宇野ゆうかの備忘録

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大丸梅田店の生理バッジについて思うこと~障害学の視点からなど

大丸梅田店において、女性店員が生理であることを示す「生理バッジ」をつける試みが話題になっています。生理をオープンにして、生理の時に気遣い合えるようにすることを目的としているようです。

ネット上では、既に「任意とは言うけれど、会社側が言うことによって、実質強制にならないか」という批判は沢山出ているので、また別の角度から思うところを書いてみようと思います。

 

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私は以前、一見障害者だとわからない障害者が抱えている問題について、健常者の人たちに解説するという趣旨の集まりに参加したことがあります。講師の人が一通り話し終えた後、一人の健常者が「街中で見かけてもわからないから、わかりやすいように印とかつけといてくれたらいいのにね」と発言しました。その提案は、障害当事者たちには、おおむね不評でした。

私自身、発達障害者ですが、職場などで発達障害だということをオープンにして働くことと、「発達障害バッジ」みたいなものをつけて歩くことは、全く別だというのが、私の認識でした。「だいたい、なんで発達障害者だけが印つける必要があるのかなぁ。それなら、定型発達者も『定型発達バッジ』つけたほうが便利だよ」とも思いました。*1あと、単純に、いちいちバッジつけるのめんどくさいです。

 

一方で、世の中には、ヘルプマーク、耳マーク、オストメイトマークなど、障害者であることを表すマークはあります。*2これらのものは、障害者が任意で身に着けるものですね。で、職場で、これらのマークを「身に着けたい人は身に着けて下さいね」というふうに置いておいて、従業員が任意で身に着けられるようにしておくというのは、良いんじゃないかなと思います。

ただ、私が大丸百貨店の試みに違和感を感じた点は、これ「キャンペーン」的なものなんですよね。お客さんを意識しているというか、対外的な要素が強いんじゃないでしょうか。そういう対外的な「キャンペーン」のために、従業員のプライベートを開示するというのは、「それでええんか?」という気がするのですね。

 

うーん、なんというか、例えるなら「世間に子育て熱心なことをアピールする親」「対外的にイクメンアピールする夫」を見た時に似たもやもやを感じてしまったんです。対外的にアピールするよりも、まず自分たちの職場を良くしていくことを考えたほうが良いのでは、と思いました。

でもまぁ、たぶんそっちのほうが難しいのかもしれませんね……日本って、「お客様のため」という大義名分があれば言いやすいけれど、「自分たちが働きやすくなるため」だと言いにくい、みたいな空気ありますもんね。でも、ことこの問題に関しては、どうせ批判覚悟でやるなら、「自分たちが職場で働く上で、本当に求めているものは何なのか」から出発して、それを実施して、その上で「うちではこういう取り組みを始めました」と発信したほうが、世の女性たちからの反応も良いものになるんじゃないかなって思います。

 

 

それから、「これ、むしろ『生理が来てる』場合より『生理が来ない』場合のほうが問題だな」と思いました。 生理が来ない理由は、生まれつきそういう体質という人もいれば、病気とか妊娠とかそろそろ閉経とか、特に原因がわからないケースとか、様々ですが、むしろ「生理が来ない」ことこそ他人に知られたくないということはあるでしょう。女性なら、誰もが毎月きちんきちんと生理が来るわけではないですしね。

 

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元になった漫画については、「残念だなぁ」と思っていることがあります。それは、バッジをつけない女性のモデルが、おおむね「バッジをつけずに我慢するのが美徳だと思っている女性」しか登場していなかったこと。

私は、この漫画の中に、ただ単に「バッジつけるのめんどくさ~」という理由でつけず、「バッジはつけないけど、気軽に『今日生理だから~』と言って休む女性」が登場しても良かったのではないかと思いました。バッジをつけたくない女性だって多種多様だろうからです。

 

というか、もし私だったらそうするだろうな、と思ったからなんですけどね。そして、これを考えた時、私は女子校に通っていた時代のことを思い出しました。女子校では、バッジなんてつけなくても、生理は普通のことでした。生理周りの体調不良も、当たり前に理解されました。

小学校の性教育では、「ナプキンはポーチに入れて持ち歩くといいよ」と教わったので、そういうもんだと思っていたのですが、女子校に行くと、ナプキンを隠さなくなる子が続出しました。鞄から何にも包まれていないナプキンを取り出して、そのままトイレに持っていく子が沢山いました。

 

でも、賃金労働の世界に行くと、生理周りのことは、なんとなく隠すものという空気が漂っていました。これは、賃金労働の世界のシステムが、生理がない人を基準に作られてしまっているからなんですね。そうなると、たとえ女性が多い職場であっても、男性社会のシステムで動くわけですから、「生理で休むなんて」「私は我慢した」みたいな空気が漂うことになったりする。生理が思い人と軽い人で分断されるのです。

 

障害学の世界には、「医療モデル」と「社会モデル」という考え方があります。障害を体の内側にあるものと捉えるか、体の外側にあるものと捉えるか、ということです。

障害者の歴史においては、長らく「医療モデル」を中心に考えられてきました。つまり、障害者をなんとか「治療」するなり「訓練」するなりして、社会に適応できるようにしよう、という方法論です。

現代では、「医療モデル」に偏っていた過去が反省されて、マジョリティである健常者が、健常者中心の社会システムを作ってしまったために、障害者が生きづらくなっている。障害は社会のほうにあるという「社会モデル」の考え方が主流になってきています。

 

例えば、痛みや倦怠感があるなどといった問題は、病院に行って痛み止めを打ってもらったり、病気そのものを治療するなどして対処する。これは「医療モデル」ということになります。一方、痛みや倦怠感があることが周囲から理解されず、そのために不自由する。これは「社会モデル」ということになります。

で、この「医療モデル」「社会モデル」を、生理に当てはめて考えてみると、痛みや倦怠感などを緩和するために、婦人科を受診したり薬を処方してもらうなどの「医療モデル」においても、社会システムを生理がない人に合わせて作ってしまったために、生理がある人が不便な思いをしているという「社会モデル」においても、日本は遅れているということになるでしょう。

 

またちょっと違った角度の話になるのですが、LGBT周辺の問題でよく言われることに、「同性愛者にカムアウトを促す前に、異性愛者がカムアウトしやすい世の中を作るほうが先」というのがありますね。本来、こういった問題を解決する責任があるのは、マイノリティじゃなくてマジョリティのほうなんです。

これに照らし合わせて考えれば、女性が生理をオープンにするために、本当に頑張らないといけないのは、どこの誰?ということになってくるでしょう。「女性に」バッジをつけさせて、「女性に」発信させる前に、まずやることが沢山あるような気がするのです。

私は、大丸梅田店の女性店員さんたちが「生理バッジ」をつけるよりも、大丸の男性職員さんたちが、女性の生理についてメッセージを発信したほうが、もっと良いんじゃないかな、と思うのです。

 

あと、生理ちゃんの作者は「女子校の生理ちゃん」を描いてもいいですよ。

 

[2019.12.1 追記]

取り止めになった模様。

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