光野桃『私のスタイルを探して』から読む自己表現の本質~ファッションと企業ブランディングの共通点
『「ユニクロでよくない?」の理由~おしゃれの基準が“服”ではなく“技”になった時代』を書いて、バブル期と現代のおしゃれの違いについて考えたことをきっかけに、光野桃氏のエッセイ『私のスタイルを探して』を久々に読み返してみたら、「これ、おしゃれの本質が書かれている本だ…!」と思ってしまった。
以前この本を読んだのは、まだ10代くらいの時だったかもしれない。当時の私は、母親の「おしゃれや流行に興味のない子でいてほしい(金がかかるから)」という願望を内面化していて、おしゃれとは縁遠い芋な子だった。それでもこの手の本を読んでいたということは、やはり潜在的にはおしゃれに興味を持っていたのだろう。
ただ、当時の私は、若すぎたことと、まだおしゃれに目覚めていなかったせいもあってか、書かれている内容がなんだか難しく感じてしまい、また、大人のおしゃれや高級ブランドやミラノのファッションといった話が、自分には遠い世界のことに感じられて、この本の本質を十分に理解することができなかったのだと思う。
子供の頃、母親が縫ってくれたワンピースを着て純粋に喜んでいた光野氏は、思春期になると、好きな男の子を意識して着る服に悩み、大学では、当時流行っていた「ニュートラ」な女の子たちに出会って、自分の好みではないものの、人と同じ格好をして安心感を覚えたりする。その後、三宅一生や川久保玲といった、当時の名だたるデザイナーが出入りする事務所に勤め、クリエイティブな空気に触発されるも、女性誌の編集部に勤めるようになると、バブル時代の「コンサバ」な女のファッションに身を包むようになる。
しかし、いつも「何かがおかしい」「なにか違う」と思っていたという。「買っても買っても着る服がない」状態だった光野氏は、結婚して夫の転勤でミラノに移住する。ミラノの人々の堂々とした佇まいにショックを受けた光野氏は、ミラノ女性の格好を真似してみるが、街のウィンドウには、ただの地味な東洋人が映っているだけだった。そこで光野氏は「おしゃれのどん底」に陥る。
ここでは誰も、私が生きてきた今までのことを知らないのだ。どんな仕事をやってきたのか、なにを考え、なにに感動してきたのか、だれも知らない。伝える術もない。自分の存在がゼロになったような気がした。それは恐ろしい感覚だった。こんなことはとうてい受け入れるわけにはいかないと思った。
ミラノ中に聞こえるような大きな声で叫びたかった。私はこんな人間なのよ、と。私はこんな風に感動するの。私はここに居るのだ、と。自分をわかってもらいたい。表現したい。焦がれるような気持ちが胸の奥から衝き上がってきた。
その時、頭の中でなにかキラリと閃くものがあったのである。ハッとした。これだ、これをファッションで表現しなければ。自分をわかってもらうために、服を着るのだ。そういう服の着方をすればいいのかもしれない。
考えてみれば、物心ついた頃から人がなにを着ているのかが気になった。流行に遅れていると焦った。人の目を意識し、人にどう思われるかということばかりで服を着てきたのだ。
しかし、その発想は逆だった。人がどう思うかより、人にどう思わせたいか。自分をどう表現したいかということなのだ。
光野氏がミラノで体験したことを読んで、「これって、夏目漱石がロンドンで体験したことと同じだ…!」と思った。夏目漱石は、留学先のロンドンで鬱状態になり、そこから自己確立している。光野氏は、ミラノに行く前から問題を抱えていて、ミラノという外国の地でそれが表面化したわけだが、夏目漱石も全く同じだった。
“私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。”
“ 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。”
また、私が驚いたのは、光野氏が自分のファッションスタイルを確立させる過程で取った方法が、クリエイティブディレクターである水野学氏が書いた『「売る」から、「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義(著:水野学)』の内容や、その水野氏がディレクションを手がけた、デザインとブランディングにこだわる手法で売り上げを伸ばしている中川政七商店の十三代目社長が書いた『老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道(著:中川淳)』『経営とデザインの幸せな関係(著:中川淳)』の中に出てくる手法と、ほぼ同じものだったことだ。
『「売る」から、「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義』によると、水野氏は、中川政七商店のロゴや紙袋や段ボール箱、本社社屋といった「外側」のデザインを手がけてはいるが、商品そのもののデザイン自体を、現代的なものに変えるなどはしていないらしい。
つまり、流行をそのままもち込んだり、とにかく現代的で美しいものにしたりすれば、それでいいのか、ということ。
結論からいうと、そのやり方だと、うまくいく場合もないわけじゃないけれど、ほとんどはうまくはいかないでしょうね。実際にぼくも、中川政七商店の商品を現代的に洗練された美しいデザインにしようとは考えませんでした。
というのも、ブランディングを考えるうえで大切なのは、「似合う服を着せる」ということだからです。
考え方としては、スタイリストに限りなく近い。
一方、光野氏は、自分がミラネーゼの格好を真似てみても、ただの地味な東洋人にしかならなかったことで、ミラネーゼの服は、ミラノの女の魅力を引き立てるためにあるのだと悟っている。
私は悟った。ミラノ服の定番ともいえるシンプルな紺のジャケットは、骨格のはっきりした顎の線と、広い肩幅があるから着こなせるのだ。
きれいな色のセーターはこっくりと日に焼けた肌があってこそ、着る人を美しく引き立てる。男仕立ての紐結びの靴に細身のストレートパンツというマニッシュな装いは、彼女たちラテン女の体を流れるセクシーな熱い血を、かえって洗練された形で際立たせる効果があるのである。
どの服にも、ひとつひとつに納得できる理由があった。ミラノの服は、ミラノの女のものなのだ。
「ひとつひとつに納得できる理由がある」――これはまさに、デザインの分野でよく言われていることと同じだ。水野氏もまた、著書の中で「説明できないデザインはない」と言っている。
水野氏は、企業のブランディングをスタイリストに例えているが、光野氏も、著書の中で、外見でのプレゼンテーションを企業イメージに例えていた。
光野氏は、その後、自分のスタイルを確立させるために、まず自分がどんな人間なのか、内面の特徴を見つめ、紙に書き出していく。
次に、その内面を表現するヒントを掴むために、ファッション誌の中から、気に入った写真を切り取ってきて、スクラップする。ここで、自分の好みのファッションの傾向が明らかになってくる。そして、その中から、自分の外見に照らし合わせて、体型的に無理がありそうなものは外す。最終的に、友人の助けを借りながら、服を決めていく。
こういった過程を経て、光野氏は、日本の流行やミラネーゼの格好といったものから独立した、自分自身のファッションスタイルを確立した。
『老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道』『経営とデザインの幸せな関係』の中でも、ブランドを作る過程で、その企業の特徴や将来の希望などについて、こと細かに分析して書き出していくところから始める。
まず決算書を見るところから始めるのが企業ブランディングといったところだが、企業の強みや弱み、将来こうなりたいという理想の形などを書き出し、自分のことは自分が一番よくわからないので、外部の客観的な目線を入れながら、「自分たちは何者か」ということと、きれいごとではない本音の「自分たちがどうなりたいのか」ということを、はっきりさせていく。
ここから、自分たち「らしさ」とは何かというイメージを膨らませ、ブランドや商品のイメージに合った写真などを切り出して、イメージコラージュを作る。こうして、商品デザイン、ブランド名や企業ロゴ、店舗の雰囲気、ウェブサイトやカタログや商品パッケージなどの見た目に落とし込んでいく。
(ブログの都合上、ざっくりと書いたが、実際に本に書かれていることはもっと細かい。)
自分が何者なのか、これからどうなりたいのかということを分析してから、客観的にアドバイスしてくれる人の意見を取り入れつつ、切り抜き写真などを集めてイメージを固めていくという工程が、光野桃氏と中川政七商店の手法とで共通していた。『いいデザイナーは、見ためのよさから考えない(著:有馬 トモユキ)』*1というタイトルの本があるが、それは、人のファッションスタイルを決める上でも、企業のブランドイメージを作る上でも、同じなのだろう。
クライアントから依頼を受けてデザインするデザイナーの人たちがよく言うことの中に、「丸投げはやめてくれ」というのがある。クライアント側からすると、「自分はセンスがないから…」「デザインのことはわからないから…」と思って、デザイナーに任せれば何とかなるだろうと思ってしまいがちだが、デザイナー側からすると、あなたはどういう会社で、ターゲットはどういう人たちなのか、デザインによってどういうことを伝えて、どういう効果を得たいのか、そういったことをすり合わせて、クライアントとデザイナーで共通認識を持たないと、デザインを作ることはできない、ということなのだ。
光野氏が、ミラノの女性に、「あなたにとってファッションとは何ですか?」と問うた時、ある女性はこう語ってくれたという。
「人は誰でも自分のことを、正確に相手に知ってもらいたいと思うのではないかしら。特によいところは積極的にアピールしたいと思うものでしょう。でも、誰とでも一時間じっくり話し込む機会があるというわけではないわ。だから装いというのはとても大切なことなのです。自分というものを一目で端的に相手に知らせる、私にとっておしゃれとはそういう目的があるんですよ」
企業にとって、なぜブランディングが必要なのかも、これと同じではないだろうか。
パーソナルカラーや骨格診断や顔タイプ診断などは、とても役に立つけれど、例えるなら、それらは『ノンデザイナーズ・デザインブック』*2に書かれているような、見た目を整える基本技術のようなものなのだろう。
もちろん知識や技術はとても大事だ。それらがなければ思うような表現はできない。光野氏が「人がどう思うかより、人にどう思わせたいか」ということに気付いた時点から、自分のスタイルを確立できたのも、もともと光野氏にファッションに対する十分な知識と技術があったからだろう。もし光野氏がファッションを見る目が鍛えられていない人だったら、そもそも、自分がミラノの女性と同じ格好をしても似合わないということに気付くこともできなかったであろうから。
しかし、ある程度技術を身に着けた先にあるのは、その技術を使って何を表現するかだ。最終的には、自分はどういう人間で、服を着ることによって、自分はどうなりたいのかが大事なのだと思う。
日本では、わりと近年まで、ファッションは「若い女の子のもの」と思われ、中年以上の女性たちがおしゃれをする存在として認知されていなかったと思う。やっと最近になって、60代以上の女性ファッション誌が創刊されるなどしているけれど。
これは、長らく「おしゃれは、女が男に好かれるためにやるもの」という男性本位な偏見があったからだろう。それゆえ、ファッションは「女がするもの」として、一段下に見られ、軽薄で役に立たないものとして見なされていた。「若くない女がおしゃれしても無意味」という男性都合の目線もあっただろう。
しかし、この本を読んでいると、やはり、おしゃれとは自己表現であるし、他の知識や技能と同じで、経験として積みあがっていくものなのだと確認できた。若い頃は、まだ自分自身のことがよくわかっていないから、人の目が気になるし、周りに流されてしまいがちだけれど、年齢を重ねて、自分というものがわかってきて、ファッションの経験も積んで、自己確立できるようになると、その人のファッションスタイルも完成度が上がってくる。そういうことなのだと思った。
『私のスタイルを探して』について書かれたブログがありました。
「売る」から、「売れる」へ。 水野学のブランディングデザイン講義
- 作者: 水野学
- 出版社/メーカー: 誠文堂新光社
- 発売日: 2016/05/07
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*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4061385623/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_4H2jEbTP4YCG3
*2:デザイナーではないけれど、プレゼン用スライドやチラシや文書などをデザインをする必要がある人のための、基本的なグラフィックデザインのテクニックが書かれた本。デザインの世界ではとても有名な本で、デザインについて説明する時によくこの本の内容が引用される他、この本を読んでデザイナーになった人も多い。https://www.amazon.co.jp/dp/4839955557/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_2E2jEbCX39DGV
優しくない人ほど自分のことを優しいと思っている説~虐待とDVとダニング・クルーガー効果
「ダニング・クルーガー効果」という言葉がある。端的に言うと、その分野において能力が低い人ほど、自分の能力を実際よりも高く見積もっており、能力が高い人ほど、実際よりも低く見積もっているという認知バイアスだ。
私は、「優しさ」や「性格の良さ」にもダニング・クルーガー効果が適用できるのではないかと思っている。虐待やDVをする人ほど、自分のことを「優しい」と思っていて、自分の優しさレベルを実際よりも高く見積もっていることが多いからだ。
上のリンク先の、わが子を虐待していた人は、「子どもは好きですか?」ときかれて「子ども、大好きです」と答えている。おそらく、この人は、「子どもと遊ぶ」ことと「子どもで遊ぶ」ことの区別がついていなかったのではないだろうか。
虐待を受けて育った人からよく聞く話として、「うちの親は、虐待のニュースを見て、『なんてひどい親なの!』『子供がかわいいと思えないのか!?』と言っていた」というのがある。上のtogetterのブコメでも、親に虐待の自覚がなかったと言う人がいる。
これは、「優しさ」だけではなく、教育虐待における指導力についても、同じことが言えるだろう。
中学受験で子供を不登校になるまで追い詰めた父親の話。私は、父親の「子供の才能が期待ほどじゃなかった」という言葉が気になった。たぶん、それ以前に、この父親にコーチングの才能がなかったのではないか。
傍から見れば、こんなやり方では子供が潰れてしまうのは当たり前だと思うのだけれど、親側に「自分には子供を教える能力がない」という自覚がなければ、子供の成績が上がらないのは、自分ではなく子供が原因だと思ってしまうのだろう。この父親は、子供に勉強を教える前に、自分がコーチングを教わるべきだったかもしれない。
もし「自分には子供を教える能力がない」と自覚していれば、勉強を教えるのは学校や塾の先生に任せ、自分は子供の健康や心理面でのサポートに徹するという判断もできるのに。
ここから学べることは、虐待やDVは、自分がしていて気付くことができないものだということだ。虐待やDVの加害者を他人事として「ひどい人がやるもの」と思っているより、「自分もするかもしれないもの」ぐらいに思っておいたほうが良いのだろう。何せ、前者の考え方は、虐待している親も思っていることなのだから。
恋愛の話題においても、「女は悪い男にばかりひっかかるから、真面目で善良な自分に見向きもしない」と言う人がいるけれど、当然ながら、恋愛未経験者であることは、支配的・暴力的ではないことを保障しない。子育て経験がないことが、虐待親にならないことを保障しないように。
実際、子供が生まれる前は「虐待するなんて信じられない!」と思っていたのに、いざ子供を育ててみると虐待してしまったという人も、よくいるのだから。(というより、こう自覚できる人はまだマシで、重篤な人ほど虐待しているという自覚がないという話なのだけれど。)
さて、「優しさ」や「性格の良さ」にもダニング・クルーガー効果が適用できるとしたら……本当に優しい人や性格が良い人は、自分のことをそれほど「優しい」「性格が良い」とは思っていないかもしれない。
ヒール靴強要問題~他人の痛みは100年でも我慢できる
さて、上の記事を書いたところ、「フェミニストはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている」という事例として「上野千鶴子がいるじゃないか」と反応する人があまりにも多かった。その反応を見て、私は「皆、なんで上野千鶴子氏一人の発言にそんなにこだわるんだろう」と思っていたが、下の記事を読んで、少しその原因が見えてきたような気がする。
もしかして、この問題にあまり関心がない人には、ヒール靴強要問題を訴える女性たちが、上野氏の発言以前からずっと「どうせハイヒールが嫌いなだけなんだろ」と言われ続けていたのが、見えていないということなのだろうか?
azanaerunawano5to4.hatenablog.com
以前、ある芸能人が、中学時代にいじめに遭っていた体験を話していたことがあった。クラスの男子数人から中心的にいじめられており、学校の焼却炉のところで体に熱した火ばさみを当てられたり、トイレで唇をカッターで切られるなどされたという。その芸能人は、当時、このことを誰にも相談しなかったという。
私はこれを見て、「被害者が誰にも言わなかったということは、当時、教師や他のクラスメイトたちは、この人がそこまで酷いいじめを受けていたことを知らなかった可能性が高いな」と思った。軽度のいじめは教室で行われることもあったが、深刻ないじめは、トイレや焼却炉など、いじめの中心人物と被害者だけがいる空間で行われていたからだ。教師や他のクラスメイトの認識としては、「ちょっとからかわれたりして、孤立している子はいるけれど、そこまで酷いいじめじゃない」程度の認識だったかもしれない。
また、いじめは集団で行われるケースが多いため、いじめをするほうからは1回やったことでも、いじめをする者が20人30人いれば、被害者にとっては、20回30回やられているということになる。加害者や傍観者の立場から見る光景としては、「いじめられている子は、自分が見ていないところでもいじめられている」という想像力を働かせられないと、「そこまで深刻ではない」と認識してしまうことは、大いにありえる。
こうなると、被害者が、自分がやられたことに対して当然のレベルで怒ったり傷ついたりいるのに、それを見た傍観者的立場の者は、「怒りすぎ」「大げさだ」と捉えてしまうことになりかねない。
差別もまた、大抵はこれと同じメカニズムになっている。
つまり……ヒール靴強要の件においても、傍観者的立場の者からすると、「フェミニストが言っていることはよく見えるが、フェミニストが言われていることはあまり見えていない」ということになっているのではないだろうか。
私は#Kutoo運動について、そこまで詳しく見ていたわけではないが、冒頭で言ったように、上野氏の発言以前、少なくとも、署名を集めたり厚生労働相に質問する動きがあった時から、この運動に対して「どうせハイヒールが嫌いなだけなんだろ」と言う人が沢山いた。
#Kutoo運動に関しては、きっかけを作った石川優実氏の職場を特定しようとする人たちまで現れたらしい。その影響で、石川氏は当時勤めていた葬儀会社を辞めてたそうだ。*1職場を特定しようとする動きまであったくらいだから、ネット上でのバッシングがいかに多かったかということは想像余りある。
ちなみに、石川氏は、葬儀会社に勤めていたことから、女性だけがヒール靴を履いて労働することに疑問を持つようになったらしいが、石川氏は、最初から「男性と同じ革靴ではダメなのか」と言っていたにも関わらず、彼女に対して「葬儀の席でスニーカー履く気かよ」などと言っていた人もいた。
こういうことは本当によくある。以前、私が「ダサピンク現象」という言葉を言った時も、「どうせピンクが嫌いな女が言ってるんだろう」と言う人が、それはそれは沢山いたものである。*2
ちなみに、女性がこういった問題に疑問の声を上げると「どうせブスorババアなんだろう」と言われるのは、少なくとも100年以上前の婦人参政権運動時代からよくある話だ。*3
ある意味で興味深いと思うのは、バッシングする人々が、職場の女性たちにヒール靴を強要するような立場に就いているわけでもなさそうな人が多いことだった。どうやら、この問題を、労働問題だけでなく女性差別問題でもあると言ったことが、彼らの怒りの原因になったらしいが、ヒール靴を強要されているのは実質女性だけであり、現代日本では、企業の「偉い人」はほぼ男性という社会なのだから、女性差別だと見るのは至極当然だと思う。
批判されたり改善を求められたりしているのは、そういった企業の「偉い人」や厚生労働相であって、それ以外の人は特に批判されているわけでもないのに、彼らが何をそこまで怒る必要があるのか、正直よくわからないのだが、ここで言うところの「冷たい怒り」なのかもしれない。
“ある種の心理的な状態を描写して、それをひとつの概念として確立したいと思います。とりあえず、私はそれを「冷たい怒り」と名づけました。
伝統的な慣習で惰性的に続いているものに関連して起こることなので、例として社員旅行を使います。
日本では、こういう伝統を守ろうとする人たちは、「社員旅行はよい」と主張しないで「社員旅行に文句をつける奴は悪い奴だ」と主張する傾向があります。権力のある人から、繰り返しそれを受け続けると、社員旅行の好き嫌いと関係なしに、「社員旅行に文句を言えないことに対する怒り」がたまってきます。この怒りはどこに向かうかと言うと、社員旅行が好きな人ではありません。「社員旅行に文句を言うな」と言った人でもありません。「社員旅行に文句を言う人」に向かって吐き出されます。これが「冷たい怒り」です。”
“まず、僕はホモソーシャルにおける弱者男性の一員である。サラリーマンとして男性社会を生きているが、男性社会とはすなわち弱肉強食の競争社会であり、オトコなら弱音は吐かず我慢してナンボ、泣いちゃダメ、出世しろ、という精神が今も根付いている。しかし、僕ははっきり言ってメンタルが弱いし、そこそこの収入で家族とのんびり暮らしたい、もっと寝たいetc...としか思っていない。「オトコ」の風上にも置けない奴だ。つまり、ジェンダーと自分の性格が乖離していることにより、大層ストレスが溜まる。
こういったストレスが引き金となり、「男性(僕)はジェンダーを受け入れて我慢しているのに、女性は愚痴ることができていいよな」、「女性も我慢しろよ」、という論理性の破綻した反発につながる。”
さて、多くの人がこだわっていた上野千鶴子氏の発言はこれだろう。
#KuToo の署名広告が朝日新聞9月20日付けに掲載。上野も、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワークも参加しました。わたしは重度の外反母趾、ハイヒールの靴は全部捨てました。こんな不自然な靴を美しいと感じて履いているなんて野蛮だと思う。
— 上野千鶴子 (@ueno_wan) 2019年9月22日
それに対して、石川氏はこう言っている。
#KuToo はハイヒールもフラットシューズも、全ての人がどちらも選べるような選択肢を求める運動です。ハイヒールを美しいと思う人が見たら悲しくなるような運動として進めていません😔 https://t.co/lM1SWkg9rv
— 石川優実@#KuToo署名中👞👠 (@ishikawa_yumi) 2019年9月24日
おそらく、石川氏は、著名なフェミニストである上野氏がこう言うことで、「ほら見ろ!やっぱりフェミはハイヒールが嫌いなだけなんだろ!」と言いたがる人が沢山出てくることを懸念したのではないかと思う。
ちなみに、上野氏は自身の発言についてはこう言っているが。
漫画『王様の仕立て屋』の中の例のシーンにおける「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」というセリフが上野氏のことを指しているとしても、私は「取材・考証不足」だなと思う。
いじめにおいて、いじめられる側から見た視点を取材せず、ただ、いじめのあるクラスの傍観者という立場から見た風景だけを元に描いて、それが正確な描写になりえるものだろうか?
傍観者の立場にある者は、自分自身を中立かつ客観的な立場だと思い込んでいることが多いが、実際には、いじめがある集団の中で感覚が麻痺してしまっただけの者であったり、既に書いてきたように、いじめの実態が見えていない立場であったりするものだ。
自分はハイヒールやパンプスなど一生履く必要に迫られないと思っている人にとっては、どうやら「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」ということが一番の関心事になる傾向があるらしいが、職種によってはハイヒールを強要されかねない立場の人間にとっての一番の関心事は、「足が痛い」「健康を損ねる」「その職場を辞めざるをえない」ということである。
むしろ、女性がハイヒールを履くか履かないかという、多くの男性にとっては、接客する女性たちの見た目が多少変わる程度の影響でしかないことでさえ、「声を上げる女性を蛇蝎の如く嫌っている人がいる」のだなぁと思う。
そういう点においては、私はある意味、この問題においては、上野氏にも石原氏にも、あまり興味を持っていないのかもしれない。過去記事『女性参政権運動家:エメリン・パンクハーストの「過激さ」をどう評価するか』の中で、私はエメリン・パンクハーストの「過激さ」を、当時の社会がいかに女性たちの声を聞かなかったかということを映し出す「鏡」であり、注目すべきは当時の社会状況のほうであるという趣旨のことを書いたが、この件においても、私は、石川氏が言ったことよりは、石川氏が言われたことのほうに注目しており、石川氏のことを「鏡」として見ているところがあるのだろう。
なお、職場におけるヒール靴強要を問題視する声は、石川氏以前から言っている人は沢山いたということは書いておこうと思う。ある意味では、石川氏がたまたま「バズッた」から、2019年の流行語に「#Kutoo」が選ばれるくらいには注目されるようになったのだが、このヒール・パンプス問題は、2019年だけでなく、それ以前からずっとあった問題なのである。近年話題になった「保育園落ちた日本死ね!!!」の何十年も前から、ずっと保育所不足問題があったように。
また、この問題について「本当に強要なんてあるの?」と言っている男性の中には、どうにも「職場=オフィス」としか考えていないのではないかと思えるような人もいた。確かに、昨今のオフィスはカジュアル化が進んでいるが、飲食業、宿泊業、営業等の「接客」要素が高い職場においては、まだまだ「きちんとした格好」としてヒール靴が求められる傾向があるようである。*4ちなみに、女性の半数以上は非正規雇用である。
そもそも、「本当に強要なんてあるの?」と思うこと自体が、傍観者的立場の人からは実態が見えないという現象そのものなのだが。
私は、ヒール靴強要問題に関しては、もしかしたら、女性が男性と同様にヒール靴を履かなくても済むようにしていくよりも、男性にも女性と同等にヒール靴を強要したほうが、問題が解決されやすいのではないかと思う。
なぜなら、男性は論理的かつ合理的な生き物らしいので、それが明確な強要であれ暗黙の空気によるものであれ、ヒール靴を履くことが求められる立場になったら、夕方にはあまりの足の痛みと疲労に、上野千鶴子氏の発言とかもわりとどうでも良くなって、「こんな慣習、今すぐやめるべきだ!」と言うであろうから。そうすれば、職場でのヒール靴&パンプス強要は、すぐになくなるであろう。
他人の痛みは100年だって我慢できるが、自分の痛みは1秒だって我慢できないものだ。
しかしまぁ、#Kutoo運動がきっかけで、職場によってはヒール靴を見直すところも出てきているのだから、今後もこういう流れに傾いていくのではないかと思っている。過去、差別が是正されてきたのは、差別的な人たちが考えを変えたからというよりは、それ以外の人たちが社会の空気を変えて、差別的な人たちを置いてきたからという面が強い。だから、この問題についても、「声を上げる女性を蛇蝎の如く嫌っている人」たちを置いていくことになるのだろう。
#Kutoo運動に関しては、そう思っていることもあり、また、既に沢山言及している人がいるので、私はあえて今まで書いてこなかった。私がこの記事を書こうと思ったのは、漫画『王様の仕立て屋』の件があったからだ。ああいうものは作品として残ってしまう。過去に創られてきた、今から見れば差別的なシーンがある作品のように。そういったシーンは、美味しいチョコレートボンボンの中に混入した小石のようである。
おまけ。痛みと差別の関係といえば、こういう記事があった。歴史的に長らく白人は黒人の痛みに鈍感であったが、どうやらそれは今も続いているらしい。
なぜ「フェミニストはハイヒールを嫌っている」と思われるのか~『王様の仕立て屋』への意見
前編では、フェミニストの主張がすり替えられてしまうカラクリについて書きました。後編では、件の『王様の仕立て屋』の回について、思うところを書いていこうと思います。
※前編はこちら。
さて、件の漫画についてですが、「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」と思っているキャラクターが出てきても良いのですが、作中でそれを訂正しておかないと、漫画によって誤った認識を広めることになってしまいかねません。
それは、例えるなら、作中でブラック企業の問題を取り上げておいて、キャラクターに「ブラック企業だと言って批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人がいますが」と言わせたなら、その後の話の展開はそれで良いのかということです。
スワールトゥの靴を強要される職場などまずないのに対して(せいぜい靴のモデルの仕事ぐらいでしょう)、ハイヒールのそれは、実際に会社からの強要の例がかなりあるので、比較対象として適当ではないように思われます。
また、女性がハイヒールかフラットシューズかの選択肢を与えられていないという問題に対して、ただ「好きな物を履けばいい」と言うのは、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言うようなものです。「(本来なら)好きな物を履けばいい(はずなのに)」という文脈で語られるべきでしょう。
普段ならば、紳士服のあれこれについては、丁寧に調べて描く必要があるとわかるのに、こういった問題については、どういうわけか、うっかり調べないで描いてしまったのかもしれませんが、むしろ、こういった問題こそ、自分自身が誤解している可能性を疑って、きちんと調べなくてはならないものです。ただでさえ、マイノリティの実像は、マジョリティによって歪められ、ステレオタイプ化されて広まっていることが多いので、ちゃんと調べて書かないと、「調査不足・考証不足」と見なされてしまうでしょう。
これまで服飾について掘り下げて描いてきたであろうこの漫画において、女性の靴について、「フェミニストはハイヒールを嫌っている」というイメージのまま、十分に調べることなく描写するのは、その漫画が今まで積み上げてきたものを棄損してしまいかねないのでは?と思います。
この「調査不足・考証不足」についてですが、私はこの、2014年の映画『ベイマックス』を見た人の感想から派生した話を思い出しました。
“political correctness にコミットメントするのは、いまのものづくりにおいて、時代考証や、SFの超科学に説得力を持たせるのと同じく、推敲、洗練、煮詰め、練り上げ……といった作業のはずなのですが、何故ここまで嫌悪、もっとはっきり言えば「面倒くさがられる」のか。”
“PC的なものはSF考証とか歴史考証みたいなものかもしれませんね。
手間だし、やろうとするとシナリオ全体をいじらないといけなくなるけど、うまくできればそれ自体が快楽になるという。”
“まさにそれだと思います。PCが分かってないことが、ただの考証不足、取材不足として扱われるようになるだろうと予感させるような出来でした。”
上記リンク先の内容をかいつまんで話すと、今まで白人中心の映画会社が作ってきた作品の中で、日本がステレオタイプ的に描かれるのが「普通」だったのが、ベイマックスの中の日本要素は、日本人の目から見ても違和感を感じないものに仕上がっていたこと。
そこから派生して、女性から見て違和感のない女性描写、黒人から見て違和感のない黒人描写、障害者から見て違和感のない障害者描写というのは、日本人から見て違和感のない日本描写や、時代考証がきちんとなされた作品などと同様であり、これからはこのレベルが「普通」になっていくだろう……という内容です。
そして、実際その通りになってきています。2018年公開の、主要キャストのほとんどが黒人の『ブラックパンサー(Black Panther)』、主要キャストのほとんどがアジア系の『クレイジー・リッチ!(Crazy Rich Asians)』は、それまでのハリウッド映画にありがちだった人種・民族的ステレオタイプ、「とりあえず黒人出しときゃいいんでしょ」感がほとんどないと、高い評価を受けました。
2015年公開『マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)』においては、ジョージ・ミラー監督は、悪の親玉イモータン・ジョーの子供を産むために捕らわれていた5人の妻を描写するにあたって、人身売買に詳しい人を招いて監修してもらったと言っています。これは実はとても重要なことで、なぜなら、性暴力被害者を描写するにあたって、誤解や偏見に基づいた描写をしてしまう作品が、これまでよくあったからです。
“ミラー監督 映画を作る際、きちんとした世界観を構築するためには、できる限り物事を正確に描く必要がある。ウォーボーイズとイモータン・ジョーを描くにあたってはミリタリーの専門家にアドバイザーを依頼し、(俳優たちのための)ワークショップをやってもらった。そこで(ウォーボーイズやイモータンの)想定し得るコミュニケーションの方法を、現代の戦場におけるコミュニケーション方法を反映させた形で作り上げていったんだ。それと同じことを女性キャラクターについても行った。とくに5人の〈ワイヴズ〉の人物造形のためにだ。なぜなら〈ワイヴズ〉たちは、共通するバックグラウンド(というか境遇)があり、そのことで心がひとつに結ばれているーーということを示す必要があったからだ。そこで、特にアフリカにおける女性の人身売買や搾取(訳注:隷属状態、といってもいいです)に詳しいイヴ・エンスラーを招いて、〈ワイヴズ〉を演じた女優たちに「彼女たちがいったいどういう(精神的・肉体的な)状況にいるのか」ということがしっかりと理解できるよう手助けをしてもらった。”
では、『王様の仕立て屋』の件のシーンにおいて、どのようにするのが良かったのかというと……これはあくまでも私の考えですが、「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」というセリフは、男性である織部に言わせ、女性陣がそれを訂正するという流れにするほうが、リアリティがあったのではないでしょうか。(というより、最初からこんなセリフ出さないほうがスムーズかもしれませんが……)
彼女たちは女性として当事者なわけですから、織部より若い女性キャラたちのほうが、最近のフェミニズムやハイヒール事情についてアンテナ感度が高かったとしても、何もおかしくはないでしょう。
そして、ハイヒールの歴史に関しては、織部は知っているけれど、実際にそういう靴を履いて足の具合がどうなるのかということについては、女性陣のほうが、経験者として一日の長があるはずです。例えるなら、医師は病気についての知識は持っているけれど、その病気になるとどのように苦しいのかは、病気になったことのない人にはわからないのと同じです。
いずれにせよ、こういう女性周りの問題まで、何でもかんでも男性である織部のほうが知っていて、年下の女性たちに説明するというのも、些か不自然なのではないかと思います。
今日において、映画『ティファニーで朝食を』のユニオシ氏というキャラクターは、「あの時代の日本人キャラクターは、ああいうふうに描かれていた」という、ある種、人種や民俗に対するステレオタイプの例として機能しています。*1ディズニーにおいても、問題があると指摘された歌詞を変更したり、過去作品の実写化をするにあたって、オリエンタリズムを刷新したりしています。*2
こういった部分をよく調べずに描いた作品は、何十年後か、いや、場合によっては数年もしないうちに、とりわけそのシーンだけが、非常に古い印象を抱かせるものになってしまいがちです。一方、丁寧に描くと、普遍的なものになったり、その時代においては画期的だという評価がなされたりすることも多いです。
「フェミニストは、エマ・ワトソンのようにセクシーな服を着てもいいのか?」、記者によるこの質問に対して、スタイネムはこう答えている。
フェミニストは着たいものを何だって着てもいいのよ。
こっちは「パンがなければ…」じゃないほうの「好きなものを着ればいい」。
なぜ「フェミニストはハイヒールを嫌っている」と思われるのか~すり替えのカラクリ
『王様の仕立て屋』という漫画の中で、「そういえば フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいますけど」というセリフが出てきて、物議を醸していました。
この件について書いてみましたが、長くなりましたので、前編と後編に分けて書くことにします。
フェミニストに対して、この登場人物のような認識を持っている人は、実際多くいます。一方で、実際にフェミニストが言っていることは、概ね「ハイヒールの強要をやめよう」なのですね。
欧米においては、カンヌ映画祭において、フラットシューズを履いた女性が入場を拒否されたことから、ジュリア・ロバーツやクリステン・スチュワートがレッドカーペットを裸足で歩くパフォーマンスをしてみせたりします。日本においては、『#Kutoo運動』の提唱者である石川優実氏が有名ですが、石川氏も「職場におけるハイヒールの強要」を問題視しているのであって、かなり最初期から「ヒールを履きたい女性を否定する運動ではない」と言っています。
この辺りのことは、少しネットで調べればわかることでしょう。
では、なぜ「フェミニストはハイヒールを嫌っている」という誤解が広まっているのでしょうか。
ハラスメント気質な人によくあることとして、「部分否定を全否定だと受け取る」というのがあります。
例えば、勧められたお酒を断るという行為は、アルハラ気質のない人からすると、「飲めない体質なのかな」「今は飲みたくないのかも」と思うのがせいぜいでしょう。一方、アルハラ気質の人が言うことの代表例は、「俺の酒が飲めないのか!」というセリフですよね。
アルハラ気質の人は、自分の勧めた酒を断られたということが、「自分の好意を拒否された」→「俺のことが嫌いなんだろう」という思考に結びついてしまう。相手はただ酒が飲めないから断っただけなのに、自分が全否定されたと感じるのです。
同じようなことはセクハラでもあります。「セクハラはやめろ」という趣旨のことを言われた人が、「性欲なくせって言うのか!」と言い出すのは、よく見る光景です。相手は別に、性欲を抱くことまで否定しているわけではありません。ただ、頭の中で思うことと、実際に言ったりやったりすることとは、全然違うのだから、自分の領域と他人の領域の区別をつけろということなのです。
しかし、セクハラ気質の人は、性の分野において、自分の領域と他人の領域の区別がつかないので、相手の許可なく他人の領域に踏み込むし、それを拒否されると、自分自身の性、ひいては自分そのものが全否定されたと感じるのです。
こういった、「部分否定を全否定だと受け取る」気質の特徴がよく表れていたのが、この件だったかなと思います。
ワタミグループでは2008年6月、居酒屋で働いていた新入社員が過労自殺し、12年に労災認定されている。渡辺氏は中原氏への質問の中で、「私も10年前に愛する社員を亡くしている経営者。過労死のない社会を何としても実現したい」としたうえで、「国会の議論を聞いていますと、働くことが悪いことであるかのような議論に聞こえてきます。お話を聞いていますと、週休7日が人間にとって幸せなのかと聞こえてきます」と発言した。
過労自殺した遺族の訴えに対する、渡辺氏の「働くことが悪いことであるかのような議論に聞こえてきます」「週休7日が人間にとって幸せなのかと聞こえてきます」という発言は、ネット上では、おおむね「この人は何を言っているのだ…?」という反応をする人が多数でした。まぁ、経営者側のほうが権力的に強いとはいえ、ネット上では、ブラック企業に批判的な人が大多数ですから、このような反応になるのでしょう。
しかし、もしこれが、うっすらブラック企業側の感覚を持った人が多数の世界だとしたら……おそらく、「遺族は、働くことが悪いことだと言っている」「批判しているのは、週休7日が人間にとって幸せだと考えている人たちだ」と言われて、あっという間にその言説が広まってしまっていたことでしょう。
これが、「職場でハイヒールを強要しないでほしい」というフェミニストの主張が、「ハイヒールが悪いものであるかのように聞こえる」「フェミニストはハイヒールを嫌っている」にすり替えられてしまうカラクリです。
実際のところ、フェミニストの中には、ハイヒールを嫌っている人もいますが、ハイヒールが好きという人もいます。(「休日のおしゃれに履くのはいいけれど、“労働”の時に履くのは嫌」という人が多数かもしれません。)その辺は、アルハラに反対する人には、下戸もいれば上戸もいるのと同じでしょう。共通しているのは「他人に強要するのはやめろ」ということです。
問題は、「ハイヒールの強要」という問題において、「ハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人」の存在を持ち出してくることに、何の意味があるのかということです。
そりゃあ、ブラック企業を批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人もいるでしょうが、ブラック企業問題を語る上で、「ブラック企業を批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人もいますが」と言うことに、何の意味があるのかということです。労働を蛇蝎の如く嫌っている人がいたところで、「労働基準法を守るべきだ」ということに変わりはないはずですから。
…まぁ、もし「できれば労働基準法なんて守りたくない」と思っている人や、「労働問題はどうでもいい。とにかく声を上げる人が気に食わない」という人*1がいたとすれば……そういう人からすると、わざわざ「批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人もいますよね」と言うことには、それなりに意味があるのかもしれませんが。
それにしても、ヒール靴強要問題における、こういったネット上の反応は不思議だなぁと思います。職場において、非合理的な慣習がまかり通っていること、中でもとりわけ、それで健康被害が出ていることに対しては、実社会はともかく、少なくともネット上であれば、「非合理的」「こんな慣習は早くなくすべき」「時代遅れだ」という反応になるのが普通なのですが、こと女性だけが被害を被っている問題となると、「女のわがまま」という解釈しかできなくなったり、「職場が強制しているという事実があるのか?女の勘違いなんじゃないのか?」という方向へ持って行く人が多数出てくるようです。
と、ここまで書いてきて、この文面を見つけて「マジかよ……」と思いました。
というか、個人的には「履いてる人はバカだなぁ」と思ってたくらいなので、
KuToo運動を見たときに女性がそれを強制されていたことを知らなくて大変申し訳なく思いました。
これに関しては、本当に無知ですみません。
いやー、この問題については「どうせ女が大げさに騒いでいるだけだろ」みたいな反応する人を多く見かけたわけですが、マジでそのレベルだったのか…… まぁ予想はしていましたが、こうしてはっきり提示されると、改めて「マジかよ……そこからかよ……」ってなりますねぇ……
結局これも、子連れの女性が嫌がらせを受けることを、男性の目撃者が出てくるまで「女が自意識過剰なだけじゃね?」と思っていたり*2、女性を狙ってわざとぶつかる人がいるのを、映像が出てくるまで信じられなかったりするのと、同じなのかもですね。
しかし、私は「男子に丸刈りを強要する学校がある」と聞いても、「本当にそんな学校あるの?」「男が騒ぎすぎているだけじゃね?」とは思わないのになぁ……
“女性の感情に対する(多くの)男性の典型的見方と、有色人種の人々の感情に対する(多くの)白人の典型的な見方には共通点がある。黒人は人種差別を訴えているが、(多くの)白人はそれを実際に目にするまで信じないと、世論調査や研究が伝えている。白人や社会的地位の高い黒人の話は信用されるが、その他の黒人の個人的な体験や感情は論理的でないとみなされるのだ。”
〔追記〕
色々書いたけど、結局ここで書かれているようなことなのかもしれないな……
“まず、僕はホモソーシャルにおける弱者男性の一員である。サラリーマンとして男性社会を生きているが、男性社会とはすなわち弱肉強食の競争社会であり、オトコなら弱音は吐かず我慢してナンボ、泣いちゃダメ、出世しろ、という精神が今も根付いている。しかし、僕ははっきり言ってメンタルが弱いし、そこそこの収入で家族とのんびり暮らしたい、もっと寝たいetc...としか思っていない。「オトコ」の風上にも置けない奴だ。つまり、ジェンダーと自分の性格が乖離していることにより、大層ストレスが溜まる。
こういったストレスが引き金となり、「男性(僕)はジェンダーを受け入れて我慢しているのに、女性は愚痴ることができていいよな」、「女性も我慢しろよ」、という論理性の破綻した反発につながる。”
※後編はこちら。
※業務上必要なヒール靴の例。この演目を演じるには、ハイヒールが必要!
ブロードウェイミュージカル「キンキーブーツ」ゲネプロ2019 小池徹平 三浦春馬
その靴、痛くないですか? ――あなたにぴったりな靴の見つけ方
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大丸梅田店の生理バッジについて思うこと~障害学の視点からなど
大丸梅田店において、女性店員が生理であることを示す「生理バッジ」をつける試みが話題になっています。生理をオープンにして、生理の時に気遣い合えるようにすることを目的としているようです。
ネット上では、既に「任意とは言うけれど、会社側が言うことによって、実質強制にならないか」という批判は沢山出ているので、また別の角度から思うところを書いてみようと思います。
私は以前、一見障害者だとわからない障害者が抱えている問題について、健常者の人たちに解説するという趣旨の集まりに参加したことがあります。講師の人が一通り話し終えた後、一人の健常者が「街中で見かけてもわからないから、わかりやすいように印とかつけといてくれたらいいのにね」と発言しました。その提案は、障害当事者たちには、おおむね不評でした。
私自身、発達障害者ですが、職場などで発達障害だということをオープンにして働くことと、「発達障害バッジ」みたいなものをつけて歩くことは、全く別だというのが、私の認識でした。「だいたい、なんで発達障害者だけが印つける必要があるのかなぁ。それなら、定型発達者も『定型発達バッジ』つけたほうが便利だよ」とも思いました。*1あと、単純に、いちいちバッジつけるのめんどくさいです。
一方で、世の中には、ヘルプマーク、耳マーク、オストメイトマークなど、障害者であることを表すマークはあります。*2これらのものは、障害者が任意で身に着けるものですね。で、職場で、これらのマークを「身に着けたい人は身に着けて下さいね」というふうに置いておいて、従業員が任意で身に着けられるようにしておくというのは、良いんじゃないかなと思います。
ただ、私が大丸百貨店の試みに違和感を感じた点は、これ「キャンペーン」的なものなんですよね。お客さんを意識しているというか、対外的な要素が強いんじゃないでしょうか。そういう対外的な「キャンペーン」のために、従業員のプライベートを開示するというのは、「それでええんか?」という気がするのですね。
うーん、なんというか、例えるなら「世間に子育て熱心なことをアピールする親」「対外的にイクメンアピールする夫」を見た時に似たもやもやを感じてしまったんです。対外的にアピールするよりも、まず自分たちの職場を良くしていくことを考えたほうが良いのでは、と思いました。
でもまぁ、たぶんそっちのほうが難しいのかもしれませんね……日本って、「お客様のため」という大義名分があれば言いやすいけれど、「自分たちが働きやすくなるため」だと言いにくい、みたいな空気ありますもんね。でも、ことこの問題に関しては、どうせ批判覚悟でやるなら、「自分たちが職場で働く上で、本当に求めているものは何なのか」から出発して、それを実施して、その上で「うちではこういう取り組みを始めました」と発信したほうが、世の女性たちからの反応も良いものになるんじゃないかなって思います。
生理バッジ導入するくらいなら
— 伊月いつき (@itsukinoaka) November 25, 2019
レジに接客してないとき座っていい椅子とかお手洗いにいざという時使っていいナプキンとか、生理休暇取得できる環境とかそういうのを導入した方がいいのではと思ってしまう
それから、「これ、むしろ『生理が来てる』場合より『生理が来ない』場合のほうが問題だな」と思いました。 生理が来ない理由は、生まれつきそういう体質という人もいれば、病気とか妊娠とかそろそろ閉経とか、特に原因がわからないケースとか、様々ですが、むしろ「生理が来ない」ことこそ他人に知られたくないということはあるでしょう。女性なら、誰もが毎月きちんきちんと生理が来るわけではないですしね。
元になった漫画については、「残念だなぁ」と思っていることがあります。それは、バッジをつけない女性のモデルが、おおむね「バッジをつけずに我慢するのが美徳だと思っている女性」しか登場していなかったこと。
私は、この漫画の中に、ただ単に「バッジつけるのめんどくさ~」という理由でつけず、「バッジはつけないけど、気軽に『今日生理だから~』と言って休む女性」が登場しても良かったのではないかと思いました。バッジをつけたくない女性だって多種多様だろうからです。
というか、もし私だったらそうするだろうな、と思ったからなんですけどね。そして、これを考えた時、私は女子校に通っていた時代のことを思い出しました。女子校では、バッジなんてつけなくても、生理は普通のことでした。生理周りの体調不良も、当たり前に理解されました。
小学校の性教育では、「ナプキンはポーチに入れて持ち歩くといいよ」と教わったので、そういうもんだと思っていたのですが、女子校に行くと、ナプキンを隠さなくなる子が続出しました。鞄から何にも包まれていないナプキンを取り出して、そのままトイレに持っていく子が沢山いました。
でも、賃金労働の世界に行くと、生理周りのことは、なんとなく隠すものという空気が漂っていました。これは、賃金労働の世界のシステムが、生理がない人を基準に作られてしまっているからなんですね。そうなると、たとえ女性が多い職場であっても、男性社会のシステムで動くわけですから、「生理で休むなんて」「私は我慢した」みたいな空気が漂うことになったりする。生理が思い人と軽い人で分断されるのです。
障害学の世界には、「医療モデル」と「社会モデル」という考え方があります。障害を体の内側にあるものと捉えるか、体の外側にあるものと捉えるか、ということです。
障害者の歴史においては、長らく「医療モデル」を中心に考えられてきました。つまり、障害者をなんとか「治療」するなり「訓練」するなりして、社会に適応できるようにしよう、という方法論です。
現代では、「医療モデル」に偏っていた過去が反省されて、マジョリティである健常者が、健常者中心の社会システムを作ってしまったために、障害者が生きづらくなっている。障害は社会のほうにあるという「社会モデル」の考え方が主流になってきています。
例えば、痛みや倦怠感があるなどといった問題は、病院に行って痛み止めを打ってもらったり、病気そのものを治療するなどして対処する。これは「医療モデル」ということになります。一方、痛みや倦怠感があることが周囲から理解されず、そのために不自由する。これは「社会モデル」ということになります。
で、この「医療モデル」「社会モデル」を、生理に当てはめて考えてみると、痛みや倦怠感などを緩和するために、婦人科を受診したり薬を処方してもらうなどの「医療モデル」においても、社会システムを生理がない人に合わせて作ってしまったために、生理がある人が不便な思いをしているという「社会モデル」においても、日本は遅れているということになるでしょう。
またちょっと違った角度の話になるのですが、LGBT周辺の問題でよく言われることに、「同性愛者にカムアウトを促す前に、異性愛者がカムアウトしやすい世の中を作るほうが先」というのがありますね。本来、こういった問題を解決する責任があるのは、マイノリティじゃなくてマジョリティのほうなんです。
これに照らし合わせて考えれば、女性が生理をオープンにするために、本当に頑張らないといけないのは、どこの誰?ということになってくるでしょう。「女性に」バッジをつけさせて、「女性に」発信させる前に、まずやることが沢山あるような気がするのです。
私は、大丸梅田店の女性店員さんたちが「生理バッジ」をつけるよりも、大丸の男性職員さんたちが、女性の生理についてメッセージを発信したほうが、もっと良いんじゃないかな、と思うのです。
あと、生理ちゃんの作者は「女子校の生理ちゃん」を描いてもいいですよ。
[2019.12.1 追記]
取り止めになった模様。
*1:ここで書かれているようなこと。→多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー
女性参政権運動家:エメリン・パンクハーストの「過激さ」をどう評価するか
はてなブックマーク巡りをしていて、上の記事が目に入った。全体的に楽しく読ませて頂いたが、女性参政権運動家:エメリン・パンクハーストについての記述だけ、違和感を感じてしまった。私は歴史には詳しくないが、差別の構造については少しばかり興味を持っているので、違った歴史の見方を提示できるかもしれない。
念のため、最初に言っておくけれど、これは投石や爆破や放火などを肯定するものではない。パンクハーストはじめサフラジェットたちの抵抗運動をどのように評価するかという話だ。
上の記事から、エメリン・パンクハーストに関する記述を引用させて頂く。
彼女をここにランクインさせるべきかは非常に悩ましいところである。
エメリン・パンクハーストは恐らく世界史で最も有名なフェミニストで、いい意味でも悪い意味でも現在のフェミニスト運動の先駆けとなった人物である。
彼女の手法はとにかく過激かつ非合法なもので、自説を主張するために自身を含めた運動家を逮捕させる行動を繰り返し世間の注目を集め続けた。彼女の組織したWSPUという女性の権利団体はひたすら窓ガラスを割り続け、国会の傍聴席に自分たちの身体を鎖でしばりつけたり、爆弾を使って郵便受けを爆破したりするなどもはやテロリズムと言っても良い手段で女性の地位向上を狙っていた。
特にイギリスの伝統あるエプソムダービーでゴールの前に飛び出して運動員が死亡するという事故を起こした際には世界中から顰蹙を買ったのだが、途中からハンガーストライキに訴えたり、一次大戦の際には運動を辞めて暴力的な戦術を停止するなどただの過激派ではない面もある。
彼女の過激なフェミニズムは海を渡ったアメリカでも受け入れられ、ウーマンリブのような過激な運動組織へと継承させていく。
彼女の与えた影響は悪い意味でも大きく、現在でもフェミニストが暴れやすい傾向にあるのはエメリン・パンクハーストにその源流を求めることができるだろう。
とはいえ彼女の尽力で1918年にイギリスで、1920年にアメリカで女性参政権が実現できたのも確かなので、エメリン・パンクハーストはやはり偉人なのである。
英米において女性の参政権が認められたのは1920年前後のことであり、そう言ったことを考えるとやり方や内容はともかくエメリン・パンクハーストの功績はやはり大きいと言えるだろう。ただ、暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった人物でもあるが…
歴史上、植民地支配や独裁体制、人種・民族・身分差別等により、参政権やその他の権利を奪われている人たちが抵抗する運動というのは、世界各地で起こってきた。現在では香港の状況がそれに当たるだろう。こういった抵抗運動においては、言論による抵抗に止まらず、投石や爆破といった事態になった例は珍しくなく、場合によっては紛争や戦争にまで発展してしまったものもある。
パンクハーストたちの運動は、これらの男性が参加してきた抵抗運動に比べて、ことさら「過激」なものなのだろうか。もし、男性が主体になっていた抵抗運動に比べて、女性参政権運動のそれのほうが過激に見えるとしたら、それはなぜだろうか。
既に支配と抑圧の歴史が終わり、新たな価値観と社会制度が確立された後の出来事においては、その歴史が語られる時、「当時はこういった支配体制があって、こういう抵抗運動があって、体制が変わりました」という語られ方をする。
一方、現在進行形の支配と抑圧については、抵抗する側の問題点に注目が集まるが、その一方、抑圧する側については、抵抗する側以上に無茶苦茶なことを言ったりやったりしていても、大して注目されないし記憶に残らない。なぜなら、その支配と抑圧のただ中にある人々は、生まれた時からそういう環境で過ごしているので、その環境が「普通」だと思っているからだ。そういう感覚の中では、抵抗する側は「異端者」として見られる。
差別に対する抵抗運動の流れには、ある種の類型がある。
まず、マイノリティは穏健に訴える。マジョリティはとことんそれを無視する。痺れを切らしたマイノリティの中から、「穏健に訴えていても埒が明かない!」と、明確に怒りを表明したり、実力行使に及ぶ者が出るようになる。それに対して、マジョリティは「過激派」というレッテルを貼る。マイノリティは過激派と穏健派に分断され、マジョリティは、過激派を「悪いマイノリティ」、穏健派を「良いマイノリティ」と評価し、後者を「模範的なマイノリティ」として持ち上げる。
つまり、マジョリティは、「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かないのだ。そして、大抵の場合、差別する側は差別される側よりも、ずっと過激で暴力的である。
こういったことは、差別運動の歴史において繰り返されてきた。
さて、当時の女性参政権運動の場合はどうだったのかというと…
1860年代には、既に様々な女性参政権運動が各地で行われ、集会の開催やチラシの配布、国会への嘆願書提出が行われていた。にもかかわらず女性参政権に関する法案は常に否決され、一般国民や政府にとって彼女らの運動は見慣れた行事のようなものでしかなかった。だが1905年に風向きが変わる。
WSPUのメンバー2人が、マンチェスターで開催された自由党の集会に出向き「政権を取ったら、女性に選挙権を与えるのか」などと大声で叫び妨害。取り押さえた警官に唾をはきかけるなどして逮捕・投獄された。各新聞はこの「女性らしからぬ」事件を大きく報道。地方の一団体でしかなかったWSPUと、進展の見込みのなかった女性参政権運動は一躍脚光を浴びた。選挙権がない女性が政治に対して意見を言う方法は、もはや直接行動のほかにないとWSPUは考えた。こうして彼女たちは次々に過激な運動を展開するようになる。
見事にこの類型に当てはまっていると言えるだろう。
2015年に公開された映画『サフラジェット』は、まさにパンクハーストらが中心になって行った運動をテーマにした歴史映画だったが、その映画の批評で適当なものがあったので、引用して紹介しておく。
女性たちは全くの二級市民であり、税金だけはとられて権利は無い存在なのだ。序盤でモードは一度議会で労働条件についての証言を行うが、選挙権の無い女性たちの証言は無視されてしまう。このあたりの描き方は、「平和的な運動」という概念じたいが実は既得権者の有利に働くことがあり得るということを鋭くついていると思った。いくら平和的に頼んでも彼女たちにはそもそも議論のテーブルに上がる権利すら認められていないので、議会に影響力を及ぼすことができず、抹殺されるだけなのである。このため、モードやその仲間たちは注目されるため、脅威になるために先鋭化し、破壊活動をするようになる。
二級市民には意見を伝える手段すらない〜『サフラジェット』(『未来を花束にして』) - Commentarius Saevus
エメリン・パンクハーストのモットーは「言葉より行動を」だが、彼女たちのこうした過激さは、裏返せば、いかに当時の社会が女性たちの「言葉」に耳を傾けなかったかということを表しており、彼女たちはその社会状況を映し出す「鏡」として見るのが適当だろう。
上記のサイトには、当時の女性参政権運動家たちが受けた嫌がらせの例が載っている。驚くべきは、当時、彼女たちが受けた嫌がらせと、現代の「フェミニスト」と言われる女性たちが受けている嫌がらせの内容が、全く変わっていないことだ。
殺害予告にヘイト・メール……醜く描かれた女性の顔の下に「We Want the Vote」と文字を入れた画像があるが、これはまさに、現代でもアンチ・フェミニストがよく言う「フェミニストはブスのババア」そのものである。
エメリン・パンクハーストの評価については、「暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった」というよりは、むしろその時代が「暴れでもしなければどうにもならなかった」社会だったというふうに見たほうがいいだろう。
最初に書いたとおり、歴史上、抵抗運動で「暴れる」展開になるのは、特に珍しくはない。それら男性が参加していた抵抗運動についても「暴れればどうにかなるという悪習を遺してしまった」という評価をするのなら、それはある意味公平と言えるが、そうでないのなら、ニュートラルな評価とは言えないだろう。
そして、現在においても、パンクハーストの評価がニュートラルになされていないということは、現在においても、女性差別という「悪習」が色濃く残っているということの表れであり、まさにこれこそが、「現在でもフェミニストが暴れやすい」理由とは言えないだろうか。
もっとも、現代のフェミニストは、滅多なことでは投石や爆破や放火はしないし、行動すると言ってもせいぜい暴力の伴わないデモくらいなものなので、特に暴れている様子は見受けられない(一方、女性嫌悪から銃を乱射する男はいるが……*1)。これは、女性が参政権を獲得した影響があるのではないだろうか。
私はあまり歴史には詳しくないのだが、参政権がある層の抗議活動は、言論や集会の範囲に留まることが多いが、参政権がなく、言論を封殺されている層の抗議活動は、暴力行為にまで発展してしまうことが多いように思う。
私が、こういった差別抵抗運動の例を見るたびに思うことは、「マイノリティが穏健に言っているうちに、耳を傾けておけば良かったのに…」ということだ。しかし、差別への抵抗運動の流れが、ほぼ決まった類型を辿りがちなあたり、それは現実にはなかなか難しいことなのかもしれない。
ただ、歴史から学べるとすれば、マジョリティがマイノリティに対して思いがちな「なんでそんな攻撃的な方法を取るんだ。もっと穏健にわかるように言えば、受け入れられやすいのに」というのは、楽観に過ぎる場合があるということだ。現実には、差別する側というのは、モラル・ハラッサーや毒親のようなもので、抑圧されている側が言葉を選んで優しく訴えているうちは、居心地の良いポジションから動こうとしないものなのである。
女性参政権論争における黎明期は、フランス革命期における、ニコラ・ド・コンドルセの『女性の市民権の承認について』やオランプ・ド・グージュの『女性および女性市民の権利宣言』などがある。『女性および女性市民の権利宣言』が書かれたのは、フランス人権宣言が、結局のところ男性に限定されたものだったからだ。
アメリカにおいては、1848年に行われた、アメリカ女性運動の出発点と言われるセネカ・フォールズ会議がキーワードだ。この会議は、奴隷制度廃止運動の中で、女性だという理由で公の場で演説することを批難されたり、会議から締め出されたりした女性たちが中心になって行われた。*2
日本においては、平塚らいてうや市川房枝が有名だが、彼女たちが活躍した時代は、それまでの制限選挙制から納税要件を撤廃し、満25歳以上の内地に居住する日本人男性に選挙権が拡大された、大正デモクラシーの流れの中にある。
こういった歴史を見ていると、何かしら世の中に権利拡大の動きがあった時に、女性参政権の論争が勃発している傾向がある。日本における女性学のパイオニアである上野千鶴子氏は、学生運動内部における女性差別を目の当たりにしたそうだが、歴史を振り返ってみても、自由や平等や権利について考えているはずの男性たちが、女性の自由や平等や権利については、同じようには考えていないのだということを痛感した女性たちが、フェミニストになっていくケースが見受けられる。
さて、現代を生きる私たちは、歴史上の女性の参政権獲得のための運動を、男性の参政権獲得のための運動と、同じように考えることができているだろうか。もし、できていない人が多くいるようであれば、私たちは、まだ性差別による支配と抑圧と抵抗の時代の中にいるということになるのだろう。
“我に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ”
――パトリック・ヘンリー――*3
アメリカにおける人種差別の歴史をテーマにした映画『私はあなたのニグロではない(I Am Not Your Negro)』
「“私に自由か死を(※我に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ)”と白人が言ったなら 世界は称賛する だが同じことを黒人が言えば 犯罪人扱いされ 見せしめに罰せられるだろう 誰も後に続かないようにだ」
- 作者: マルタブレーン,イェニーヨルダル,Marta Breen,Jenny Jordahl,枇谷玲子
- 出版社/メーカー: 合同出版
- 発売日: 2019/07/12
- メディア: 単行本
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*2:女性実力者の系譜-女性の投票権|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN
*3:我に自由を与え然らずんば死を与えよ - Wikisource アメリカ独立戦争における非常に有名な演説の一部。この発言は、パトリック・ヘンリーが非常に過激な思想の持ち主であり、時として、男性が女性以上にこらえ性がないことを表している。