西武・そごうの、女性差別をテーマにした広告から読み取れるもの
西武・そごうの、女性差別をテーマにした広告に、Twitter上で疑問の声が上がっている。
まぁ、広告が表現したかったことはわからないでもない。挑戦だったのだろうとは思う。けれど、パイを投げた人たちの存在が透明化されているところや、女性が怒ってないところが、大手メディアで女性差別をテーマにした表現をする上での、現時点での限界なのかなと思った。
この広告ムービーにおけるパイは、女だからといって強要されること、無視されること、減点されること、女性が受けるセクハラや性暴力といったものの比喩なのだろう。しかし、女性にパイを投げる人たち(まぁ、大半は男性だろう)は、最初から最後まで登場しない。パイは最初から、何もない空間を漂っている。
投げつけられた後も、彼女の顔についたクリームを拭ってケアする他者が現れるわけではない。女性は、自分でクリームを拭い、他人に助けを求めるわけでもなく、投げつけた人に対して怒るわけでもない。結局、一人で耐えて対処して、怒らないというのは、よくある、加害者側にとっての「理想的な被害者像」に近いものだ。
差別は、差別される側ではなく差別する側に問題があるのに、差別される側ばかりに焦点が当てられ、差別される側がどう対処するか、どう生きるか、どう考えるかといったことばかりが語られるわりには、差別する側には焦点が当てられず、どう振舞うか、どう考えるかなどといったことも語られず、透明化されるというのは、差別問題あるあるなので、差別を扱った表現をするならば、当然そこに対して突っ込みは入ってくるだろう。
往々にして、差別する側は、自分を「観客」の位置に置きたがる。差別される側が自分たちで頑張って対処している分には、「差別は良くないよね」「差別を乗り越えて頑張って!」などと言っていても、差別する側に対して怒りや抗議の声を向けてきたり、「いや、これはあんたらの問題だろ」と言われたりすると、不快感をあらわにすることが多い。
つまり、この広告は、西武・そごうの偉い男性や、この広告を見るであろう男性たちを「ご不快」にさせない範囲での女性差別の表現に留まっており、そこが、日本における2019年1月時点での、大手メディアでの女性差別をテーマにした広告の限界を表しているように思えるのだ。
“ 「ジェンダー・バイオレンス」は、総じてこう捉えられてきた。「善き男性が助けるべき女性の問題」。でも、私は正しいと思えない。受け入れられない。「善き男性が助けるべき女性の問題」ではない。何よりもまず問題があるのは、男性の方なのです。”
「私は私!」を言えるようにならなきゃいけないのは、どっちかっつーと、「男サイド」なんじゃないの?
— 佐川・抜け首・なん (@nankuru28) January 2, 2019
忖度して、上がこうだからしょうがない、仕事ってそーゆーもん、育児休暇なんか周囲の目があるから無理、ってのは「私は私!」を言えないから、だと思うわけで。
あと、キャッチコピーの「女であることの生きづらさが報道され、そのたびに、『女の時代』は遠ざかる」というのも、ちょっと意味がよくわからない。
例えば、いじめが蔓延しているにもかかわらず、「いじめ0」などと言っている学校と、いじめが蔓延していることが明るみになってきた学校とでは、どちらが良いだろうか?報道すらされない時代のほうが、女はより生きづらい。むしろ現時点では報道が足りない。もっと報道されるべき。
なんか、最初にこれを作ろうとした人は、女性差別をテーマに挑戦的なものをやりたかったのかもしれないけど、結局、会社のおじさんたちのご機嫌を損ねないようなものしか作れなくなって、よくわからないものができあがってしまったのかな、という感じ。
動画の最後に、安藤サクラと同じようにパイを投げつけられた女性たちが、一人、また一人と集まってきて、女性たちが一斉にパイを投げ返すという終わり方だったら、まだ少しはワクワクできたかもしれないけれど。
2004年、ペプシコーラのCM『We Will Rock You 』。女同士で戦うのをやめ、観客に揺さぶりをかける女性たちと、最後に観客席から落ちる「偉い男」。
Pepsi Commercial HD - We Will Rock You (feat. Britney Spears, Beyonce, Pink & Enrique Iglesias)
[2019.1.4. 追記]
西武・そごうは、2017年版に樹木希林を起用したCMを作っているが、同じ「わたしは、私」でも、こちらはとても好評だった。
【西武・そごう】わたしは、私。樹木希林さんスペシャルムービー
2017年版では、「年相応にとか、いい年をしてとか、つまらない言葉が、あなたを縛ろうとする。」と、年配女性に対する抑圧をテーマにしている。こういった抑圧をしてくる人たちは、その女性と同年代かそれ以下の人たちということになるだろう。そして、男女でそれほど差はないだろう。また、樹木希林のような年配の大物女優だと、会社の偉い男性たちにとっても、敬意を払う対象になるのではないだろうか。
一方で、2019年版でテーマになっている抑圧は、大半が男性から女性へ、年上から年下へ、立場が上の者から下の者への抑圧だ。演じている安藤サクラも、会社の偉い男性たちからすれば、目下の女性ということになるのだろう。
2017年版では、ちゃんと筋の通った良いものができていたのに、2019年版はとっちらかってしまっているのは、要するに、リスペクトの差なのではないだろうか。
抑圧する側に圧倒的に男性が多く、目上から目下になると、丁寧さや敬意が目減りし、捉え方が雑になるという社会の縮図が、この2つのCMの違いに現れていると思う。
日本酒を女性に買わせたければ、男目線じゃないCMを作れ説
二十歳なりたてホヤホヤの学生が飲み放題コースの『冷酒・燗酒』としかかかれてない日本酒のようで日本酒とは呼びがたいアルコール飲料で日本酒デビューするのが日本酒に対する悪評の源流なのでは……とぼくは思うのです。
— ひだもり (@hidanomori) March 17, 2018
上のTweetに、多くの人が「なるほど!」と納得していた。私は日本酒おいしいと思っているのだけれど、それは、私自身が下戸で、外飲みはほとんどせず、従って、飲み放題コースの酒を飲んだことがなく、日本酒デビュー(というよりも、酒デビューそのもの)が正月のお屠蘇だったので、日本酒好きになったのかもしれない。正月になると、だいたい親戚の叔父が、純米大吟醸あたりを買ってきていて、それで最初の酒の味を覚えたのだ。もっとも、下戸なので、舐める程度にしか飲めず、銘柄には全く詳しくならなかったのだが。*1
さて、女性に日本酒を飲んでもらおうという試みはよくあって、その多くは、口当たりがまろやかで、甘口で、アルコール度数が低く、時にはスパークリングさせた日本酒を、「女性向けの日本酒」「女性にも飲みやすい日本酒」と言って提供することのようなのだが、女性といえば甘口を好むものだというのは「本当だろうか?」と思ってしまう。
そういうことよりも、私がそれ以上に、女性の「日本酒不人気」に影響を与えていると思うのは、日本酒のCMの多くが、男性目線で作られていることだと思う。よくあるのは、人気女優が居酒屋の美人女将を演じていたり、こっちを向いて「ねぇ、ちょっと間接キスしてみ?」と言うなど、女性と一緒に飲むシチュエーションだったり。あなたのお世話をするのが幸せだという歌詞が流れているCMは、今時違和感を覚えるほどに感覚が旧かった。全体的にかなりジェンダーが偏っているように思える。
日本酒は、こういった演出のCMによって、なんとなく男性向け&年長者向けのイメージがついてしまっているのではないだろうか。ワインが、ことさらパッケージを女性向けにしていなくても、女性に売れているのは、そういったイメージがないからだと思う。
また、女性は得に、飲みの席で、パワハラから発展したセクハラに遭うことが多い。「日本酒=おっさんによるアルハラ・セクハラ」というマイナスイメージがついてしまっていることによる、日本酒不人気があるのかもしれない。
そういえば、永井荷風は、小説『一月一日』の中で、日本料理で正月を祝う在米日本人たちが集う中で、金田という日本酒・日本料理嫌いの人物を登場させ、その理由を「母を泣かしめた物」と言わせている。金田の父親は茶人で料理にうるさく、いつも母親が出す酒や料理について叱っていたからだという。
お分りになりましたらう。私の日本料理、日本酒嫌ひの理由いはれはさう云ふ次第です。私の過去とは何の関係もない国から来る西洋酒と、母を泣かしめた物とは全く其の形と実質の違つて居る西洋料理、此れでこそ私は初めて食事の愉快を味ふ事が出来るのです。
これは、数年前に言われていた「若者のビール離れ」の構造とも共通していると思う。若者は、上司のおっさんたちとの、アルハラを含んだ酒の席が嫌いなのであって、ビール自体を嫌いなわけではないのだけれど、おっさんのアルハラのせいで、ビールまで良いイメージが持たれていなかった。
だが、最近は若者の間でもクラフトビールは好まれている。そして、クラフトビールは、上司との飲みではなく、友達とビアバーやオクトーバーフェストに行って飲むイメージだ。これは、飲みの席での「とりあえずビール」ではなく、個人の好みで酒を味わいたい若者のスタイルと合致した。ビールにまつわるマイナスイメージが払拭されれば、若者も普通にビールを飲むということだ。
そもそも、他の酒で、わざわざ「女性でも飲みやすい」と言うことはあまりないので、逆に言えば、日本酒がそれだけ「男の世界」になってしまっているということだろう。そこが、味以前に女性から敬遠される原因なのではないだろうか。味だけで言うなら、性別よりも初心者かどうかのほうが、好みに影響を及ぼしそうな気がするけれど。
そして、これはどの業界にも言えることだけれど、もしその業界で性差別やセクハラが蔓延している場合には、作り手側のそういう空気はなんとなく表に出てくるものだし、真に女性にアプローチできるものを作ることは難しいと思う。
さて、若い女性が一人で日本酒を飲むシチュエーションといえば、漫画『ワカコ酒』があった。酒呑みの舌を持って生まれた26歳の女性・村崎ワカコが、一人で酒と肴を味わうという内容で、女性&上戸版の『孤独のグルメ』とも言われている。
『ワカコ酒』の特徴は、ワカコがほとんど無表情で酒を飲み、肴をつつき、旨さの感覚が頂点に達したところで、口から「ぷしゅ~」という擬音を発するのだけれども、その時のワカコの表情までも、ある種様式化された表情で描かれているところだ。
「若い女子の一人酒」というのはつまり、サラダのとりわけとか、会計はいったん男性に払ってもらってあとで割り勘するとか、はたまたそもそも自分で料理を作るべし、といった、やるにせよやらないにせよいろいろメンドくさい食まわりの「役割」からつかの間解放されて、ただただ「味わう」ことに集中できる環境、ってことなのだと思うのだ。色っぽさをわざと発生させない無表情+「ぷしゅー」という擬音、という表現が、それをきちんと成立させている。
おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』 NTT出版Webマガジン -Web nttpub- 第106回 『ワカコ酒』 新久千映(徳間書店)
上の記事では、同じく女性の一人飯を描いた『花のズホラ飯』と、『ワカコ酒』とを対比させる形で書かれているが、『花のズボラ飯』のほうは、旨さの感覚が極まった瞬間の表情が、性的快感を連想させるような画で描かれているのに対し、『ワカコ酒』のほうは、色気とは無縁で、 男目線が入っていないことに良さがある、ということである。
この漫画はドラマ版とアニメ版が製作されたが、ドラマ版は、原作の良いところをいまいち掴みきれていないのではないかと思う。
ドラマ版のほうは、若い女性が酒の席で求められがちなもろもろのことから離れ、男目線を意識せず、ただ目の前の料理を楽しむという、この漫画を多くの人が支持した要素が、いまいち感じられない。ワカコ役の女優さんの表情も、どこか色気を意識しているというか、「お酒を飲む女の人っていいよねー」という男目線から作られているように見えるのだ。
これがもし、『女が一人で呑む時はね、誰にも邪魔されず 自由で なんというか救われてなきゃあダメなんだ 独りで静かで豊かで……』という描き方だったら、もっと女性からの共感を得られたかもしれないのに……
ちなみに、アニメ版は原作に沿った内容で、良い。声優さんの演技も、一人でおいしいものを味わっている感じがする。
ワカコ酒 原作サイト
www.zenyon.jp
ワカコ酒 アニメ版
アニメ「ワカコ酒」もうすぐ放送だプシュー(ワカコ役:沢城みゆき NAver.)
ワカコ酒 ドラマ版
ワカコ酒 Season3 第12夜「特別な旨さ、和牛たたき」 | BSジャパン
日本酒は、女性に売りたいのなら、女性を「飲みの席でのお酌役」から解放し、女性の一人暮らしや、共働きで家事折半の夫婦関係を前提としたCMを作ったほうがいいのではないだろうか。そして、もうひとつ付け加えるならば、若い女性を見つけるとウンチクを垂れたくなるマウンティングおじさんに、お引き取りいただくことだろう。
中高6年間、自分で弁当を作って持って行っていた私が思う、「給食か弁当か」問題
タイトルの通りである。私の両親は共働きだったので、中学高校と6年間、自分で弁当を作って学校へ通っていた。なので、こういう「給食か弁当か」問題については、色々言いたいことがある。
結論から先に言うと、「『弁当か給食か』の議論は、私のような子供の存在を基準にして考えろ」だ。そして、そこから導き出される結論は1つ。「給食が最善。論点は予算の問題だけにしろ。余計な精神論を混ぜるな」だ。
「お弁当を作りたいお母さんの気持ち」?それよりも「弁当を毎日作らざるを得ない子供の気持ち」を考えろ!
そもそも、公教育は、家庭の事情がバラバラな子供たちに、ある程度均一な教育を与えるためのものであり、その点に立ち返るなら、家庭の事情がバラバラな子供たちの食事事情を補うためにも、給食が望ましいのは当然の話である。
成長に必要なものを与えられる環境で育つのは、子供の権利であり、子供がその権利を享受できるようにするのは、大人の義務だ。この義務は、親の個人個人が、各々の子供に対して持つものばかりではなく、この社会の大人たちが、子供全員に対して、共同で持つものである。
だから、うちの子はいいが他所の子は知らんというのは、社会における大人の責任を果たしているとは言い難い。うちの子も他所の子も権利を享受できるよう、制度を整えるのが大人の役割であり、行政というものだ。だから、「給食を望む親は、手抜きがしたいだけ」などと言うのは、全くの的外れなのだ。
さて、肝心の子供は、給食と弁当について、どう思っているのだろうか。
小学生時代、クラスで「給食か弁当か」という討論会をやったことがあった。多くの子供は「弁当」側につき、私を含めた少数が「給食」を主張した。なぜ多くの子供が「弁当がいい」と言ったのかというと、「給食当番をしなくて済むから」だった。
一方、給食派の子供の主張は「毎日弁当だと、飽きる」が主な理由だった。実は、給食派の子供のほとんどが、私と同じ両親共働きの子だった。つまり、夏休みなどの長期休暇で、毎日弁当が続く日々を実際に体験したことがある子たちだったのである。弁当は、遠足や運動会などの1日だけなら、イベント的で楽しいが、毎日だとバリエーションが少なくて飽きるということを、身を持って知っている子たちだった。
要するに、子供たちにとっての「給食か弁当か」は、「楽をしたい」と「飽きる」の攻防であって、そこでは、「お母さんの愛情」は話題にならなかったのである。
私自身は、親が弁当を作ってくれたら、それはそれで嬉しかったけれど、それは単に「自分で作るのめんどくさいから」という理由であって、給食があれば解決する問題だった。子供でも、親が仕事で忙しいのはわかっていたし、そんな親の手を煩わせず、私もめんどくさい思いをせずに済む方法があるなら、それが一番良かった。
今から思っても、特に「親に」弁当を作って欲しかったとは思っていない。私が本当に親にして欲しかったのは、弟と接し方で差をつけないで欲しかった、自分の不安感から私の進路に介入しないで欲しかった、私の興味があることを抑圧しないで欲しかった、子供に謝るのは父親としての威厳を傷つける行為ではない、双方の愚痴を私にぶつけてくるなとか、そういうことだ。要するに、もっと私の気持ちを尊重して欲しかったのだ。
給食を食べさせたり、弁当に冷凍食品を使ったりすることを、「手抜き」と言う向きがあるが、子育てのうち、最も手を抜いてはいけないのは、「子供の気持ちを聞くこと」だろう。これは、場合によっては、弁当を作る以上にめんどくさいことであり、そして、親側に余裕がないとなかなかできないことだ。
その余裕を作っておくために、家事の「作業」に当たる部分で、手を抜けるところは抜き、効率化するのは、とても理にかなったことだと、私は思う。「手抜き」でない弁当を作ることに必死になって疲れ果て、子供の気持ちを聞く余裕がなくなってしまっては、元も子もないのだから。
だいたい、この「お母さんの愛情弁当」的な議論において、肝心の「子供の気持ち」というものは、どうなっているのだろう。
弁当を取り巻く「彩りを良くしないと…」「冷凍食品は手抜きだと思われるんじゃ…」「キャラ弁作らなきゃダメなの…?」という、親御さんたちの気持ちは、なんだか、目の前の子供に向けて作っているというよりは、社会とか世間様とかのほうを向いて、「そうしないと、ダメな親だと思われるんじゃないか」と、顔色を伺っているような気がする。
でも、「子供の気持ちよりも世間体のほうが大事」というのは、毒親の特徴でもある。そして、これほどまでに母親に対して「良い母親たれ」という圧力をかける日本社会は、毒親を生み出しやすい土壌でもある。
—— たしかに、『母がしんどい』では、主人公のエイコさんのお母さんが、「自分はいい母だし、いい母娘関係にある」、と主張しつづけますよね。まさに、社会が提示する「お母さん像」に、エイコさんのお母さんが押しつぶされていた、ということなんですね。
田房 そうなんですよ。「毒母」と呼ばれるお母さんたちは、理想の「お母さん像」を押し付けられる窮屈さから生まれてしまうんです。
『母がしんどい』に共感してくれた人たちに話に聞くと、「毒母」たちに共通していたことは、やっぱり「世間体」をものすごく重視していた、ということでした。
弁当って自分や子どものためと思ってきたけど
弁当箱の蓋は社会に向かって開かれていたんだなあ。
しみじみ。
私は、「お母さんの愛情あふれる手作り弁当」的なものは、精神論根性論の類だと思っている。精神論とは、考えるのを怠けることだ。自分が今抱えている不安や問題を解決する方法がよくわからない時に、問題に向き合って分析するのではなく、とにかく練習量や作業量を増やして、死ぬほど頑張れば報われると信じたくなる、それが精神論に陥る時の心理だと思う。
ここで言う不安とは、「自分の子供はちゃんと育つのか?」という不安だろう。皆、子育てに不安を抱えているんだと思う。そして、不安な時、人はマニュアルに頼りたくなる。私は、「お母さんの愛情あふれる手作り弁当」信仰を見ていると、恋愛マニュアル本を読んで女性に接する男を思い浮かべてしまう。「女はこうすれば落ちる」「こういう女はいける」とかの。でも、本質はそういうことじゃないよね。恋愛でも子育てでも、人と接する上で肝心なのは、「相手の気持ちを聞く」だと思う。
そもそも、弁当とは、単なる昼食である。一日三食のうちの一食に過ぎない。持ち運び用に作られた昼食、これが弁当だ。家で食べる昼食なら、「今日は素麺ね」みたいなこともあるだろう。*1
だから、一日のうちの一食を、そんなに特別視して信仰することもない。一食が他人の手で作られた食事だったとして、別に家庭で食事を作らなくなるわけでもあるまいし。というか、食事を作らない家庭の子供の場合は、むしろ給食が必要だ。そして、そういう家庭の親は、食事を作れと言って作るものではない。
中学時代の私は給食しか食べられない日なんていう、恐らく分からない人には一生分からないだろうなっていう状況がよくあったから早急に給食をお願いします親の愛情とかそんな話は置いといてどこかにある誰かが明日から生きていくために給食お願いしますとしか言いようがない。
— momo (@momodesunode) December 17, 2018
ちなみに、うちの親は全く弁当を作らなかったわけではなく、遠足や運動会といったイベントの時は、早くから起きて、私の好物を入れた弁当を作ってくれた。そういう時の弁当は特別感があって、嬉しかった。
休みの日には、家族で弁当を作って、公園に出かけて行くこともあった。「食育」ということを考えるのなら、余裕のある休みの日に、親子で一緒に弁当作りをするほうが、食育になるのではないだろうか。
また、私の父は普通に家族のために料理を作る人だったので、私はおやじの味とおふくろの味で育った。
思うに、こういった弁当問題は、「母親が作るもの」と見なされているから、手抜きがどうのこうのと言われるのではないか。もし父親の育児参加が当たり前になったら、すぐ「給食のほうがいい」ということになるだろう。なぜなら、男性たちは、女性にさせるケア労働には、無駄に手間をかけることを要求するけれど、いざそれが自分の仕事になった途端、問題解決能力の高い男性らしく、効率的かつ合理的な方法を選択するであろうから(笑)。
すっぴん通学で自分の用意だけしていればいい高校生の私ですら、毎日の弁当作りはクソめんどくさかったのである。世のお母さんたちは、この上、朝御飯作って化粧して子供たちの用意もして、それで弁当作りでしょ?やってられるか!
小林カツ代のおべんとう決まった! (講談社のお料理BOOK)
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*1:この考え方は、料理研究家・小林カツ代氏の弁当作りに対する考えとも共通している。 小林カツ代さんの料理哲学 - Togetter
白髪とロックTシャツと常識――自分を愛するため
前回記事『白髪を染めないのはマナー違反なのか?――髪色とドレスコード』では、「白髪を染めないのは失礼」という「常識」について考えてみた。今回はその続きで、「女の子はかわいくてきれいがいい」という「常識」について考えてみようと思う。
白髪育ての間は、自分の心も育てているような感じでした。なぜこの年齢になって、青少年みたいに心を強くすることをしなきゃいけないの、と思ったこともあります。
幼い頃から内面化されてきた「女の子はかわいくてきれいがいい」という、自分の「常識」がここで試されるんです。白髪を染めずにいるのは「常識」に反するわけですから。おとなしく染め続けているのが、精神的には一番楽です。
これは、私が20代前半の時点で捨てた「常識」だ。
私は落ち着いた大人顔だったので、実年齢より上に見られることが多く、同年代の若い女の子向けの格好が、ことごとく似合わなかった。というわけで、早々に「私は年上に見られたっていいし、かわいくなくていい」という考えにシフトした。そして、大人っぽい自分に似合うものを探すために、自分が魅力的だと思う年上の女性たちを観察することにした。
そんな私なので、上の文章を読んだ時、こう思ってしまった。「逆に、なぜ『この年齢』とやらになってまで、『女の子はかわいくてきれいがいい』という常識に従わなくてはならないの?」
以前、「40代が似合わないTシャツはコレ!」と題して、レースつきや深いVネックやビッグTはダメだの、ロックTシャツは精神的に大人になり切れてなくて常識がないだのと書いて炎上した記事があったけれど、*1どこかのグループに属してないといじめられるだの、トイレに一緒に行かないとダメだのの同調圧力に悩まされる「女の子」の時期を過ぎて、とっくに「大人の女性」になった40代なら、「私は私、あなたはあなた」という振る舞いを身につけてもいい頃だと思った。他人に同調圧力をかけて、自分と違う趣味の人にケチをつけている人は、精神的に大人になりきれていると言えるのだろうか。
「痛いおばさん」は、社会的な立場であり、周囲からの評価です。痛いと思われることを知りながら、そのような服装や美学を貫く人の内面は自立していると私は思います。趣味嗜好が子ども好みであるとか、かわいいものばかりだとか、そういうことは関係がありません。「なんとなく仕事ができそうに見えるから」とスーツを着て、ショートカットにする人の内面は、幼稚です。自分の常識を誰かに預けて生きる人は、自立していないのです。
まぁ、実年齢より上に見られたからって、それがどうだという話だし、ぶっちゃけ、おしゃれなんて、自分を売り込むタイプの仕事に就いているのでもない限り、別にしなくてもいいものだけれど、 ただ、そうは言っても、かわいくてきれいに見られたいし、若く見られたいという願望はあるものだと思う(そうじゃない人は、最初から悩まないよねw)。なので、ここからは、私が年上女性を観察してきて思ったことを書いてみようと思う。
私が年上の女性たちを観察していて思ったことは、シミやシワなどよりも、「若作り」と「流行遅れ」のほうが、ずっと老けて見えるということだった。
若者からすれば、40代50代の女性にシミやシワがあるのは、当たり前のことで、特に気にはならない。一方、トレンドの感覚がある若者だからこそ、母親のメイクが若い頃のままなのがよくわかった。
老けて見られたくないなら、シミやシワや白髪よりも、眉毛の書き方や口紅の色が、若い時のまま止まっていないかどうかを気にしたほうが良いというのが、私が得た見解だ。
私は以前、『自分が若いときのままで時が止まっているのは、「若い」とは言わない』というブログエントリを書いたことがある。ここでは価値観の古さという話だったが、ファッションにも同じことが言えるのだと思う。私はブログエントリの中で、「『若い』っていうのは今を生きることだ。」と書いたが、結局、外見における若々しさもそうなのだろう。シミやシワや白髪がある自分の「今」と、時代のトレンドという「今」を生きている状態が、年上の女性たちを観察してきた私が思う「若々しさ」だ。
私は、多くの場合、女性は男性目線から解放されたほうが、魅力的になれると思っている。なぜなら、男性目線の価値基準は、要するに「男にとっての都合のいい女」なので、「親にとっての都合のいい子」と同じく、その人本来の魅力が殺され、自己肯定感を失わせる方向に行ってしまいがちだから。
それに、男性だって一人一人好みが違うのに、それを最大公約数的にまとめてしまうと、すごく狭いわりには、すごくふわっとした女性像になってしまって、無理やり自分をそれに当てはめようとすると、特に悪くはないけれど、取り立てて良くもない、よくいる普通の人になってしまうから。
結局のところ、外見的造形についても、自分の評価軸を他人に預けてしまっている状態よりも、評価軸を自分自身に設定して、セルフコンフィデンスがある状態になったほうが、その人の魅力が出ると思う。他人とか世間とかの枠に収まってると、ある一定以上には伸びないんですね。
だから、とにかく男にモテたいしちやほやされたいというタイプの女性ならともかく、よく考えたら、自分のことを理解してくれるパートナーが一人いればいいし、何ならいなくてもそれなりに過ごせるし、好みじゃない男が寄ってきても特にありがたくもないという人にとっては、「女の子はかわいくてきれいがいい」という価値観は、実は手放してもいいものだと思う。
個人が「私はかわいくてきれいな格好がしたい」と思ってするのは、その人の自由だけれど、「女の子はかわいくてきれいがいい」というのが「常識」だから、しないといけない気がしているのなら、その「常識」自体を疑ったほうがいいと思う。それは、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で百合ちゃんが言ってたみたいな、呪いの可能性が高い。
だいたい、男(おっさん)のほとんどはおしゃれに興味がないので、そういう漠然とした男性目線に合わせても、おしゃれになれたりしねぇんだわ。元記事に「おしゃれなマダムはグレイヘアが多い」という話が出てくるけれど、そういうことだと思う。
この本を作るうち、あることに気づいたんです。おしゃれな女性はグレイヘアが多い、と。「老けてみられると恐れるよりは、自分らしくありたい」という価値観から、彼女たちはグレイヘアを自ら選んでいました。
自分のやりたいことが「男からのちやほや」な人は、そっちを目指せばいいし、「おしゃれ」な人は、そっちを目指せばいいし、常識的な格好に「擬態」しておきたい人は、そうすればいいし、どっちにも興味がない人は、どっちもやらなくていいんじゃないかな。
ただ、外見的なかわいらしさを手放しても、別の形でのかわいらしさは残ると思っている。それは、男性目線で見た「若くてかわいい子」ではなくて、人としてのかわいらしさ。「キュート」ではなく「チャーミング」ということだ。
それがどういうふうに身につくのか、はっきりとはしないけれど、そのひとつの要素としては、素直でいることだと思う。素直でいることで、その人の持っている、内面的な、人としての素のかわいらしさが出てくるものだと思う。
それに、「あれもダメ、これもダメ、ロックTシャツは痛い」って方向に行くより、ロックTシャツ着たかったら、どうすればおしゃれに格好よく着こなせるかを考えたほうが、おしゃれも上達するし、そっちのほうが若々しいし、チャーミングだ。
「ロックTシャツは痛い」って記事見るより、こういうの見たほうが楽しいよね!
ところで、前回記事のブックマークコメントに、こんな書き込みがあった。
id:kaminoke-no-ohanasi 学校生活で言えば、若白髪で悩む子が「校則で白髪染めをさせてもらえない」と嘆いていた。
元記事で「グレイヘアリスト」になった朝倉真弓氏も、11歳の頃から白髪が生えていたことでいじめられて、学校側に髪を染めたいと言ったが、認められなかったという。*2一方で、生まれつき茶髪の生徒に黒染めをさせようとする学校がある。
どうなんだろう。もし若白髪で悩む生徒が、白髪ではなく茶髪だったら、学校に言えば染めさせてもらえたのだろうか。それはわからない。でも、「若白髪でいじめられるから黒に染めたい」と「生まれつきの茶髪を黒に染めたい」だったら、後者のほうが許可が下りやすい感じがするのは、気のせいだろうか。もし気のせいでないとしたら、日本の学校という場所のグロテスクさを感じる。
白髪を染めないのはマナー違反なのか?――髪色とドレスコード
ある女性が、白髪染めをやめてグレイヘア・スタイルにしたことついて取り上げた記事を読んで、まだ白髪の生えていない私も、色々と思うことがあった。
記事の中では、大きく分けて2つの「常識」が出てくる。ひとつ目は「白髪を染めないのは失礼」という「常識」。もうひとつは「女の子はかわいくてきれいがいい」という「常識」だ。この記事では、とりあえず「白髪を染めないのは失礼」という「常識」について考えてみようと思う。
白髪育てを始めてから、いろんな反応がありました。染めるのをやめてからほどなく、「マナー違反だ」と知人から言われました。「なんで染めないの? 相手に失礼じゃないか」って。「なんで染めないの?(若いのに)もったいない」とも。これは、特に男性から言われましたね。
面と向かって言われて、世間の「常識」ってこうなのか、と改めて知りました。
年長者世代の女性たちの間には、「白髪は染めるもの」という同調圧力があるということを知ったのは、40代以上の女性たちのためのウェブサイトに寄稿させて頂いていた時だった。若者っぽくない若者としてブログを書いていた私に、お声がかかったのだ。
その中に、白髪のマッシュルームカットに、黒縁メガネ、赤い口紅というスタイルを確立している、とてもおしゃれな女性がいた。私はその女性にインタビューした記事や、彼女のブログを読んで、「テレビや女性誌は、若い女性たちに『女の子は、若くかわいくね!』というメッセージを放ってくるが、年配女性たちには『白髪を染めて、若くきれいになろう!』というメッセージを放ってくるのだろうか」と思った。*1
ちなみに、その女性は、後にInstagramで夫婦のペアコーデが注目され、本が出されることになった。
当時は、「そうなのかー。若い頃は若い頃で、年齢を経たら年齢を経たで、また違った同調圧力があるものなんだなー」程度に思ったものだったが、冒頭のリンク先の記事を見るに、白髪を取り巻く空気は、その程度のものではないのかもしれない。なんと、白髪を染めないのは「マナー違反だ」とまで言われるものらしい。
一応、服装のマナーについては、人並みに調べたことはあるものの、そんなマナーは聞いたことがなかった。お葬式には、あからさまな革や毛皮は「殺生」を連想させるからNGだとか、二連のネックレスは「悲しみが繰り返す」という意味に通じるから望ましくないということは知っていても、白髪がマナー違反とは。じゃあ、白髪の爺さん婆さんはマナー違反なのか?いつから白髪を染めるべき年齢と染めなくてもいい年齢に分かれるのだ?
この記事を読んだ時、思い浮かんだのは、生まれつきの茶髪を黒く染めるよう、学校から強要されて、裁判を起こすことになった高校生の話だった。なぜ、自分の自然な髪色でいることが、マナー違反になるのだろうか。白髪を染めないのが「マナー違反」と言うのは、これと同じことだと思う。
元記事の女性は、グレイヘアを実践する前は茶色に染めているが、一昔前までは、白髪を染めずにいることよりも、茶髪にすることのほうが、ずっと「異端」であり「マナー違反」と見なされていたように思う。今や茶髪はすっかり市民権を得て、若者だけでなく、年長者女性たちにとっても普通になったが、髪を染めるのが普通になれば、今度は、「白髪なのに染めない」というのが、マナー違反になってしまったのだろうか。
一体、いつ頃から「白髪はマナー違反」になったのか……そう思って、「白髪染め 歴史」で検索してみたところ、日本においては、だいたいこのような経緯で、白髪染めが定着していったということのようだ。
- 日本における最古の白髪染めの記録は、平安時代末期の武将・斎藤実盛が、戦に出陣する際に染めたというもの。
- 江戸時代はお歯黒の成分で染めており、染めるのに10時間を要した。
- 明治38年、日本で最初の酸化染料「志ら毛染君が代」発売。染める時間が2時間に。
- 大正10年、水野甘苦堂(現 ホーユー)から「元録」発売。染める時間が30分に。
- 昭和32年、日本独自の粉末一剤タイプ「パオン」「ビゲン」発売。昭和35年、業務用「パオンデラックスヘアーダイ」発売。昭和42年、シャンプー式ファッションヘアカラー「フェミニン」発売。
というわけで、長い歴史の中で、白髪染めの技術はあったものの、庶民レベルにまで普及したのは、昭和40年頃ということらしい。ということは、少なくともこの頃までは、白髪をそのまま染めずにいることは、普通のことであったと考えて良いだろう。*2
私は服飾専門家でもマナー専門家でもないが、はっきり言い切ってしまえば、冠婚葬祭のドレスコードに、髪の色は含まれない。髪の色は、あくまでも、その人が属している企業や学校などの組織との間の取り決めだ。推奨される髪色がある組織もあれば、自由な組織もある。
その好例が、天皇陛下主催の園遊会に出席した時のX JAPANのYOSHIKIだ。彼は、髪型は茶髪に若干の長髪といういつものスタイルに、昼間の礼装であるモーニングコートを着ていた。どんな髪色でも、モーニングを着ていれば、立派な正装である。
髪の色がマナーに含まれると考えてしまうのは、学校生活の中で、長らく髪色について指導を受けた名残だろう。だが、それはあくまでも、その学校のローカルルールであって、学校から一歩外に出てしまえば関係ない。校則と一般社会におけるドレスコードは別物だ。学校は、葬式や結婚式に相応しい服装を教えているわけではないのだから。
たぶん、こんな同調圧力が生まれてしまうのは、実は多くの人が、染めたくて染めているわけではないからだと思う。自分が好きでやってる人は、他人に「良かったら、してみない?」くらいのことは言っても、押し付けたりはしない。でも、したくもないのにしている人は、他人に対して「私だって我慢してやってるのに、どうしてあなたは我慢しないの?」と、押し付ける傾向があると思う。
でも、世の中にはお堅い企業や官庁に勤めている人ばかりではなく、色んな職業や生活スタイルの人がいるのだから、「ドレスコードが関係してくるのは、服や靴や鞄やアクセサリーであって、髪色は関係ない」というのが、世の中の「常識」になっても良いだろう。
[2018.12.15 追記]
続きを書きました。
お笑いと人権意識とブスいじり―それは誰にとって面白いのか
せやろがいおじさんが、過去の発言に「女性蔑視」と指摘がきて、よく考えてみた末に、自分が無自覚に女性差別をしていたと気づいたエピソードが載っている。このことについて、インタビュアーがこういう問いかけをしている。
ーーまた、お笑い芸人と社会派のネタ、なんなら多様性を大事にする主張は少し相性が悪いと感じます。人を傷つけない笑いもあるけれど、どうしても幅が狭くなってきてしまう。過去の発言や、"リップサービス"のネタの内容などで、せやろがいおじさんファンからの指摘が入ることなどはないですか?
よくある、「ポリコレを守ると、表現の幅が狭くなる」という言説だ。しかし、私はむしろ逆だと思っている。それについては、前回記事『ポリティカル・コレクトネスは表現の幅を狭めるか』で書いた。
さて、私は『笑点』が好きでよく見ているのだけれど、過去、ゲストに仲間由紀恵が登場して大喜利をやった時、ネタがことごとく仲間由紀恵へのセクハラになってしまったことがあった。
当時、私はTwitterでこう呟いた。
こういう、仲間由紀恵みたいな女性ゲストが出てきた時に、セクハラになるネタって、安易だと思うんだよね。今回も、そっち方面に行かないネタのほうが、ずっと面白かったよ。 #笑点
— 宇野ゆうか (@YuhkaUno) May 15, 2016
もちろん、セクハラそのものが不快だったというのもあるが、「女性ゲストといえばこういうネタ」とばかりに、素人でも思いつくようなネタばかりが連発されてしまい、そのほとんどが、単純につまらなかったのだ。
ただ、これ以降、女性ゲストが来たときに、さすがにこの時のようなセクハラばかりに走るネタは、あまり見なくなったけれども。
「ポリコレで表現の幅が狭くなる」と言う時、「それは一体、誰にとって面白かったのか?」という問いが鍵になってくると思う。とりわけ、日本のお笑い業界によくある、女性に対するセクハラネタは、実は、人口の半分以下の人にしかウケないネタだったのではないだろうか。見ている人の半分にしかウケない、どころか、気分を悪くするかもしれない「笑い」って、どうよ?という問題である。
いち女性の感覚としては、まぁ、そういうネタで一応笑うこともあるけれど、その時は、「上司のつまらない冗談に、笑ってあげている」という気分になることが多い。
これは、女性よりもっと人口が少ないマイノリティの場合もそうだろう。マイノリティのマイノリティ性というのは、マジョリティ側にいる人間からすると珍しいので、ついついその部分に注目してイジりたくなるけれど、相手は「ああ、またかよ」「それ今まで何回も言われたわー」と思っている可能性がある。とすると、これはあまり芸のないネタだ。
また、芸人ならば、自分をイジられることに同意があるし、イジられることで賃金を得ているけれど、素人は自分がイジられることを了承していない上に、金がもらえるわけでもないので、何一つメリットがない。
歴史的な話をすると、アメリカでは、かつて「ミンストレル・ショー」という演芸があった。白人支配的な社会背景の中で、顔を黒く塗った白人が「白人にとって面白い黒人像」を頻繁に演じていた過去がある。そういった経緯もあって、現代では黒塗りで黒人を演じるのはタブーになっている。
今のお笑いの世界では、特定のお笑い芸人が「権威」と化してしまい、周囲がその人に気を遣い、何が面白いか面白くないかを、客よりもその人が決めてしまっているような空気になっている面があると思うが(元記事で「干される」と言われている人とかw)、差別のある社会というのも、これと似た構造で、差別に対して無批判なままだと、何が面白いか面白くないのかを、発言力の強い層が決めてしまうような状況になってしまう。
私は、「お笑い」というジャンルは、実は最も人権感覚の変化を意識しておく必要がある職種なのではないかと思う。なぜなら、何年か前には笑えていたことが、今は笑えなくなっているということが起こるからだ。ここ10年で、同性愛者を茶化して笑うことは、通用しなくなった。私は、次の10年では、他人に「ブス」「デブ」と言って笑うことは、通用しなくなっていくだろうと思っている。*1
もっとも、どこの業界でも、何十年も前の常識が通用しなくなっていたり、感覚を更新していないと、その世界ではやっていけなくなってしまうというのは、よくあることだから、結局お笑いの世界もそうだということなのだろうけど。例えば、建築の世界では、何十年も前の建築基準では建てられないとかね。
そして、人権を意識しながら、鋭い笑いや尖った表現はできるのではないかと思う。というか、そもそも、尖ったデザインの建物と、建築基準を満たしていない雑な設計の建物が、全く違うのと同じで、尖った表現と、人権感覚が更新されていなくて古いものは、全くの別物だ。
後者のようなものを「タブー破り」で「尖った表現」だと勘違いしている自称アーティストとか、よく見かけるけれど、尖っていると思っているのは本人だけで、「古いわー。そういうの沢山あるわー。歴史的に見ても何十年も前からずっとあるわー」と、お寒い気分にさせられることは、よくある。
そもそも、「お笑い芸人と社会派のネタは相性が悪い」ということ自体が、ちょっと違うんじゃないかと思う。古代ギリシャの時代から、政治問題や社会風刺を扱った喜劇は盛んだったし、欧米のスタンダップコメディも、政治の話は欠かせない。それこそ、冒頭で挙げた『笑点』では、昔から政治風刺の回答がある。
また、『防弾少年団(BTS)の政治性~政治と音楽は関係あるか』でも書いたが、「政治と音楽は関係ないじゃん!」というのは日本の感覚で、海外では政治的・社会的メッセージを音楽で表現するのは、普通のことだ。
結局、「お笑い」とか「音楽」とかではなく、「現代日本では、政治の話がやりにくい」ということなのではないかと思う。
さて、せやろがいおじさんが「女性蔑視」と指摘を受けたネタについて、考えてみよう。
内容は「SNSで画像加工した女性を見た後に実物見たら『ブス来たー』ってなりますよね」という発言で。お笑い界では割とよくある文脈です。
指摘に対して、一瞬「そんなつもりないから」「女性蔑視の気持ちないから」という反論をしかけたんですが、よく考えたら傷つく人もいるから、「不快にさせてすいません」と投稿したら、「お前なんも分かってないな」「そういうことじゃない」と反論がきまして。
そこで再度、自分の中で問題を因数分解して、「別に画像加工するのは女性だけじゃなくて男性もいるよな」「なんで女性に限定したんだろう」と思って。そこで、自分が無自覚に女性差別をしていたんだと気づいて。
自分が指摘されて、初めて差別する側は息を吐くように差別するんだなと気づきまして。
たぶん、せやろがいおじさんは、「なんで女性に限定したんだろう」というところが、この問題の鍵ということに気づいたのだろう。「なんで」かというと、「女性のほうが、男性より容姿についてあれこれ言われるから」だ。
例えば、もしせやろがいおじさんが女性だったとして(ここで言う『女性だったとして』とは、『若くてかわいい女子だったとして』という意味ではなく、今の自分の容姿年齢学歴収入コミュ力、その他全てのスペックそのままで女になるという意味だ)、特に容姿に関係ないネタをYoutubeで投稿したとしても、わざわざ容姿に言及する男がコメント欄に出現していたと思う。
つまり、せやろがいおじさんが、容姿ではなくちゃんとネタのほうに注目してもらえるのは、せやろがいおじさんが男性だからなのだ。
このような社会背景があるのだから、SNSで画像加工する人が、男性より女性のほうが多かったとしても、何らおかしくはない。「美人だと言われてちやほやされたい」という、評価をプラスにする目的よりは、「ブスだという口をあらかじめ塞いでおきたい」という、マイナスをゼロにする目的で画像加工する女性だって、沢山いるだろう。いじめられないための自衛策である。
だから、ネタにされるべきは「SNSで画像加工する女性」よりも、「女と見ればすぐ美人だのブスだの言ってしまう男性」のほうだろう。
そして、「女と見ればすぐ美人だのブスだの」という社会背景は、「女芸人といえばブスとデブ」という風潮を作り出してきた。*2芸能界では特にこの傾向が強く、一般社会ではよくいる普通な感じの女性でも、芸能界ではブス枠に入れられてしまう。相席スタートの山崎ケイが、男性の先輩芸人からブスだと言われたのも、この「芸能界の女性のブス基準偏りすぎ問題」によるものだろう。*3
そして、何が面白いかの基準が男性寄りになっているということは、人口のもう半分、つまり女性に向けて笑いが取れる人の才能を潰してきた可能性がある。
女性が容姿に言及されがち問題について、よくある大きな誤解が、「ブスと言うのはダメで、美人だと褒めるのならいい」と思ってるやつだ。女性の場合、容姿に関係ない分野でも「美人かブスか」という評価軸を持ち込まれ、その女性自身の経験やキャリアが無視されてしまうことがよくあるのが、問題の本質なのだ。
例えば、女性差別を含む数々の差別問題に取り組んできたオバマ元大統領でさえ、ある女性州司法長官のことを「ずば抜けて美人だ」と言ってしまったことで謝罪している。なぜなら、彼女は州司法長官としてその場に来たのであって、モデルのオーディションを受けに来たわけではなかったからだ。
せやろがいおじさんが、自身の中にある女性への偏見を見つめ直したことについて、称賛するコメントが多くあったけれど、私は、こういう場合には、特段「すごい!」「立派!」と言って称賛する必要はないと思う。というか、称賛しないほうがいいとすら思う。なぜなら、マイノリティを理解することを称賛されたマジョリティは、マイノリティと同じ地平に足つことが難しくなるからだ。マジョリティとマイノリティは、本来対等であるべきで、差別を受けないのが当たり前なのだから、せいぜい「称賛」ではなく「認める」くらいでいいと思う。
私たちは、差別や虐待を受けないことで、ありがたがる必要はないし、マイノリティに対して「お前たちのことを理解してやるぞよ。ありがたく思え」という態度を取ってはいけない。
とりあえず、せやろがいおじさんは、ハゲをバカにする価値観について問題提起してるので、その流れで、ブスをバカにする価値観についても考えられるはず。
ぜんじろうという、海外でスタンダップコメディをやっている人。6:09頃からの、女性とお笑いについての話が興味深い。
ポリティカル・コレクトネスは表現の幅を狭めるか
最近のネット炎上を受けて、竹下は、「表現の幅が狭まってる」「昔はもっと自由にできた」と感じている制作者と、不快な表現に批判的な声を上げるようになった受け手の間で、「分断」が起きていると指摘した。
よくある「最近はポリコレポリコレうるさくて、自由に表現できないよ」というやつだ。でも、それは本当なんだろうか。私は、むしろ逆だと思っている。
オードリー・ヘップバーンが主演を務めたことで有名な1961年のハリウッド映画『ティファニーで朝食を』に、「ユニオシ氏」という日本人(日系人)キャラクターが登場する。ミッキー・ルーニーという白人俳優が「イエロー・フェイス」をして、つり目で出っ歯で眼鏡をかけて、LとRの区別がつかない、いかにもステレオタイプな日本人を演じている。
Breakfast at Tiffanys Opening Scene
ユニオシ氏はコミカルなキャラクターとして描かれている。おそらく、このキャラクターは、当時のアメリカ人にとっては、面白いものだったのではないだろうか――アジア系以外の人たちにとっては。
日本に住む日本人は、こういったアジア人描写を、ある程度余裕を持って見ていられるかもしれない。しかし、アメリカ社会でマイノリティとして暮らしているアジア系市民にとって、「メディアに、アメリカ白人のイメージするアジア人しか出てこない」という環境は、どれほど抑圧的に作用するものだっただろう。
今のアメリカ映画界では、このような日本人描写をすれば、日系人だけでなく、それ以外の人からも「ポリコレ棒で叩かれる」だろう。では、ユニオシ氏のような描写が批判されるようになったことで、アジア系の表現は狭まったのだろうか。
2018年、ハリウッドで、主要キャラクター全員がアジア人の映画『クレイジー・リッチ・アジアンズ』が公開され、話題になった。ステレオタイプなアジア人描写が批判される世の中になってから、逆に、アメリカのメディア社会では、当時よりもずっと多様なアジア人像が描かれるようになっている。
CRAZY RICH ASIANS - Official Trailer
どちらが「多様な表現」と言えるだろうか?
「ポリコレ棒によって、表現の幅が狭くなった」と言っている人は、もともとある種の人々に対する表現の幅が狭かったということだ。
ステレオタイプなアジア人像しかアジア人の引き出しがないような制作者からすると、「表現の幅が狭まってる」「昔はもっと自由にできた」と感じるのかもしれない。しかし、その自由とは、言い換えれば「雑な認識で作っても許されていた」ということである。そのような制作者が不自由になった一方で、アジア人など人種・民族的マイノリティは、以前よりずっと自由になったはずだ。これは女性の描き方だって同様だ。
よく誤解されるのですが、差別的な表現は表現の幅が広いどころか狭いのですよ。「同性愛者はこういう人」、「インディアンはこういう奴」、「女はこういうことしろ」と登場人物の性格や行動を属性により縛っているようなものなので、みんな概ね同じようなキャラクターになります。
— ふぎさやか (@maomaoshitai) May 25, 2018
日本国内においては、健康で健常でヘテロセクシャルでシスジェンダーな日系日本人男性がマジョリティだ。この条件に当てはまれば当てはまるほど、日本社会の中での発言力が増し、この社会で最も性能の良い拡声器を握れる位置につける。一方、それ以外の人たちは、マジョリティの人たちの脳内イメージに合致する形でしか、主要メディアに出て行くことができない状況になりがちだ。
健常者にとって都合がいい障害者像を指す言葉に「感動ポルノ」があるが、マイノリティの人たちが、マジョリティの脳内イメージに合致するかしないかを気にすることなく、自分自身の表現を広く発信することができるようになったら、表現はもっと幅広く、自由になるだろう。
映画『ティファニーで朝食を』から50余年、2013年ブロードウェイ・ミュージカル『ティファニーで朝食を』に登場するユニオシ氏は、ジェームズ・ヤエガシという日系人俳優によって演じられた。ミュージカル版のユニオシ氏は、原作の小説に基づく日系二世という設定で、映画版とは全く違うキャラクターとして演じられているらしい。
Meet Mr. Yaegashi — the New Yunioshi
[2018.12.1 追記]
「ポリティカル・コレクトネスは表現の幅を狭める」と言う人が思い至っていないのが、「差別は、実質的に差別される側の言論や表現の自由を奪う」ということだろう。
差別によってマイノリティが萎縮し、マジョリティが認める表現しか表に出せないような状態になっている現状を、緊急避難的に緩和させる措置が、ポリティカル・コレクトネス。
ポリティカル・コレクトネスと関連が深い「差別語」について。