宇野ゆうかの備忘録

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なぜ「フェミニストはハイヒールを嫌っている」と思われるのか~『王様の仕立て屋』への意見

前編では、フェミニストの主張がすり替えられてしまうカラクリについて書きました。後編では、件の『王様の仕立て屋』の回について、思うところを書いていこうと思います。

※前編はこちら。

yuhka-uno.hatenablog.com

 

togetter.com

 

さて、件の漫画についてですが、「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」と思っているキャラクターが出てきても良いのですが、作中でそれを訂正しておかないと、漫画によって誤った認識を広めることになってしまいかねません。

それは、例えるなら、作中でブラック企業の問題を取り上げておいて、キャラクターに「ブラック企業だと言って批判する人の中には、労働を蛇蝎の如く嫌っている人がいますが」と言わせたなら、その後の話の展開はそれで良いのかということです。

 

スワールトゥの靴を強要される職場などまずないのに対して(せいぜい靴のモデルの仕事ぐらいでしょう)、ハイヒールのそれは、実際に会社からの強要の例がかなりあるので、比較対象として適当ではないように思われます。

また、女性がハイヒールかフラットシューズかの選択肢を与えられていないという問題に対して、ただ「好きな物を履けばいい」と言うのは、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言うようなものです。「(本来なら)好きな物を履けばいい(はずなのに)」という文脈で語られるべきでしょう。

 

普段ならば、紳士服のあれこれについては、丁寧に調べて描く必要があるとわかるのに、こういった問題については、どういうわけか、うっかり調べないで描いてしまったのかもしれませんが、むしろ、こういった問題こそ、自分自身が誤解している可能性を疑って、きちんと調べなくてはならないものです。ただでさえ、マイノリティの実像は、マジョリティによって歪められ、ステレオタイプ化されて広まっていることが多いので、ちゃんと調べて書かないと、「調査不足・考証不足」と見なされてしまうでしょう。

これまで服飾について掘り下げて描いてきたであろうこの漫画において、女性の靴について、「フェミニストはハイヒールを嫌っている」というイメージのまま、十分に調べることなく描写するのは、その漫画が今まで積み上げてきたものを棄損してしまいかねないのでは?と思います。

 

この「調査不足・考証不足」についてですが、私はこの、2014年の映画『ベイマックス』を見た人の感想から派生した話を思い出しました。

“political correctness にコミットメントするのは、いまのものづくりにおいて、時代考証や、SFの超科学に説得力を持たせるのと同じく、推敲、洗練、煮詰め、練り上げ……といった作業のはずなのですが、何故ここまで嫌悪、もっとはっきり言えば「面倒くさがられる」のか。”

 

“PC的なものはSF考証とか歴史考証みたいなものかもしれませんね。
手間だし、やろうとするとシナリオ全体をいじらないといけなくなるけど、うまくできればそれ自体が快楽になるという。” 

 

“まさにそれだと思います。PCが分かってないことが、ただの考証不足、取材不足として扱われるようになるだろうと予感させるような出来でした。”

 

ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン - Togetter

 

上記リンク先の内容をかいつまんで話すと、今まで白人中心の映画会社が作ってきた作品の中で、日本がステレオタイプ的に描かれるのが「普通」だったのが、ベイマックスの中の日本要素は、日本人の目から見ても違和感を感じないものに仕上がっていたこと。

そこから派生して、女性から見て違和感のない女性描写、黒人から見て違和感のない黒人描写、障害者から見て違和感のない障害者描写というのは、日本人から見て違和感のない日本描写や、時代考証がきちんとなされた作品などと同様であり、これからはこのレベルが「普通」になっていくだろう……という内容です。

 

そして、実際その通りになってきています。2018年公開の、主要キャストのほとんどが黒人の『ブラックパンサー(Black Panther)』、主要キャストのほとんどがアジア系の『クレイジー・リッチ!(Crazy Rich Asians)』は、それまでのハリウッド映画にありがちだった人種・民族的ステレオタイプ、「とりあえず黒人出しときゃいいんでしょ」感がほとんどないと、高い評価を受けました。

2015年公開『マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)』においては、ジョージ・ミラー監督は、悪の親玉イモータン・ジョーの子供を産むために捕らわれていた5人の妻を描写するにあたって、人身売買に詳しい人を招いて監修してもらったと言っています。これは実はとても重要なことで、なぜなら、性暴力被害者を描写するにあたって、誤解や偏見に基づいた描写をしてしまう作品が、これまでよくあったからです。

 

“ミラー監督 映画を作る際、きちんとした世界観を構築するためには、できる限り物事を正確に描く必要がある。ウォーボーイズとイモータン・ジョーを描くにあたってはミリタリーの専門家にアドバイザーを依頼し、(俳優たちのための)ワークショップをやってもらった。そこで(ウォーボーイズやイモータンの)想定し得るコミュニケーションの方法を、現代の戦場におけるコミュニケーション方法を反映させた形で作り上げていったんだ。それと同じことを女性キャラクターについても行った。とくに5人の〈ワイヴズ〉の人物造形のためにだ。なぜなら〈ワイヴズ〉たちは、共通するバックグラウンド(というか境遇)があり、そのことで心がひとつに結ばれているーーということを示す必要があったからだ。そこで、特にアフリカにおける女性の人身売買や搾取(訳注:隷属状態、といってもいいです)に詳しいイヴ・エンスラーを招いて、〈ワイヴズ〉を演じた女優たちに「彼女たちがいったいどういう(精神的・肉体的な)状況にいるのか」ということがしっかりと理解できるよう手助けをしてもらった。”

TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

 

では、『王様の仕立て屋』の件のシーンにおいて、どのようにするのが良かったのかというと……これはあくまでも私の考えですが、「フェミニストの中にはハイヒールを蛇蝎の如く嫌っている人がいる」というセリフは、男性である織部に言わせ、女性陣がそれを訂正するという流れにするほうが、リアリティがあったのではないでしょうか。(というより、最初からこんなセリフ出さないほうがスムーズかもしれませんが……)

彼女たちは女性として当事者なわけですから、織部より若い女性キャラたちのほうが、最近のフェミニズムやハイヒール事情についてアンテナ感度が高かったとしても、何もおかしくはないでしょう。

 

そして、ハイヒールの歴史に関しては、織部は知っているけれど、実際にそういう靴を履いて足の具合がどうなるのかということについては、女性陣のほうが、経験者として一日の長があるはずです。例えるなら、医師は病気についての知識は持っているけれど、その病気になるとどのように苦しいのかは、病気になったことのない人にはわからないのと同じです。

いずれにせよ、こういう女性周りの問題まで、何でもかんでも男性である織部のほうが知っていて、年下の女性たちに説明するというのも、些か不自然なのではないかと思います。

 

今日において、映画『ティファニーで朝食を』のユニオシ氏というキャラクターは、「あの時代の日本人キャラクターは、ああいうふうに描かれていた」という、ある種、人種や民俗に対するステレオタイプの例として機能しています。*1ディズニーにおいても、問題があると指摘された歌詞を変更したり、過去作品の実写化をするにあたって、オリエンタリズムを刷新したりしています。*2

こういった部分をよく調べずに描いた作品は、何十年後か、いや、場合によっては数年もしないうちに、とりわけそのシーンだけが、非常に古い印象を抱かせるものになってしまいがちです。一方、丁寧に描くと、普遍的なものになったり、その時代においては画期的だという評価がなされたりすることも多いです。

 

フェミニストは、エマ・ワトソンのようにセクシーな服を着てもいいのか?」、記者によるこの質問に対して、スタイネムはこう答えている。

フェミニストは着たいものを何だって着てもいいのよ。

エマ・ワトソンの『ノーブラ論争』で何を思った? 「フェミニストが着る服は...」 | ハフポスト

 こっちは「パンがなければ…」じゃないほうの「好きなものを着ればいい」。

 

 

王様の仕立て屋 1 ~下町テーラー~ (ヤングジャンプコミックス)

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炎上しない企業情報発信 ジェンダーはビジネスの新教養である

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