宇野ゆうかの備忘録

ちょっとした作品発表的な場所。/はてなダイアリー→d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/

『将軍 SHOGUN』『ラスト サムライ』『アサシンクリード シャドウズ』~白人酋長または白人の救世主について

白人の救世主(白人酋長モノ)と呼ばれるジャンルがある。これは、「なろう系」とか「異世界転生」とかに近いのだが、要するに、白人主人公が異人種や異民族を相手に無双する内容だ。有能な白人が、文明的に遅れている民族や未開の地で人々を助け、現地人に称賛され、ついでに現地女性にモテるとか、そういう物語である。

まぁ白人が気持ちよくなるためのものなので、利用された側にとっては、当然不快に感じる。そのため、このジャンルは過去に批判されてきており、近年のポリコレでは、白人の救世主はやってはダメということになっている。

 

映画における白人の救世主(英語: white savior)とは、白人が非白人の人々を窮地から救うという定型的な表現である。その表現は、アメリカ合衆国の映画の中で長い歴史がある。白人の救世主は、メシア的な存在として描かれ、救出の過程で自身についてしばしば何かを学ぶ。

白人酋長モノなどともいう。

白人の救世主 - Wikipedia

Screen Saviors: Hollywood Fictions of Whiteness labels the stories as fantasies that "are essentially grandiose, exhibitionistic, and narcissistic". Types of stories include white travels to "exotic" Asian locations, white defense against racism in the American South, or white protagonists having "racially diverse" helpers.

(Screen Saviors: Hollywood Fictions of Whitenessは、これらの物語を「本質的に大げさで、自己顕示的で、ナルシスティックな」ファンタジーと分類している。物語の種類には、白人が「エキゾチックな」アジアの場所を旅すること、アメリカ南部での人種差別に対する白人の防衛、または「人種的に多様な」助け手を持つ白人の主人公などがある。)

White savior - Wikipedia

 

現実には、高い能力を持っていたら、その社会で無双できる(ゲームプレイヤーになれる)かというと、たぶんそうでもないだろう。その社会でゲームプレイヤーになれるかどうかは、能力を持ってるかどうかより、権力を持ってるかどうかだと思う。能力を持っていても、権力を持っていなければ、その社会で能力を発揮できないか、権力者に能力を利用されるだけだ。

2024年リメイク版の『将軍 SHOGUN』は、そこが現実的だと思った。あのドラマの中で、ゲームプレイヤーはブラックソーンではなく虎永である。ブラックソーンは、状況に振り回されるしかない。『将軍 SHOGUN』は、この構造を演出することで、ドラマが白人酋長モノになることを避けたのだろう。

そして、白人が異人種・異民族の社会に入っていくということは、その社会においてマイノリティになるということでもある。つまり、現実には、その社会において差別や偏見の対象になるのは、白人のほうだろう。

80年代に制作された『将軍 SHOGUN』を見ると、ブラックソーンのもとに次から次へと女性たちがやってくる描写があるが、2024年版にはそういう描写はない。彼は、鞠子以外の女性からは全くモテていなかった。

 

ラスト サムライ(Last Samurai)』は白人の救世主だろうか?

(ネタバレになるが)この映画は、幕末の時代、欧米からやってきた軍事顧問の男が、侍の集団に捕まって捕虜になり、そこで生活するうちに、彼らの生き方の中に美しさを見出す。最後は侍たちと共に戦って、侍の時代の終焉を目撃するという筋書きだ。トム・クルーズが演じた主人公のネイサン・オールグレンのモデルは、ジュール・ブリュネであり、渡辺謙が演じた侍たちのリーダー・勝元盛次(かつもと もりつぐ)のモデルは西郷隆盛である。この映画の「ラスト サムライ」とは、勝元たち日本人の侍のことであり、オールグレンのことではない。

勝元を演じた渡辺謙は、The Guardianのインタビューで、この映画は白人の救世主かという質問に対して、「そんな風には思っていなかった」「『ラスト サムライ』の前には、眼鏡をかけ、歯をむき出しにし、カメラを持つアジア人というステレオタイプがありました」と話す。*1一方で、松崎悠希は、この映画は白人の救世主だと言う。*2海外では、この映画は概ね白人の救世主だと考えられているようだ。

 

この映画は、日本人から見ると変な日本描写が多数あった。当時はハリウッドのスタッフを使わなければならなかったため、そうなったという。特に、忍者の集団が襲撃してくるシーンは、あまりのあり得なさに、ある意味で記憶に残るシーンだった。もう20年程前の映画なので、現代の感覚からすれば、時代遅れだと言わざるを得ない。

それでも、当時はハリウッドが日本の侍をテーマに日本人俳優を使って映画を撮るのが珍しかったこと、日本の侍たちが格好良く表現されていたことなど、あの時代としては、日本に対する敬意が感じられたので、日本人から受け入れられたのだと思う。当時の欧米では、日本文化に関心を持っている人はまだ少なく、トム・クルーズが前面に出ていなければ、アメリカの観客たちは、知らない俳優たちが出ている侍映画を見なかっただろう。

はっきり言って、『ラスト サムライ』は、侍映画を見慣れている日本人の鑑賞に堪えるものではなかった。日本人の大部分が知らない2023年制作のアニメ『Blue Eye Samurai』から考えると、もしかしたら、欧米社会に「日本人は江戸時代が終わるまで銃を使わなかった」という偏見を残した映画であったかもしれない。しかし、欧米の観客に対して、『ティファニーで朝食を』のミスター・ユニオシのようなものではなく、あの時代において、日本人に対するイメージを刷新し、物事を前進させたものであったという評価はできるだろう。

ラスト サムライ』がなければ、2024年の『将軍SHOGUN』はなかっただろう。おそらく、真田広之は、『ラスト サムライ』の時にできなかったことを、『将軍 SHOGUN』で全てやったのだ。

 

さて、最近ネットで大炎上して話題になった『アサシンクリード シャドウズ(Assassin's Creed Shadows)』だが、なぜ多くの日本人が不快に感じたのかというと、要するに、弥助が「黒人の救世主」になっているからだろう。もっとも、ゲームを作っているUbisoftは、ほぼ白人の会社である。

このゲームの問題点については、前回記事『Yasuke is so white! ― ポリコレ視点から見るアサシンクリードシャドウズ(Assassin's Creed Shadows)弥助炎上事件』において詳しく述べたので、そちらもご覧頂きたい。

日本人がアサクリシャドウズを不快に思う理由は、もし『ラスト サムライ』が、トム・クルーズが、まるで大名のように高価で豪華な甲冑を着た「伝説の侍」になり、彼が道を歩けば地元の庶民たちが直立してお辞儀をして、日本人の首を不必要に切り落とし、抑圧者から日本の人々を解放するカリスマヒーローになる内容だったら?で説明できると思う。こんな内容の映画、絶対に日本人から認められなかっただろう。

 

アサシンクリードシャドウズの弥助

伝説の侍になろう

カリスマ性のある侍、弥助となって、残忍な正確さと力で敵を攻撃しましょう。戦闘に特化したスキルを使って、敵を攻撃、ブロック、受け流し、倒しましょう。刀、金棒、弓、薙刀など、さまざまな武器を使いこなして、日本を圧制から解放しましょう。

 

おそらく、Ubisoftの考えは「日本を舞台に白人の救世主をやるのはダメ。それは差別的だ。でも黒人をエンパワメントするために、黒人の救世主を作るのはOK。それは先進的だ」なのだろう。

しかし、普通に考えて、かつて、たまたまその国にいた外国人を、史実よりも非常に身分が高く、史実よりもその国の人々から敬われ、そんなことをしていた記録はないのに、抑圧者から人々を解放する人物として表現して、処刑する時の戦闘モーションでその国の人々を殺すゲームを作ったら、その国の人々が不快に思うのは、当然だろう。仮に、日本のゲーム会社が、日本人主人公でこれと同じことをやったとしたら……それは非常にナルシスティックだし、相手の国の人たちに対して失礼だと感じる。

海外では、このゲームを擁護する人たちは、「日本人自身が弥助に関する創作物を作っているのだから、AC Shadowsの弥助も、日本人は受け入れている」と主張する。が、もちろん、日本人が創作した弥助は、大名や武将のようではないし、このような誇張された救世主的描写は見られない。

 

Ubisoftは、愚かにも、弥助をナルシスティックな救世主にすることが、黒人をエンパワメントすることだと考えているのだろうか?だが、「白人の救世主」は、白人をエンパワメントしていたのだろうか?私はそうは思わない。それは白人たちのナルシシズムを満たしていただけだ。

自己肯定感とナルシシズムは別物だ。自己肯定感は、他者と良い関係を築くが、ナルシシズムは、他者との関係を破壊してしまう。エンパワメントとは、相手の自己肯定感を引き出すことであって、相手のナルシスティックな願望を満たしてあげることではないはずだ。

Ubisoftは、黒人をエンパワメントすることと、他国の歴史や文化を尊重することの間で、バランスを取るべきだった。しかし、どうやら彼らは、「批判しているのは、主に人種差別的な欧米人で、日本人はこのゲームに対して好意的だ」と主張することに決めたらしい。

 

いずれにせよ、今まで「白人の救世主」が問題視されていたのは、ハリウッドが白人中心だったからで、これから非白人が主人公になる機会が増えると、非白人の救世主モノが創られ、それが問題視されることは、これからも起こるだろう。ある意味では、それが主人公になる機会が増えるということなのだ。その時には、「白人の救世主」という言葉は古くなり、「外国人の救世主」という言葉に置き換わるかもしれない。

そして、日本も、アニメや漫画が日本人だけが見るものではなくなった以上、世界発信を前提としたコンテンツでは、「日本人救世主」にならないよう、気を付けたほうが良いのだろう。
「救世主になりたい」という願望は、白人だけが持つものではなく、誰もが持つ願望だと思う。しかし、相手の国の人々にとっては、それはクールとは限らないのだ。主人公がすごいことを表現するために、他国の歴史や文化を「道具」として使用するのは、過去に白人たちが散々やってきて、ことごとく失敗している。それを反面教師とするべきだろう。

 

togetter.com

 

将軍 SHOGUN』は、ステレオタイプ的な日本人描写、白人の救世主、無意味な女性のヌードシーンなどを排除して創られた、かなりポリコレな作品である。女性をちゃんと描いているのも評価されている。北米では日本はマイノリティであり、これまでは、日本人の役を中国人が演じる、原作は日本人なのに白人が演じる、ステレオタイプ日本人、トンチキジャパン描写が、ハリウッドでは普通だったのだ。最早、今の時代においては、私たちがよく目にする映画やドラマの多くは、ポリコレの視点が入っていると言っても過言ではないだろう。

将軍 SHOGUN』は、『ラスト サムライ』から20年余りの間に、真田広之がハリウッドで信頼を積み重ねてきたこと、(北米における)マイノリティの文化を尊重しようという時代の流れができたこと、日本文化に対する観客の鑑賞力が高まったことなどが、ちょうど噛み合って生まれた傑作だろう。これまでもハリウッドで奮闘した日本人俳優はいたが、やはり、今の時代でなければできなかったと言わざるを得ない。*3

 

関連記事:

yuhka-uno.hatenablog.com