宇野ゆうかの備忘録

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『LGBTが気持ち悪い人』の感覚―「理解」と「罪」の認識のズレ


withnews.jp

LGBTに対する差別感覚がある人へのインタビュー記事。内容としては、「差別をする人って、どんなに悪い人かと思ってたら、実は人懐っこい笑顔の、いい人でした」みたいな感じ。まぁ、著者にとっては目新しかったのかもしれないが、LGBTを始め、被差別マイノリティの人たちにとっては、特に目新しいものではないだろう。

なぜなら、差別される側の人にとっては、「普通のいい人」が差別的な発言をする場面に遭遇することは、あるあるな話だからだ。むしろ、特に関心を持っていなかったり、嫌なやつだと思っている人よりも、好感を持っていた相手が差別的な発言をした時のほうが、不意打ちを食らった時のように、ダメージが大きかったりする。それは時に、大好きな親や友人、尊敬する先生や上司、パートナーだったりする時もある。差別されるということは、そういう経験を度々するということだ。

ここで書かれているのは、「凡庸な悪」とでも言うような、特に珍しくもない、よくいる差別的な感覚の人だ。著者は最後に「『Bさんと会って、話して、よかったな』と思ったのは、たしかです。」と締めくくっているが、「はぁ、そうですか。よかったですね」という感じである。

 

しかし、この記事の内容は、著者の意図とは違った点で、「LGBTが気持ち悪い人は、どういう人なのか」ということを、浮き彫りにしていると思う。

読んでいて、まず私が最初に違和感を感じたのは、インタビュイーのBさんが語る、この部分だ。

 「例えばゲイの方について。僕は女性しか好きになったことがないので、男を好きになるというのがどうしても想像できなくて。『だって自分と同じ体をしているんだよ? それで興奮するの?』と」

 「いや、頭ではわかっているんです。『同性を好きになる人がいるんだ』と頭では理解していても、心がついていけないんです。そういう衝動って、本能的なものじゃないですか。だから本能的に拒否してしまうんですよね」

 「いや、そこ、理解しなくても良くね?」と思った。私はBさんと同じく、シスジェンダーかつヘテロセクシャルで、LGBTの問題についてはマジョリティ、つまり差別する側の人間だ。私自身、同性に恋愛感情を抱く感覚は理解できない。私の同性愛者に対する理解というのは、「私が同性に恋愛的な面で惹かれないように、同性愛者の人は、異性に惹かれないのだろう」というものである。

ゲイの人について、同性を好きになる感覚まで理解できなくても、別にいいのに。ゲイの人だって、異性を好きになる感覚までは、理解できないと思うよ。

 

どうにも、差別感情が強いタイプの人は、このBさんのように「理解するところはそこじゃない」というケースや、「セクハラやめろ」と言われて「性欲なくせって言うのか!」と言い出す男性のような「そこまで否定されていない」というケース、あとは、同性愛者の人に「どっちが女役?」と訪ねたりといった、踏み込むべきではないところにまで踏み込んでしまい、相手を適度に放っておくということができないケースが多い気がする。

ここまで考えて、私は、『しんどい母から逃げる!! いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった(田房永子・著)』という、虐待する親に苦しめられている人に向けた本の中にある、この場面が思い浮かんだ。

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多くの場合、LGBTの人たちを始め、差別を受けている人たちの求める「理解」とは、4コマ目までのようなものである。対して、Bさんのような人は、最後の5コマ目のような「理解」を求められていると、勘違いしているのではないだろうか。だから、差別を訴える人たちに対して、「非寛容で被害者意識が強い」「ポリコレ棒で殴られる」というような暴力性を、勝手に感じてしまっているのではないだろうか。

差別感情が強い人の『理解』のポイントがズレてるのは、自分と他人の区別がつかない人の感覚と、とてもよく似ていると思う。相手に、自分と同じ感覚を持つことを要求されていると勘違いするのは、つまり、自分が、自分と同じ感覚を持っていない相手を受け入れられないことの裏返しなのだ。

 

そういえば、「優しくする」ことと「差別をしない」ことを混同している人も、沢山いる。相手と個人的な関係になることと、マイノリティもマジョリティと同等の権利が保証されるべきだと考えることは、別のことだ。

女性に対して性的な興味がないゲイやアセクシャルの人が、女性の権利向上に賛成したり、知り合いに身体障害者がいない人が、車椅子ユーザーも健常者と同じように公共交通機関を利用できるようになるべきだと考えたり、特に韓国文化に興味のない人が、在日コリアンに対する差別に反対したりすることは、何ら矛盾しない。

マジョリティの人が「友達になろう」「みんな仲良く、一緒に楽しく話せるようになるといいね」と、ある種ロマンチックなことを考えているのに対して、マイノリティのほうでは「別にあなたと個人的に仲良くしたいわけじゃなくて、ただ加害をやめてほしいだけ」と、冷めた感覚を持っているのは、よくあることだ。

 

さて、私自身はどうなのかというと、子供の頃は、私も無邪気に同性愛差別をしていた。男同士でいちゃついてるのは「おかしい」し「笑える」ことなんだと思ってた。なぜそう思っていたのかというと、やはりテレビの影響が大きかったと思う。男同士でいちゃつくのは「おかしい」し「笑える」ことだと、テレビがメッセージを発していた。

これこそが、まさに「保毛尾田保毛男」がダメな理由だ。まだ何もわからない子供に、差別意識を植え付けてしまう。だから、もう大人になった私は、メディアで流される「保毛尾田保毛男」的なものに反対する。それが、大人としての責任だと思うからだ。

 

私はかつて、『頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること』というブログ記事を書いたことがあるが、「いい人になりたい」という願望も、それと同じことが言えると思う。つまり、本当にいい人になりたければ、自分が後生大事に持っている「自分のことを、いい人だと思っていたい」という願望を捨てる必要があるのだ。

 「後になって『あの時傷ついた人に気付けなかったあなたは罪人です』と言われると、『うち実家の花畑はキレイだなあ』と思っていたら、いきなり戦闘ヘリが飛んできて機銃掃射で荒らされる、みたいな気持ちになるんですよ」

「差別を指摘されると、『お前は罪人だ』と言われているようで、ムカつく」ということは、つまり、自分は実のところ、「相手の傷つきよりも、自分の『いい人でいたい』という願望のほうが大事だ」ということに他ならない。Bさんは「罪人」になることをとても恐れているようだが、自分のうちに偏見があることそのものより、そういう態度こそが一番罪深いのだと思う。

 

「ポリコレ棒で殴られる」というが、差別されている人は、頻繁に「差別棒」や「偏見棒」で殴られている。「社会的に葬られる」と言うが、LGBTの人たちは、それこそ、周囲にゲイだということが知られると、仕事を失い、家族にも理解されず、実際に社会的に葬られてきた。LGBTの自殺・自殺未遂率は、そうでない人に比べて高いことを示すデータは沢山ある。それに比べれば、この人の言っていることの、なんと甘ったるいことか。

花畑の例えで言うなら、現実に起こっていたことは、「他人の花畑を荒らしていて、ずっとお咎めなしだったのが、ある時から『それはダメだ』と言われた」みたいなものだ。そこ「うち実家の花畑」じゃなかったんですよ、と。

この人が怒りを向ける矛先は、あなたに対して『それはダメだ』と言うLGBTの人たちではなく、子供の頃、「あそこの花畑は好きにしてもいい花畑だ」と、間違ったことを教えた大人たちだろう。

そして、私たちはもう、教えてもらえるのが当たり前の、責任を負わなくて済む子供ではなく、大人なのだ。もうとっくに、次世代に対して責任がある立場になっている。たとえ自分が虐待されて育ったとしても、子供を虐待してはいけないように、偏見を植えつけられて育ったからといって、感覚を更新する努力を放棄して、差別をし続けて良い理由にはならないのだ。

 

本来、子供が他人の花畑を荒らしていたら、大人は「それはダメなんだよ」と教えなければならない。Bさんがすべきことは、「保毛尾田保毛男」で大笑いしていた中学生の頃の自分に、大人になった自分が「それはダメなんだよ」と教えることだ。

どういうふうに言えば、自分の中の中学生は納得してくれるのか。それは本来、LGBTの人に求めることではなく、Bさん自身が自分で考えなければならない。大人になるということは、自分のケアを自分でするということなのだから。幸い、ネットが発達した現代において、LGBTを理解するための情報を集めるのに困ることはない。

 

過ちて改めざる 是を過ちという ―孔子論語)―

 

【追記】

続きを書きました。

『LGBTが気持ち悪い人の本音』はなぜ炎上したのか―加害者側の理屈を発信するということ - 宇野ゆうかの備忘録