ」事件を大きく報道。地方の一団体でしかなかったWSPUと、進展の見込みのなかった女性参政権運動は一躍脚光を浴びた。選挙権がない女性が政治に対して意見を言う方法は、もはや直接行動のほかにないとWSPUは考えた。こうして彼女たちは次々に過激な運動を展開するようになる。
見事にこの類型に当てはまっていると言えるだろう。
2015年に公開された映画『サフラジェット』は、まさにパンクハーストらが中心になって行った運動をテーマにした歴史映画だったが、その映画の批評で適当なものがあったので、引用して紹介しておく。
女性たちは全くの二級市民であり、税金だけはとられて権利は無い存在なのだ。序盤でモードは一度議会で労働条件についての証言を行うが、選挙権の無い女性たちの証言は無視されてしまう。このあたりの描き方は、「平和的な運動」という概念じたいが実は既得権者の有利に働くことがあり得るということを鋭くついていると思った。いくら平和的に頼んでも彼女たちにはそもそも議論のテーブルに上がる権利すら認められていないので、議会に影響力を及ぼすことができず、抹殺されるだけなのである。このため、モードやその仲間たちは注目されるため、脅威になるために先鋭化し、破壊活動をするようになる。
二級市民には意見を伝える手段すらない〜『サフラジェット』(『未来を花束にして』) - Commentarius Saevus
エメリン・パンクハーストのモットーは「言葉より行動を」だが、彼女たちのこうした過激さは、裏返せば、いかに当時の社会が女性たちの「言葉」に耳を傾けなかったかということを表しており、彼女たちはその社会状況を映し出す「鏡」として見るのが適当だろう。
上記のサイトには、当時の女性参政権運動家たちが受けた嫌がらせの例が載っている。驚くべきは、当時、彼女たちが受けた嫌がらせと、現代の「フェミニスト」と言われる女性たちが受けている嫌がらせの内容が、全く変わっていないことだ。
殺害予告にヘイト・メール……醜く描かれた女性の顔の下に「We Want the Vote」と文字を入れた画像があるが、これはまさに、現代でもアンチ・フェミニストがよく言う「フェミニストはブスのババア」そのものである。
エメリン・パンクハーストの評価については、「暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった」というよりは、むしろその時代が「暴れでもしなければどうにもならなかった」社会だったというふうに見たほうがいいだろう。
最初に書いたとおり、歴史上、抵抗運動で「暴れる」展開になるのは、特に珍しくはない。それら男性が参加していた抵抗運動についても「暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった」という評価をするのなら、それはある意味公平と言えるが、そうでないのなら、ニュートラルな評価とは言えないだろう。
そして、現在においても、パンクハーストの評価がニュートラルになされていないということは、現在においても、女性差別という「悪習」が色濃く残っているということの表れであり、まさにこれこそが、「現在でもフェミニストが暴れやすい」理由とは言えないだろうか。
もっとも、現代のフェミニストは、滅多なことでは投石や爆破や放火はしないし、行動すると言ってもせいぜい暴力の伴わないデモくらいなものなので、特に暴れている様子は見受けられない(一方、女性嫌悪から銃を乱射する男はいるが……*1)。これは、女性が参政権を獲得した影響があるのではないだろうか。
私はあまり歴史には詳しくないのだが、参政権がある層の抗議活動は、言論や集会の範囲に留まることが多いが、参政権がなく、言論を封殺されている層の抗議活動は、暴力行為にまで発展してしまうことが多いように思う。
私が、こういった差別抵抗運動の例を見るたびに思うことは、「マイノリティが穏健に言っているうちに、耳を傾けておけば良かったのに…」ということだ。しかし、差別への抵抗運動の流れが、ほぼ決まった類型を辿りがちなあたり、それは現実にはなかなか難しいことなのかもしれない。
ただ、歴史から学べるとすれば、マジョリティがマイノリティに対して思いがちな「なんでそんな攻撃的な方法を取るんだ。もっと穏健にわかるように言えば、受け入れられやすいのに」というのは、楽観に過ぎる場合があるということだ。現実には、差別する側というのは、モラル・ハラッサーや毒親のようなもので、抑圧されている側が言葉を選んで優しく訴えているうちは、居心地の良いポジションから動こうとしないものなのである。
女性参政権論争における黎明期は、フランス革命期における、ニコラ・ド・コンドルセの『女性の市民権の承認について』やオランプ・ド・グージュの『女性および女性市民の権利宣言』などがある。『女性および女性市民の権利宣言』が書かれたのは、フランス人権宣言が、結局のところ男性に限定されたものだったからだ。
アメリカにおいては、1848年に行われた、アメリカ女性運動の出発点と言われるセネカ・フォールズ会議がキーワードだ。この会議は、奴隷制度廃止運動の中で、女性だという理由で公の場で演説することを批難されたり、会議から締め出されたりした女性たちが中心になって行われた。*2
日本においては、平塚らいてうや市川房枝が有名だが、彼女たちが活躍した時代は、それまでの制限選挙制から納税要件を撤廃し、満25歳以上の内地に居住する日本人男性に選挙権が拡大された、大正デモクラシーの流れの中にある。
こういった歴史を見ていると、何かしら世の中に権利拡大の動きがあった時に、女性参政権の論争が勃発している傾向がある。日本における女性学のパイオニアである上野千鶴子氏は、学生運動内部における女性差別を目の当たりにしたそうだが、歴史を振り返ってみても、自由や平等や権利について考えているはずの男性たちが、女性の自由や平等や権利については、同じようには考えていないのだということを痛感した女性たちが、フェミニストになっていくケースが見受けられる。
さて、現代を生きる私たちは、歴史上の女性の参政権獲得のための運動を、男性の参政権獲得のための運動と、同じように考えることができているだろうか。もし、できていない人が多くいるようであれば、私たちは、まだ性差別による支配と抑圧と抵抗の時代の中にいるということになるのだろう。
“我に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ”
――パトリック・ヘンリー――*3
アメリカにおける人種差別の歴史をテーマにした映画『私はあなたのニグロではない(I Am Not Your Negro)』
「“私に自由か死を(※我に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ)”と白人が言ったなら 世界は称賛する だが同じことを黒人が言えば 犯罪人扱いされ 見せしめに罰せられるだろう 誰も後に続かないようにだ」
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*2:女性実力者の系譜-女性の投票権|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN
*3:我に自由を与え然らずんば死を与えよ - Wikisource アメリカ独立戦争における非常に有名な演説の一部。この発言は、パトリック・ヘンリーが非常に過激な思想の持ち主であり、時として、男性が女性以上にこらえ性がないことを表している。
「ブランド期」から「ユニクロ期」へ~おしゃれが“非日常”から“日常”になった時代
前回記事『「ユニクロでよくない?」の理由~おしゃれの基準が“服”ではなく“技”になった時代 』では、ユニクロがダサくなくなった理由と、ファッションにおける人々の関心が、バブル期と現代とでどのように変化しているかについて、私なりに思っていることを書いたが、あれからまだ思うところがあったので、後編的に書いてみようと思う。
上の記事は、米澤泉氏の新書『おしゃれ嫌い 私たちがユニクロを選ぶ本当の理由』に沿ったものらしい。
私は、米澤氏の言う「ユニクロは『ていねいなくらし』を売っている」というのが、どうも腑に落ちなかった。なぜなら、特段「ていねいなくらし」を実践していない人だって、ユニクロを利用しているからだ。部屋が片付いている人も散らかっている人も、朝から味噌汁を作る人も食べずに出掛ける人も、ユニクロで服を買う。だからこそ、ユニクロはここまで広まっているんじゃないだろうか。
「ていねいなくらし」志向の人は、どちらかというと無印良品に行くんじゃないかな。実際に「ユニクロ ていねいなくらし」「無印良品 ていねいなくらし」でGoogle検索してみたところ、前者は約1,100,000件、後者は約4,250,000件という結果が出た。多くの人は、ユニクロよりも無印良品のほうに、「ていねいなくらし」のイメージを抱いているようだ。
ただ、確かに、ユニクロは「日常」を売っているとは思う。通勤し、休日を過ごし、家でリラックスし、子育てし、ジョギングやヨガをする、そういう日常のための服。多くの「ブランドもの」の服は、そういう「日常」のためのものではない。
例えば、スーパーマーケットで買い物したり、子供の遊びに付き合ったりといった「日常」を過ごしている時と、「よそ行き」の時に人々が着ている服装の落差が、バブル期と現代とでどう変化したかという視点で考えてみると、面白いかもしれない。
そう考えると、前回の記事でも言ったように、「今の時代は、『服』そのものよりも、おしゃれの『ノウハウ』が求められている」ということの他に、「おしゃれが、『非日常』から、等身大の『日常』になってきた」という変化もあるのかもしれない。日常だって、ちょっとはデザインのいいものを着たい。日常着る服だから、汚れても洗えて、値段も高くないのがいい。ユニクロには、そういう需要があるのだと思う。
そういえば、最近はファッション分野で「ワンマイルウェア」という言葉をよく聞く。いわゆる「ご近所着」のことだ。おしゃれに関心がある層は、「ちょっとそこまで」の距離でも、ちょっとはおしゃれなものを着たいのである。
米澤氏は、ユニクロが広く受け入れられるようになった理由を、「みんな、おしゃれよりも『くらし』が好き」と分析しているが、私の考えとしては、「みんな、『くらし』の場面でも、それなりにおしゃれがしたい」からだと思う。
そう考えると、バブル期のおしゃれとは、「特定の場面で、めちゃくちゃ気合を入れる」ものだったのに対して、現代のおしゃれとは、「あらゆる場面で、それなりにまんべんなく」という傾向があるのかもしれない。
ちなみに、ユニクロと無印良品の違いは、無印良品は、最初から日本の一流デザイナーやクリエイティブディレクターたちが関わって、コンセプトを明確にして立ち上げたブランドであるのに対して、ユニクロは、地方の中小企業から出発して、徐々にデザインやブランディングを意識するようになり、コンセプトも後から固まってきた、いわば一代記的なブランドということだろう。
無印良品が「人々にくらしを提案するブランド」であるのに対して、ユニクロは「人々のくらしに合わせるブランド」なのではないかと思う。
私が若かりし頃は、まさにDCブランド全盛期でした。同時に、高価であったり、手に入りにくい服であったり、ブランドであったりすることが、最高のステータスという時代。
まさに「服(だけ)が主役」の時代です。一方で、服と暮らしは全く離れているものでした。
バブル時代前後は、高価な服や、手に入れにくいブランド品を着てさえいれば、家の中や「普段何を食べてどんな運動をして、家の中がどんな風な状態か」は無視することが出来ていた感があります。着ている物と持ち物が全てであった時代だからです。
この記事を読んで、「おしゃれ」と「くらし」について、昔読んだ光野桃氏のエッセイ『私のスタイルを探して』に書いてあったことを思い出したので、再び読み返してみた。
女性ファッション誌「25ans(ヴァンサンカン)」の創刊スタッフであり、まさにバブル時代のファッションのただ中にいた光野氏は、夫の転勤により退社してミラノに転居する。その本の中で、光野氏がミラノでインテリアのルポタージュをしていた頃の話に、こういうエピソードがあった。
私が興味を惹かれたのは、取材に出かけた家のインテリアそのものよりも、むしろそこに済んでいる「人」であった。
女性誌のための仕事であったから、ほとんどの住人は女性である。私は彼女たちの着ている服とインテリアの雰囲気が見事に合っていることに、まず驚かされたのである。
どの家を訪ねても、そのインテリアは「ああ、なるほど彼女らしい」と思えるものばかりだった。インテリアと着ている服との趣味やクオリティがバラバラだったり、不協和音を感じさせるような人は一人もいなかった。
次第に、私の中に一つの答えがはっきりと形を取り始めてきた。
ファッションとは、外見を飾るだけのものではないのかもしれない。もしかしてファッションは、その人そのもの――?
『私のスタイルを探して』の中で、光野桃氏は、ニュートラ、DCブランド、長い髪を巻いて肩パッドスーツを着たコンサバスタイルなど、その時その時の流行を経験したが、いつも「何かがおかしい」「なにか違う」と思っていたという。
その後、夫の転勤でミラノに転居してから、ミラノの人々の堂々とした振る舞いに圧倒され、ミラネーゼと同じような服を着てみるも、全く似合わず、「おしゃれのどん底」に陥ったことがきっかけで、服で自分がどういう人間かを表現することを思い立ち、自己分析して自分のスタイルを確立する。それは、本質的な「自己表現」だと、私には思えた。
面白いのは、ファッションスタイルを確立した後の光野氏は、クローゼットの中身が一定量に保たれるようになったことだ。
また、光野氏が若かりし頃、職場に出入りしていた人の中に、群を抜いて美しく魅力的なスタイリストの女性がいたそうだが、その人も「数はそう多くないみたいだけれど、持っている服はすべて完璧にセンスがいい」だったそうだ。
おしゃれな人というのは、昔からそういう傾向があるのかもしれない。
ネット以前は、何かが流行れば、みんながそれを身に着けていた時代だったと思う。特に若者は、流行のものさえ身に着ければ、それでおしゃれと見なされていたようなところがあったのではないだろうか。
ネットの普及によって好みが多様化し、「個」の時代になってきたと言われる。パーソナルカラーや骨格診断の人気は、「個」に注目が向かうようになった時代の影響もあるのかもしれない。自分の体型、自分の血色や目や髪の色を基準にして、服や髪型、化粧を決める。そうすると、流行りものでも、自分に似合うかどうかを考えてから買うようになる。
とすると、この先の日本のファッションは、もっと「個」に焦点を当てる方向に向かうのかもしれない。平たく言うと、より「自分らしいかどうか」という方向に向かうのだと思う。
空気を読み、主張したり個性を表現するのが苦手な日本人が、光野氏が体験したような自己表現をするようになるのは、かなり先のことになるだろう。でも、もしそうなったら、バブル期に服そのものだけで自己表現していたのとは、全く別の形のものになっていて、おしゃれは、「競い合う」ものではなく「認め合う」ものになっているのかもしれない。
ファッションとは、自分を表現したいという情熱の発露なのだった。自分がほかのだれでもない、自分であることから出発して、それを慈しみながら磨き上げること。だからこそ、共感を呼び、人を魅了するのである、と。
――『私のスタイルを探して(著:光野桃)』
余談だけれど、女性に人気なのが、パーソナルカラーや骨格診断で、男性に人気なのが、メンズファッション初心者向け指南本であるというのが、面白いなと思う。男性が超初心者向けなのに対して、女性は、ある程度見た目に気を使っている人が、もう一段レベルを上げるためのものというか。
あと、ファッションはベーシックなものが人気になり、人々の関心が「くらし」に向いてきた理由は、単純に少子化で若者の数が少なくなってるからというのもあるかもしれない。若いうちは「大学デビュー」でファッションが気になるし、流行も追うけれど、年を重ねるにつれ、1年で流行が過ぎ去る若者向けのトレンドアイテムよりも、ベーシックな服のほうが良いと思うようになってくるし(もちろん、ベーシックな服にもシルエットの流行があるけれど)、親元から離れて一人暮らししたり、結婚して家庭運営する立場になったりすると、「くらし」に意識が向いてくるしね。
これは私事なのだけれど、プロにファッションアドバイスを受けるなどして、ある程度自分で納得のいく格好ができるようになったら、今度は「そういえば私、自分の部屋を好きなようにしたことがない」と気付いて、インテリアに対する欲求が出てきた。別におしゃれに興味がなくなったわけではなく、相変わらず好きだけれど、服装で満足したら、今度は「くらし」に意識が向くようになった。
相変わらず貧乏人だった私は、リサイクルショップで買ってきたアンティーク調のフォトフレームを、100均の塗装剤で色付けするなどして、自分好みのものを増やしていった。今の時代の「くらし」に関することなら、セリアとダイソーでDIYする層がアツいと思う。
以前見かけて、ちょっと面白いなと思った記事。ここでは、ファッションの上達過程を「ちょっと変わったものが気になる期」→「キテレツ期」→「ブランド期(トレンド期)」→「ユニクロ期」→「ミニマル期」という具合に説明している。
これは、個人のおしゃれ進化過程について書かれたものだけれど、日本におけるファッションの流れもまた、バブル時代の「ブランド期(トレンド期)」を経て、現代の「ユニクロ期」になっているところが面白い。
「ユニクロでよくない?」の理由~おしゃれの基準が“服”ではなく“技”になった時代
上の記事の内容を読んで、以下のブコメを書いたところ、
id:yuhka-uno これについては、『ほぼユニクロで男のオシャレはうまくいく(著:MB)』と『ユニクロ9割で超速おしゃれ(著:大山旬)』、骨格診断とパーソナルカラーの人気に触れていなければならないと思う。
本当にMB氏と対談していたので、ちょっと面白かった。
ユニクロが「ダサくなくなった」のはいつからか?ということについて、ちょうど手元に『「売る」から「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義 (著:水野学)』という本があり、その中でユニクロのブランディングについて触れられている箇所があるので、引用してみようと思う。
この本の中で、水野氏は、ブランド力がある企業の3条件として、
ひとつは、「トップのクリエイティブ感覚が優れている」こと。
もうひとつは、「経営者の“右脳”としてクリエイティブディレクターを招き、経営判断をおこなっている」こと。
そして最後は、「経営の直下に“クリエイティブ特区”があること」です。
と書いており、そのうちの2つめ、「経営者の“右脳”としてクリエイティブディレクターを招き、経営判断をおこなっている」企業の代表例として、ユニクロを挙げている。
2014年10月のことですが、「ユニクロ」を傘下にもつファーストリテイリングが、新しく設置した「グローバルクリエイティブ統括」のポジションに、ジョン・C・ジェイ氏を起用すると報じられました。
水野氏はジェイ氏のことを「存命するクリエイティブディレクターのなかではナンバーワンだと思っている」と書いている。
この本の内容と、2014年10月に書かれたファーストリテイリングのプレスニュース*1によると、1999年、ユニクロが都心に進出した時期に、大量のフリースが生産されていく様子をただ静かに映したCMを手がけたのは、ジェイ氏らしい。おそらく、あの辺りが、それまで山口県を拠点にして、おばちゃんがレジ前で服を脱いで商品を返品するCMを流していたユニクロの、転換期だったのだろう。
その後、契約が終了したジェイ氏は、ユニクロから離れるが、2014年に再びファーストリテイリングと組むことになった、ということのようである。
下の柳井社長のインタビュー記事にも、ジェイ氏の存在に大きな影響を受けたこと、また、『ユニクロが私たちの中で「ダサくなくなった」のはいつからか(米澤 泉,MB) | 現代ビジネス 』の記事のブコメでも言及している人が複数いた、ユニクロのロゴマークを変えた佐藤可士和氏のことなどが語られている。
元記事の「ユニクロが私たちの中で『ダサくなくなった』のはいつからか」の中では、米澤氏もMB氏も、2014~2015年くらいと認識している様子だ。おそらく、2014年あたりからユニクロのブランドとしての強化があり、ちょうどそこにノームコアの潮流がきたことと、オフィス着のカジュアル化が進んだこともあって、一気に「ユニクロでよくない?」となった、ということなのかもしれない。
さて、本題はここからである。一番最初に紹介した記事は、著者の米澤泉氏の新書『おしゃれ嫌い 私たちがユニクロを選ぶ本当の理由』に沿った内容らしいが、元記事にはこんなことが書かれている。
“そのようななかで、80年代や90年代には考えられなかった服を買わないという選択も推奨されるようになった。なるべく少ない服を着回すことが求められ、「毎日同じ服を着るのがおしゃれな時代」とまで言われるようになった。そんな時代だからこそ、ユニクロの「ライフウェア」がいっそう支持される。
ベーシックで、シンプルで、組み合わせやすい服装の部品。仕事にも「ユニクロ通勤」すればいいし、毎日のコーディネートもユニクロを中心に着回せばいい。よく考えてみれば、みんな、もともとおしゃれがそんなに好きではなかったのかもしれない。でも、今までは毎日とっかえひっかえ着替えなければならないと思わされていたのだ。おしゃれをしなければならないと思わされていたのである。”
著者は、「みんな、もともとおしゃれがそんなに好きではなかったのかもしれない。」と書いていて、その結果として「もう、ユニクロで良くない?」になっている、というようなことを書いている。でも、私から見える風景は、少し違うように感じられるのだ。
私は、現代においても、おしゃれに対する人々の関心は高いと思っている。自分のダサさをどうにかしたいと思っている人や、「大学デビュー」を気にする若者は、依然として多い。ネット上には、自分のコーディネイトをSNSに上げる人や、メイク方法を解説するYouTuberが沢山いる。女性の間ではパーソナルカラーや骨格診断が人気だ*2。2010年代に入ってからは、おしゃれ初心者の男性層に、メンズファッションのイロハを解説する本が次々に出版された。ブコメで言及した『ほぼユニクロで男のオシャレはうまくいく スタメン25着で着まわす毎日コーディネート塾(著:MB)』や『ユニクロ9割で超速おしゃれ(著:大山旬)』も、その中の2つだ。どちらもとても売れている。
ただ、おしゃれに関心はあっても、バブル期ほどには、見栄で消費したり競争したがっているようには見えないけれど。
私は、バブルという時代は、「高いブランド物を身につけたからといって、おしゃれになれるわけではない」という教訓を残した時代だったと思う。それから、「一生ものだと思って買った高いものが、結局は一過性のものだった」という教訓も。
あれだけおしゃれに狂乱したのに、結局おしゃれになれていない。おしゃれな服を買ったからといって、おしゃれになれるわけではなかった。じゃあ、どうすればおしゃれになれるのか?
私は、現代におけるその答えが、パーソナルカラーや骨格診断の人気や、メンズファッション初心者向け解説本の売れ行きだと思う。つまり、今は「服」そのものよりも、おしゃれの「ノウハウ」が人々の関心を集めている時代なのだ。
これに関しては、特に『ユニクロ9割で超速おしゃれ(著:大山旬)』の内容によく表れていると思う。この本の冒頭では、同じ人物で、同じ「ユニクロ9割」で、おしゃれに見える例とそうじゃない例を、写真で示している。つまり、ユニクロを着ていても、おしゃれに見える人とそうじゃない人がいるということを、印象付けているのだ。
また、大山氏は、流行は緩やかに変化していくから、古い服より今のユニクロを着ているほうが、おしゃれに見えると言う。
“3年前のボトムスを引きずり出してきて
履いていても、どんなに高かろうが、気に入っていようが
素敵には見えないんです。それだったらユニクロで十分。
新しく新調することの方が近道です。”3年前の高いボトムスよりも今年のユニクロの方が・・・ | 30代・40代のための「メンズファッションの教科書」| メンズファッションスタイリスト大山 旬
「3年前のボトムスよりも、今のユニクロ」と言えるようになったことが、「ユニクロでよくない?」になった大きな理由だと思う。一昔前の、品質はいいけれどデザインが垢抜けないユニクロでは、こんなことは言えなかっただろう。トレンドを押さえた形のものを出してくるようになったことで、ユニクロは、おしゃれな人の選択肢にも入るようになったのだ。
また、少ない服を着まわすというのは、確かに、「おしゃれ」より「くらし」を重視する「ミニマリスト」と言われる人たちのライフスタイルでもあるのだけれど、そもそもおしゃれな人にはそういう人が多いというのも、見逃せない理由だと思う。
個人の家に訪ねて行っておしゃれになる手伝いをしているスタイリストの人がよく言うことに、「皆さん、持ってる服が多いのに、使える服がすごく少ない」というのがある。
大山:僕はご自宅にクローゼット整理に伺うことが多いのですが、皆さん、ものすごく服をたくさん持っているんですよ。僕よりも大量に持っている方のほうが多い。
山本:私もまったく同じです! ご自宅でクローゼットを見せていただくと、服の数は皆さん本当に多いんです。でも「たくさん服はあるけど、明日着ていく服がない」とおっしゃる。それって、実はシンプルな服を持っていないからなんですよね。
スタイリスト歴30年で、50代以上向けのファッション本で人気の地曳いく子氏は、『50歳、おしゃれ元年。』の中で、「今までは毎日とっかえひっかえ着替えなければならないと思わされていた」ことを「昭和おしゃれルールの罠」と呼び、こう書いている。
出かける先や頻度は人によってそれぞれですが、出かけるたびに、毎回違うコーディネイトである必要はないですよね。
なのに、「同じ格好だと恥ずかしい」という固定観念に縛られて、無理に組み合わせてスタイリングのバリエーションを作ろうとする。
強引に昨日とは違うコーディネイトにしようとするから、必ず「イタい」組み合わせができてしまう。それが「罠」なんです。
中途半端なコーディネイトを増やすより、自信のあるものを“ヘビーローテーション”で着る!だから、持つべき服は、登場頻度の高い“スタメン服”のみ!
これが、これからの50代のおしゃれの「王道ルール」なのです。
つまり、ここでも、おしゃれになるためには、服を少なくして、毎日とっかえひっかえ着替えるのをやめるべきということなのだ。
おそらく、おしゃれが苦手な人ほど服をたくさん持っているのは、「迷走」しているからなのだろう。一方、おしゃれな人は、自分のワードローブを把握して、計画的に服を買っている人が多い。
つまり、おしゃれに興味がないから、服が少なくなるのではなく、おしゃれになった結果として、服が少なくなり、シンプルな服が多くなるのである。服を減らすのは、あくまでも、おしゃれになるための手段なのだ。
さて、色々言ってきたけれど、最終的に、私が思う「私たちがユニクロを選ぶ本当の理由」を言ってみようと思う。
お金がないから。
結局これだ。
「『若者の○○離れ』なんて言われてるけど、結局若者に金がないからだよ!」というのは、ネット上で散々言われてきたけれど、これと同じことだ。
ただ、過去記事『貧乏人の私がおしゃれになるためにしたこと』でも書いたのだけれど、私は、お金がない中でなんとかおしゃれがしたいと思って、同じ金額でもより自分に似合うものを選べるよう、プロのアドバイスを受けるなどして、おしゃれの知識を身に着ける方向に行った。このことは、単に服を買うよりも、私のおしゃれレベルを大きく上げることになった。
私は、その記事の中で、こういうことを書いた。
つまり、これらは、絵を上手く描けるようになったり、楽器を上手に演奏できるようになったりするのと、同じことなのだと思う。高いブランド物の服というのは、例えるなら、高い画材や高い楽器だ。もちろん、あると表現の幅は広がるけれど、それを使ったからといって、良い絵が描けるわけでも、良い演奏ができるわけでもない。良い表現とは、ひとえに、その人の技術力に左右されるものだ。
そして、冒頭の記事を読んで思ったのだけれど……もしかしたら、不景気が続いて貧乏になっている今の日本は、全体的に私と同じ方向に行ったと言えるのかもしれない。つまり、安い服でもおしゃれに見せられる「ノウハウ」が求められるようになったのだ。
80年代や90年代というのは、「おしゃれをしなければならないと思わされていた」ということと、「高い服を買わないとおしゃれができないと思わされていた」時代だったのではないだろうか。そして、それは実際そうだったのだろう。その頃の低価格帯の服といえば、おしゃれするのに使えないようなダサい服しかなかっただろうから、無理もないと思う。そして、そういう環境は、「高い服を買えばおしゃれになれる」という思い込みも形成していたのではないだろうか。
バブルが通り過ぎて、高い服を着てるからといって、おしゃれに見えるわけではないことが判明したこと。不景気が続いて所得が落ち込んでいること。ユニクロなどの低価格帯アパレル企業の台頭。ネットの普及により、おしゃれのノウハウを発信する人が増えたこと(それが書籍化されることもある)。スマホとSNSの普及で、個人が自分の着こなしを発信するようになったこと。若者が参考にするおしゃれの情報が、雑誌からネットに移行したこと。
これらのことが重なって、今の時代のおしゃれに対する関心のありかたが形成されていると思う。
これは、人々が以前よりおしゃれに興味がなくなったわけではなく、むしろ成熟だと思う。おしゃれの基準が、「服」ではなく、個人の「技」になった――言うなれば、高い楽器を買う人は減ったが、実は、個人の演奏技術は底上げされているのではないだろうか。
だから、現代もおしゃれを頑張っている人は多いと思う。ただ、身の丈以上の消費はしなくなっただけで。もちろん、今でもファッションオタクな人たちはブランド品を買っているけれど、それは例えるなら、オタクが推しのグッズを買うようなものだろう。
そして、忘れてはならないのは、昔も今も、おしゃれに興味のない人はいるということだ。そういう人にとっては、ユニクロはまさに「救世主」だろう。
そもそも、バブル時代の女性たちが憧れたフランス人だって、そんなに毎日とっかえひっかえ着替えていないし、高いブランド物は富裕層のものだと思っているみたいだからね。
“日本では同じ服を1週間に2回着るのは、少し恥ずかしいと考えている人が一般的だと思います。まして3回着るなんて考えられないかもしれません。ところが、フランスでは当たり前のこと。なぜなら、みんながそうしているから恥ずかしさを感じないのですね。”
“自分の給料で手が届かないということは、自分に似合わないということ。似合わないものを無理に手に入れようとはしないのです。高級ブランド品で身を固めたり、ブランドバッグを持った人は滅多に目にしません。”
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相手の親に聞こえるように「あんな小さい子に虐待して…」と言ってはいけない理由
電車で見知らぬおばちゃん達に『あんな小さい子に虐待して…』『だから若い子は…』って聞こえるように言われた。
— 悠里 (@daren_1280) August 23, 2019
子育ての経験あるなら蒙古斑と痣の違いくらいわかるでしょうに。お尻以外にも蒙古斑って出るのよ。それに若いのは関係なくないですか?酷い事言われ慣れてたけど流石にイラっとした… pic.twitter.com/KDdh73IIyO
ある親御さんが、赤ちゃんの足の蒙古斑から虐待を疑われたことで、お尻以外のところにできる蒙古斑についての理解を呼びかけています。
私は、このTweetを読んで、違う角度から気になることがありました。それは、おばちゃん達が、相手の親に聞こえるように「あんな小さい子に虐待して…」と言っていたこと。これは、仮に本当に虐待だった場合、子供を危険に晒してしまう可能性があります。
虐待が疑われる場合には、「虐待を疑っている」ということを相手の親に知らせないようにする必要があります。虐待する人は、世間体を気にする傾向があるので、もし相手の親が本当に虐待をしていた場合、後で子供に対して「あんたのせいで、私が虐待していると言われた!どうしてくれる!」という感情をぶつけたり、虐待が気付かれないよう、見えないところを殴るようになるなど、より巧妙に虐待するようになる可能性が高いからです。
虐待が疑われる場合は、基本的に「誘拐犯かもしれない場合」と同じように考えたほうがいいです。まだ被害者の身の安全が確保できていない段階で、犯人に「誘拐犯だと疑っている」と知らせてしまったら、被害者に身の危険が及びかねませんよね。黙って通報です。
“そして4つ目は、虐待の加害者に対して、周りの人間が虐待を疑っていると言ってはいけないということです。たとえば、身体的虐待の場合、加害者に対して『●●君があなたに殴られたって言ってるけど殴りました?』と聞く人は意外と多い。
このように聞かれた加害者は、虐待をやめるどころか、バレないようにもっとやるんです。通告して調査が進んで、子どもの安全確保ができる段階になるまで、虐待が疑われていることを加害者に知らせてはいけません」”
千葉の小4女児虐待死事件で、市教育委員会の人が、虐待していた父親に凄まれて、子供が虐待を訴え出たアンケートコピーを渡してしまったということがありましたね。私は、その教育委員会の人は、「普通」の感覚だったんだろうな、と思いました。
取り返しのつかない状況になった後から考えれば、この対応は最悪だったと理解できるでしょう。しかし、子供が虐待を訴え出たということを親に伝えることが、子供の身を危険に晒す行為だということを、理解していない人は案外多いです。
また、既に子供が亡くなってしまったケースでは、「なんてひどい親なんだ!」と言う人は多いのですが、まだ子供が生きている、あるいは、かつて虐待を受けていて生き残っているケースに対しては、「そうは言っても親なんでしょ(だからそこまで酷いことをするはずがない)」という思考回路になる人は、とても多いです。虐待を受けて生き残った人たちは、自らの経験を語った時、そういうふうに言われて被害を矮小化されるのは、よくあることです。
もちろん、子供を守る立場の人が「普通」の感覚でいてはいけません。ここで言う「普通」とは、「素人同然」ということですから。
ただ、子供を守るのは、児童相談所や教育委員会の人たちだけがやることではないので、素人の大人たちも、相手の親に対して「虐待を疑っている」ということを知らせてはいけないこと、生きている虐待被害者に対しては、「そうは言っても親子なんでしょ」という認識が働きがちなことについて、知っておいたほうが良いなと思いました。
選挙が苦手な人と、おしゃれが苦手な人は、似ているのかもしれない
選挙のことで彼女と喧嘩までしたんだけどな、どこの政党を支持するとかって話じゃないんですわ。「わからないものはわからない」って言われたんです。学校で政治や選挙のことなんか教えられてないから、選挙に行けとか言われると上から目線に聞こえる、って言われたんですわ。
— がんぺー (@gwangpee) July 21, 2019
上の彼女さんから、政治や選挙に対するコンプレックスを感じました。この反応、ファッションやおしゃれにコンプレックスを感じている人に、「もっとおしゃれしなよ」って言った時の反応に似てると思います。
Togetterのブコメにこんな意見がありました。
id:covacova なんか分かった気がするぞ。選挙に行かない人や、体制派にしか入れない人は、正解が何かを気にしているんだな。正解とは多数派で、正解に入れなかった自分を他人に見られるのが怖いんだ。まさに教育の成果だ
投票用紙を「解答欄」だと思ってしまう教育の成果というのも、確かにあると思います。そして、これとはまた別の角度として、「人は、自分がよくわからない分野で『正解』を出さなければと思う時、とにかく大多数と同じようにして安心したがる」っていうのもあると思います。
おしゃれが苦手な人がおしゃれしようとすると、自分の軸がないため、自分に合うかどうかもわからず、ただ流行に振り回されるだけになってしまったり、マネキン買いしたりしてしまいがちです。一方、おしゃれな人は、流行をチェックしながらも、流行に流されず、自分に合うと思うものだけを取り入れます。
選挙慣れしているかしていないかも、これに似ているのかもしれません。
“まず、中高生のときって「制服とジャージ」しか着なかったのに、大学に入って「いきなり、毎日私服」という状況になると、何を着ていいかわからない。”
“それで、そういう「ファッションレベル1」の状態で大学生になって、焦って服を買いに行こうとすると「量産型化」してしまう。
でも、大学にいったらみんな「量産型」で安心しました。ヘンな服を着て浮いたり、バカにされるのが怖かったので。「個性がなくて恥ずかしい」なんて思わなかったです。”
なぜ女子大生は「量産型化」してしまうのか? 元量産型の女子大生が語る、絶滅した「ガーリー型」の謎と、わたしが量産型になってしまうまで。 | アプリマーケティング研究所
私は、選挙で「自分が入れた党が多数派だと安心する」と言う人の感覚がわかりませんでした。選挙って、「多数派だったから安心」とか、そういうもんじゃないのにな…と。でもそれって、ファッション量産型な人の感覚に似ているのかもしれませんね。「政治レベル1」の状態でいきなり選挙に行くと、「量産型」になってしまうのでしょう。
“あんな:みんな争点争点って言うじゃないですか。「今回は年金選挙だ!」「いや、消費税選挙だ!」「いやいや憲法選挙!」。バラバラじゃん!? って混乱します。結局今回、何選挙なの!?
とんふぃ:憲法改正、消費税10%増税、経済政策、原発、最低賃金、夫婦別姓、LGBTQ……。国民の関心が高い問題はだいたい争点になっているので、迷うのはもっともですが、実は選挙の「争点」はみなさん自身がそれぞれ決めていいものなんです。
かん:え、自分で優先順位を決めていいんだ。”
上の会話は、まるで、流行に振り回されるおしゃれオンチな人と、自分のファッションスタイルができている人の違いのようです。「ファッションサイトじゃ、今年はこれが流行るとか、これが来るとか言うじゃないですか。結局、何を着ればいいの!?」みたいな。
世間では、投票日が近くなると、投票を呼びかける声が多くなりますけど、どうにも、投票を呼びかける側の人って、投票所入場券(ハガキ)持って投票会場行って投票するくらい、誰でもできるだろうと思ってる人が多いように思います。ネット上では、実際、「投票に行くくらい、簡単だろ。なんでできないんだよ!」って言ってる人も見かけました。
でも、選挙が苦手な人と、おしゃれが苦手な人が似ているのなら、政治オンチな人に「投票に行け」って言うのは、おしゃれオンチな人に「おしゃれな店で服買ってきなよ」って言うようなものなのかもしれませんね。
実際、自分自身が投票までにかける手間のことを考てみると、ぜんぜん投票日に投票するだけじゃないんですね。まず、日頃から、どの政党がどんな方針かとか、この議員は推せるとか、反対にこの議員はダメだとか、おおまかにでも見ている。そして、選挙が近くなると、候補者をチェックして、それで選挙に向かうわけです。
だから、選挙って、その大部分は、日頃の習慣なんですよね。投票なんて、最後のほんの一手間。料理で言ったら最後の盛り付けと配膳くらい。つまり、投票率を上げようと思ったら、選挙の時だけ投票を呼びかけるんじゃなくて、日頃から政治に興味を持ってもらうことを考えないといけないんだと思います。
それに、どうやら、選挙が苦手な人にとっては、そもそも投票所に行くこと自体がハードルが高いみたいなのです。私がそれを感じたのは、下の記事を読んだことがきっかけでした。元モーニング娘。の田中れいなという人がやっていたラジオ番組での会話だそうです。
“20歳になったばかりの二人は選挙のハガキはきたが、いつ行くのか、何をどうすればいいのか分からないといった感じだ。
25歳のれいなに関しては、去年までハガキが来ていたことすら知らなかったとか…。さすがに周囲の大人に行きなさい、と忠告されたが、どこに行けばいいのかも知らなかったらしい。
行ってみた感想としては、「怖かった~!」と言っている。やっと投票所に行ってみたが、候補者名や政党名を二度も書くことがワケが分からなかったらしく(選挙区選挙と比例代表選挙かな)、でも誰にも疑問を聞くこともできないので、とにかく怖かったらしい。”
他にも、今まで選挙に行ったことがなかったという人で、「この年になって、選挙会場で勝手がわからずまごついてるなんて、恥ずかしいという思いがあった」と言っている人も見かけました。
私の場合は、子供時代に、親が投票するところを見ていたり、初めての投票の時には親と一緒に行ったりしたので、投票会場に行って投票するのは、別に特別なことではないんですね。それに、親が政治の話をする人だったので、たぶん、20歳になる頃には、拙いながらも、ある程度自分の政治に対するスタンスができていたと思います。
でも、選挙が苦手な人は、たぶんそういう環境がない。それはまるで、高校生の時からおしゃれに目覚めていた人と、ずっとおしゃれの世界に触れずにきた人との違いくらいはあるのではないでしょうか。
“2016年の参議院選後に総務省がインターネット上で実施した「18歳選挙権に関する意識調査」によると、子どもの頃に親の投票について行ったことのある人とない人では、投票参加率に差があったのです。
18〜20歳の男女3000人のうち、親の選挙について行ったことがある人の投票参加は63.0%で、親の選挙について行ったことがない人は41.8%と、約20ポイントの差があったといいます。”
元Tweetでは、彼女さんは「学校で政治や選挙のことなんか教えられてない」と言っています。多くの人が指摘しているように、一応、学校では政治や選挙のことは(十分ではないにせよ)教えています。ただ、学校で習っただけでできるようになるのかというと、それでは不十分だと思うのです。私の弟は、家庭科で料理を習ったはずですが、料理ができません。いくら学校で習っても、家で料理をする習慣がなければ、身につかないようです。
政治や料理に限らず、私たちは、学校で習ったことでも、自分の普段の日常生活の中でやらないことは忘れてしまうというのは、よくあることですしね。
若者にとって政治や選挙のことがわからないのは、日本で政治の話題がタブーだということも大きいと思います。アメリカとかだと、若者に人気のポップアーティストが、日頃から政治的な発言をしますし、自分の作品にも政治的なメッセージを込めます。政治の話題が、普段の日常生活の中にあるのでしょうね。
日本の場合は、どうもそうじゃないですよね。アーティストが政治的な発言をするのを嫌いますし、日本のポップミュージックも、政治とは関係ないものが求められますから。若者は、「空気を呼んで」、政治的なことを言うのを避けますし。
去年、テイラー・スウィフトが、初めて自分の政治に対する考えを明らかにしたことが話題になってましたけど、話題になった理由のひとつには、他のアーティストは政治的発言をするけれど、テイラーはこれまでしてなかったからというのもあるでしょう。
たぶん、選挙慣れしていない人って、選挙演説とか政見放送とかのほうに注目しがちだと思うんですけど、実際は、日頃から政治に興味を持つ習慣を身に着けるという、けっこう地味なものなんですよね。
ファッションで例えるなら、おしゃれな人は、日頃からファッション情報をチェックしてるようなもの。美容についても、一時的にエステに行くよりも、普段から日焼け止め塗ったり、肌のお手入れをするほうが大事です。
ぶっちゃけ、私、選挙演説聞きに行ったりしないし、政見放送もほとんど見ないですもん。
“私はずっとノンポリでした。だから会社のしがらみとか、多数派に投票しておけば責任を問われなくてラク、みたいな気持ちも分かるんです。”
「私は山本太郎に発掘されたノンポリ」 自民党議員一家で育った25歳女子が「れいわ新選組」を推す理由 | BUSINESS INSIDER JAPAN
私にとっては、上の記事は、記事のメインの内容より、この部分が気になりました。ああ、そういう考え方なのか……と。
この考え方、実はけっこう危険だと思うんです。子供のいじめも、いじめを隠蔽する学校も、企業の不祥事も、ナチスドイツの独裁政権も、その根底には、「多数派になっておけば責任を問われない(はず)」という思考回路があるからです。
私は、多数派に投票するのと、少数派に投票するのとでは、どちらも責任は同等だし、もっと言えば、投票することを選ぶのも、投票しないことを選ぶのも、同等だと思います。選挙権とはつまり、自己決定権なのですから。
これを書いている私自身も、おしゃれオンチ状態から、おしゃれ好きになった人間なんですけど、おしゃれになる過程で必要だったのが、「モブキャラでいるのをやめて、主役になる覚悟」だったんですね。
たぶん、政治参加っていうのも、それに近いものがあると思います。政治に興味を持って、自分なりのスタンスを持つというのは、この社会の中で、モブキャラでいるのをやめて、自分が主役になる感覚を持つことだと思うんです。
だから、「多数派に投票しておけば責任を問われなくてラク」というのは、投票はしていても、まだ、社会における「主役」感が身についていない状態なのかもしれませんね。
あと、よく「選挙に行かない人に文句を言う権利はない」って言う人がいますけど、はっきり言って、あれは嘘です。今のところ、日本にそんなルールはありません。言論と表現の自由は、選挙に行った人にも行かなかった人にありますし、そうあるべきです。
順序が逆だと思うんですよね。選挙に行ったら、文句を言うことが許されるんじゃなくて、「自分だって、政治に文句を言ってもいいんだ」と思えて、文句を言うことに慣れてくるから、選挙に行くんです。
文句を言うといっても、いきなり街頭でデモするとか、そこまでじゃなくて、日常生活の中で、不満に感じていることを愚痴るような感じで、ですね。
私は、現時点で選挙が苦手な人は、無理に投票する必要ないんじゃないかなって思います。「政治レベル1」の状態でいきなり選挙に行くのは、けっこうハードルが高いと思います。おしゃれなら、最初は大多数と同じの「量産型」から入るのもいいですけど、選挙ってそういうものじゃないので。まず自分の政治レベルを上げてからでもいいと思います。
ただ、選挙の練習のつもりで、選挙会場に行って、候補者名を書かずに白票を投じてみるのも、いいと思いますよ。おしゃれオンチな人がおしゃれの練習をするために、一度おしゃれな店に入ってみて、どういうところか見て、何も買わずに出てくる、みたいな感じでね。
おしゃれオンチだった私がおしゃれになる過程。「モブキャラ→主役」についても書いてます。