宇野ゆうかの備忘録

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『LGBTが気持ち悪い人の本音』はなぜ炎上したのか―加害者側の理屈を発信するということ

withnews.jp

さて、前回記事“『LGBTが気持ち悪い人』の感覚―「理解」と「罪」の認識のズレ”では、LGBTを差別してしまう人の心理にスポットを当てた記事を書いたが、今度は、この記事を書いた記者が、どこをどう間違ってしまったのかについて、スポットを当てて考察してみようと思う。

 

  しかめっ面をした、怖そうな人?
 人の話を聞かず、持論を一方的に話し続ける人?
 斜に構えた、皮肉屋?

 (中略)

 スーツ姿のBさんは、人なつっこい笑顔で現れました。

Bさんは、苦笑します。
 とても正直に、見栄をはらずに話してくれていることが、伝わってきます。

差別意識で、いじめてやろうと思って発言したら、たたかれるのは当然。でも、異性愛が普通だと教わって育ってしまったから、全く悪意のない、うっかり吐いた言葉が『差別だ』と炎上することがある」

上記引用文から察するに、記者もBさんも、差別とは何なのかを理解していないように感じられる。「『差別主義者』というのは、あからさまに敵意や悪意がある人のことで、全く悪意がない人や、人なつっこい笑顔の、普通に他人に対する気遣いができる人は『差別主義者』ではない」という勘違いをしているのではないだろうか。(ついでに言うと、ポリティカル・コレクトネスの意味も、たぶん理解していない。)

 

だが、いじめをする子も、虐待をする親も、万引きを繰り返す人も、わりと普通の人であることは多い。性暴力加害者の治療プログラムに携わってきた専門家が書いた『男が痴漢になる理由(斉藤章佳・著)』の中でも、「性犯罪者のほとんどは、どこにでもいるごく普通の男性である」と書かれている。

私が元記事を読んで思ったことは、「ごく普通の、よくいる加害者と同じだな」ということだった。Bさんの感覚は、犯罪にならないものから犯罪になるものまで、世の中のあらゆる「加害者」の心理と、かなり合致している。これは差別に限らず、およそ「加害者」が、私たちと特に変わらない普通の人だということは、よくあることだ。

 

いじめの加害者も、いじめをしているという認識がないし、虐待する親は、本気で「躾のつもりだった」と言う。パワハラをする人は、その行為がパワハラだと理解していないし、痴漢も、「自分は優しく触っているから痴漢じゃない」などと思っている。そして、彼らが、被害者以外の人にとっては、むしろ「いい人」であることも、珍しいことではない。

加害者の多くは、「むしろ自分のほうが被害者だ」と被害者意識を持ち、何が悪かったかわかっていないので「なんでこんなに責められなければならないんだ」と思う。そして、被害者が受けている苦しみについては考えていないし、考えられない。それよりも、自分が「被害を訴えられたことによる苦しみ」のほうが、加害者にとっては何倍も重要だ。

 

Bさんは、これらの「加害者心理」の特徴に、見事に当てはまっている。自分が責められることが嫌だという、自分の気持ちばかりで、LGBTの人がいかに阻害され、社会的に抹殺されてきたかということについては、ほとんど考えられていない。花畑の例えに見られるように、「何も悪いことしてなかったのに、いきなり責められた」という認識で、被害者意識を持っている。

ただ、これはBさんだけの感覚ではなく、加害者の立場になった時の私たちは、だいたいこういう感覚を抱きがちだということでもあるが。

 

この記事が多くの批判にさらされ、炎上したポイントは、記者が「これは加害者インタビューだ」という認識が欠けていたことにあると思う。加害者にインタビューして、それを記事にして公開することそのものが悪いわけでは決してない。実際、良質な加害者インタビューや、差別する側の理屈に踏み込んだものは沢山ある。

しかし、必ず押さえておくべきポイントとして、「被害者にとって、加害者がしたことを許せないと感じるのは当然のこと」「被害者に対して、加害者を理解するよう求めるのは、二次加害になる」「被害者が加害者に対して怒るのは、当然の権利」といったことがあるだろう。

これらのポイントさえ押さえておけば、同じ「加害者は、モンスターなどではなく、私たちと変わらない普通の人だ」という内容でも、それほど批判を受けることはなく、むしろ社会にとって有益で真摯な記事として見られる可能性も高い。

しかし、これらのポイントを外して、ただ加害者側の理屈をそのまま公に垂れ流すだけの記事を書けば、記事の内容は、加害の正当化や被害者に対する二次加害となってしまうだろう。それは有益な記事ではなく、差別を再生産する有害な記事となってしまう。

 元記事の内容には、それらの視点が決定的に欠けていた。

 

自分が最初に気付かされたのは、この種類の炎上の中で、とある臨床家の人が「加害者の更生は、被害者に見せるものではない」という発言をしている時だった。

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 加害者心理として、責め立てて反省を強いると、逆に頑なになり、反省から遠ざかるというのは、現実としてある。また、(クローズドな場で)自分の正直な心情を吐露することは、更生の段階として必要だったりもする。

しかし、ここで気をつけなければならないのは、「加害者のケアを、被害者に求めてはいけない」ということだ。差別を取り巻く問題で、多くの人が思い違いをしていることが、差別される側に、「差別について抗議する時は、差別する側を追い詰めて刺激しないような、優しい言葉遣いで、わかりやすく話せ」と求めてしまうことだ。「でないと、話を聞いてもらえないよ」などと言って。

しかし、被害者は本来、加害者に怒って当然なのだ。怒って当然なのに、怒ることを抑圧されてきたのが、差別される側である。周囲が被害者の怒りを抑圧するのは、二次加害になる。

周りの人もしていたからと、特に考えなくいじめに参加していた子供に対して、頭ごなしに責めずに話を聞いてやり、「それはダメなんだよ」と教えてあげるのは、周囲の大人の役目であって、その子にいじめられていた子供にそれをやれと言うのは、筋違いなのだ。

 

Bさんが理解すべきなのは、同性を好きになる感覚ではなく、この社会で、LGBTの人々がどういう不利益を被っているかだ。そして、これが「差別であるかどうか」「被害であるかどうか」の基準である。Bさんの側に悪気があるかどうかではない。このことを、元記事を書いた記者も理解しておくべきだった。

やってしまった時点では故意ではなく過失だったとしても、被害者の損失について考えられず、「俺を責めるな!」「お前は非寛容で被害者意識が強い!」「わざとじゃなかったのに責められる俺のほうが被害者だ!」などと言っていたら、それは「たたかれるのは当然」だろう。(不祥事が起きてしまった時に、こういう態度を取って叩かれる会社、いっぱいあるよね…)

 

ちなみに、反差別運動の歴史的に見ると、マジョリティは、大抵、マイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく」言ってるうちは、マイノリティの訴えを聞かず、痺れを切らしたマイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく言い続けても、埒があかない!」と思って、怒りを表明するようになると、マジョリティは「過激派」というレッテルを貼るということが繰り返されている。

「マジョリティが話を聞かないのは、マイノリティの言い方が攻撃的だからであって、冷静に、伝わるように、優しく言えば聞いてもらえるはずだ」と思うのは、マジョリティ側のある種ロマンチックな想像であり、現実は、マジョリティは「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かないという傾向がある。

 

ちなみに、私がこの記事を書こうと思ったのは、元記事を書いた記者氏がこんなTweetをしていたからだ。

 何が「はい。これもあわせて。」なのか。私が書いたことは、本来この人がやるべき仕事だ。

ええと、専門家じゃない「普通の人」向けに書く時でも、間違ったことを書いてしまわないように気をつけるのは、記者として、ライターとして「普通のこと」だと思います。インタビュアーが無知で、インタビュイーも無知なら、間違ったことを間違ったまま発信してしまいますよね。

「新しい視点がない」と言われたのは、元記事の冒頭文からすると、著者は、記事を書いた段階では、新しい視点から書いたつもりだったからなのでは?まぁ、別に「普通の人」にとっても、新しい視点ではないですけどね。

そもそも、差別する自分を正当化するだけの人は、対話のテーブルにつく段階ではありません。加害する自分を正当化するだけの加害者は、被害者と対話なんてできないでしょ。

 

というわけで、次回からこの手のものを書く場合は、記者自身が知識をつけてから書くか、監修をつけてはいかがでしょうか。私は、記者氏には、まだこの手の問題を扱う力量はないと思います。

あるいは、今度は、差別の構造についてよく知っている専門家にインタビューして、自分の記事のどこが問題だったのか、聞いてみてはいかがでしょうか。

 

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