宇野ゆうかの備忘録

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選挙が苦手な人と、おしゃれが苦手な人は、似ているのかもしれない

 
togetter.com

 

上の彼女さんから、政治や選挙に対するコンプレックスを感じました。この反応、ファッションやおしゃれにコンプレックスを感じている人に、「もっとおしゃれしなよ」って言った時の反応に似てると思います。

 

Togetterのブコメにこんな意見がありました。

id:covacova なんか分かった気がするぞ。選挙に行かない人や、体制派にしか入れない人は、正解が何かを気にしているんだな。正解とは多数派で、正解に入れなかった自分を他人に見られるのが怖いんだ。まさに教育の成果だ

 投票用紙を「解答欄」だと思ってしまう教育の成果というのも、確かにあると思います。そして、これとはまた別の角度として、「人は、自分がよくわからない分野で『正解』を出さなければと思う時、とにかく大多数と同じようにして安心したがる」っていうのもあると思います。

おしゃれが苦手な人がおしゃれしようとすると、自分の軸がないため、自分に合うかどうかもわからず、ただ流行に振り回されるだけになってしまったり、マネキン買いしたりしてしまいがちです。一方、おしゃれな人は、流行をチェックしながらも、流行に流されず、自分に合うと思うものだけを取り入れます。

選挙慣れしているかしていないかも、これに似ているのかもしれません。

 

“まず、中高生のときって「制服とジャージ」しか着なかったのに、大学に入って「いきなり、毎日私服」という状況になると、何を着ていいかわからない。”

“それで、そういう「ファッションレベル1」の状態で大学生になって、焦って服を買いに行こうとすると「量産型化」してしまう。

でも、大学にいったらみんな「量産型」で安心しました。ヘンな服を着て浮いたり、バカにされるのが怖かったので。「個性がなくて恥ずかしい」なんて思わなかったです。”

なぜ女子大生は「量産型化」してしまうのか? 元量産型の女子大生が語る、絶滅した「ガーリー型」の謎と、わたしが量産型になってしまうまで。 | アプリマーケティング研究所

 私は、選挙で「自分が入れた党が多数派だと安心する」と言う人の感覚がわかりませんでした。選挙って、「多数派だったから安心」とか、そういうもんじゃないのにな…と。でもそれって、ファッション量産型な人の感覚に似ているのかもしれませんね。「政治レベル1」の状態でいきなり選挙に行くと、「量産型」になってしまうのでしょう。

 

“あんな:みんな争点争点って言うじゃないですか。「今回は年金選挙だ!」「いや、消費税選挙だ!」「いやいや憲法選挙!」。バラバラじゃん!? って混乱します。結局今回、何選挙なの!?

とんふぃ:憲法改正、消費税10%増税、経済政策、原発最低賃金夫婦別姓、LGBTQ……。国民の関心が高い問題はだいたい争点になっているので、迷うのはもっともですが、実は選挙の「争点」はみなさん自身がそれぞれ決めていいものなんです。

かん:え、自分で優先順位を決めていいんだ。”

政治音痴のための7.21参院選 長田杏奈&かん(劇団雌猫)が緊急取材 - She is [シーイズ]

 上の会話は、まるで、流行に振り回されるおしゃれオンチな人と、自分のファッションスタイルができている人の違いのようです。「ファッションサイトじゃ、今年はこれが流行るとか、これが来るとか言うじゃないですか。結局、何を着ればいいの!?」みたいな。

 

世間では、投票日が近くなると、投票を呼びかける声が多くなりますけど、どうにも、投票を呼びかける側の人って、投票所入場券(ハガキ)持って投票会場行って投票するくらい、誰でもできるだろうと思ってる人が多いように思います。ネット上では、実際、「投票に行くくらい、簡単だろ。なんでできないんだよ!」って言ってる人も見かけました。

でも、選挙が苦手な人と、おしゃれが苦手な人が似ているのなら、政治オンチな人に「投票に行け」って言うのは、おしゃれオンチな人に「おしゃれな店で服買ってきなよ」って言うようなものなのかもしれませんね。

 

実際、自分自身が投票までにかける手間のことを考てみると、ぜんぜん投票日に投票するだけじゃないんですね。まず、日頃から、どの政党がどんな方針かとか、この議員は推せるとか、反対にこの議員はダメだとか、おおまかにでも見ている。そして、選挙が近くなると、候補者をチェックして、それで選挙に向かうわけです。

だから、選挙って、その大部分は、日頃の習慣なんですよね。投票なんて、最後のほんの一手間。料理で言ったら最後の盛り付けと配膳くらい。つまり、投票率を上げようと思ったら、選挙の時だけ投票を呼びかけるんじゃなくて、日頃から政治に興味を持ってもらうことを考えないといけないんだと思います。

 

それに、どうやら、選挙が苦手な人にとっては、そもそも投票所に行くこと自体がハードルが高いみたいなのです。私がそれを感じたのは、下の記事を読んだことがきっかけでした。元モーニング娘。田中れいなという人がやっていたラジオ番組での会話だそうです。

“20歳になったばかりの二人は選挙のハガキはきたが、いつ行くのか、何をどうすればいいのか分からないといった感じだ。
25歳のれいなに関しては、去年までハガキが来ていたことすら知らなかったとか…。

さすがに周囲の大人に行きなさい、と忠告されたが、どこに行けばいいのかも知らなかったらしい。
行ってみた感想としては、「怖かった~!」と言っている。

やっと投票所に行ってみたが、候補者名や政党名を二度も書くことがワケが分からなかったらしく(選挙区選挙と比例代表選挙かな)、でも誰にも疑問を聞くこともできないので、とにかく怖かったらしい。”

インターネット選挙運動で、若者の投票率は上がるのか? - 田舎で底辺暮らし

他にも、今まで選挙に行ったことがなかったという人で、「この年になって、選挙会場で勝手がわからずまごついてるなんて、恥ずかしいという思いがあった」と言っている人も見かけました。 

 

私の場合は、子供時代に、親が投票するところを見ていたり、初めての投票の時には親と一緒に行ったりしたので、投票会場に行って投票するのは、別に特別なことではないんですね。それに、親が政治の話をする人だったので、たぶん、20歳になる頃には、拙いながらも、ある程度自分の政治に対するスタンスができていたと思います。

でも、選挙が苦手な人は、たぶんそういう環境がない。それはまるで、高校生の時からおしゃれに目覚めていた人と、ずっとおしゃれの世界に触れずにきた人との違いくらいはあるのではないでしょうか。

“2016年の参議院選後に総務省がインターネット上で実施した「18歳選挙権に関する意識調査」によると、子どもの頃に親の投票について行ったことのある人とない人では、投票参加率に差があったのです。

18〜20歳の男女3000人のうち、親の選挙について行ったことがある人の投票参加は63.0%で、親の選挙について行ったことがない人は41.8%と、約20ポイントの差があったといいます。”

子どもを選挙に連れていくべきたった一つの理由

 

Tweetでは、彼女さんは「学校で政治や選挙のことなんか教えられてない」と言っています。多くの人が指摘しているように、一応、学校では政治や選挙のことは(十分ではないにせよ)教えています。ただ、学校で習っただけでできるようになるのかというと、それでは不十分だと思うのです。私の弟は、家庭科で料理を習ったはずですが、料理ができません。いくら学校で習っても、家で料理をする習慣がなければ、身につかないようです。

政治や料理に限らず、私たちは、学校で習ったことでも、自分の普段の日常生活の中でやらないことは忘れてしまうというのは、よくあることですしね。

 

若者にとって政治や選挙のことがわからないのは、日本で政治の話題がタブーだということも大きいと思います。アメリカとかだと、若者に人気のポップアーティストが、日頃から政治的な発言をしますし、自分の作品にも政治的なメッセージを込めます。政治の話題が、普段の日常生活の中にあるのでしょうね。

日本の場合は、どうもそうじゃないですよね。アーティストが政治的な発言をするのを嫌いますし、日本のポップミュージックも、政治とは関係ないものが求められますから。若者は、「空気を呼んで」、政治的なことを言うのを避けますし。

 

去年、テイラー・スウィフトが、初めて自分の政治に対する考えを明らかにしたことが話題になってましたけど、話題になった理由のひとつには、他のアーティストは政治的発言をするけれど、テイラーはこれまでしてなかったからというのもあるでしょう。

front-row.jp

 

たぶん、選挙慣れしていない人って、選挙演説とか政見放送とかのほうに注目しがちだと思うんですけど、実際は、日頃から政治に興味を持つ習慣を身に着けるという、けっこう地味なものなんですよね。

ファッションで例えるなら、おしゃれな人は、日頃からファッション情報をチェックしてるようなもの。美容についても、一時的にエステに行くよりも、普段から日焼け止め塗ったり、肌のお手入れをするほうが大事です。

ぶっちゃけ、私、選挙演説聞きに行ったりしないし、政見放送もほとんど見ないですもん。

 

“私はずっとノンポリでした。だから会社のしがらみとか、多数派に投票しておけば責任を問われなくてラク、みたいな気持ちも分かるんです。”

「私は山本太郎に発掘されたノンポリ」 自民党議員一家で育った25歳女子が「れいわ新選組」を推す理由 | BUSINESS INSIDER JAPAN

私にとっては、上の記事は、記事のメインの内容より、この部分が気になりました。ああ、そういう考え方なのか……と。

この考え方、実はけっこう危険だと思うんです。子供のいじめも、いじめを隠蔽する学校も、企業の不祥事も、ナチスドイツの独裁政権も、その根底には、「多数派になっておけば責任を問われない(はず)」という思考回路があるからです。

私は、多数派に投票するのと、少数派に投票するのとでは、どちらも責任は同等だし、もっと言えば、投票することを選ぶのも、投票しないことを選ぶのも、同等だと思います。選挙権とはつまり、自己決定権なのですから。

 

これを書いている私自身も、おしゃれオンチ状態から、おしゃれ好きになった人間なんですけど、おしゃれになる過程で必要だったのが、「モブキャラでいるのをやめて、主役になる覚悟」だったんですね。

たぶん、政治参加っていうのも、それに近いものがあると思います。政治に興味を持って、自分なりのスタンスを持つというのは、この社会の中で、モブキャラでいるのをやめて、自分が主役になる感覚を持つことだと思うんです。

だから、「多数派に投票しておけば責任を問われなくてラク」というのは、投票はしていても、まだ、社会における「主役」感が身についていない状態なのかもしれませんね。

 

あと、よく「選挙に行かない人に文句を言う権利はない」って言う人がいますけど、はっきり言って、あれは嘘です。今のところ、日本にそんなルールはありません。言論と表現の自由は、選挙に行った人にも行かなかった人にありますし、そうあるべきです。

順序が逆だと思うんですよね。選挙に行ったら、文句を言うことが許されるんじゃなくて、「自分だって、政治に文句を言ってもいいんだ」と思えて、文句を言うことに慣れてくるから、選挙に行くんです。

文句を言うといっても、いきなり街頭でデモするとか、そこまでじゃなくて、日常生活の中で、不満に感じていることを愚痴るような感じで、ですね。

 

私は、現時点で選挙が苦手な人は、無理に投票する必要ないんじゃないかなって思います。「政治レベル1」の状態でいきなり選挙に行くのは、けっこうハードルが高いと思います。おしゃれなら、最初は大多数と同じの「量産型」から入るのもいいですけど、選挙ってそういうものじゃないので。まず自分の政治レベルを上げてからでもいいと思います。

ただ、選挙の練習のつもりで、選挙会場に行って、候補者名を書かずに白票を投じてみるのも、いいと思いますよ。おしゃれオンチな人がおしゃれの練習をするために、一度おしゃれな店に入ってみて、どういうところか見て、何も買わずに出てくる、みたいな感じでね。

 

 

おしゃれオンチだった私がおしゃれになる過程。「モブキャラ→主役」についても書いてます。

yuhka-uno.hatenablog.com

現代の大阪城天守閣は、城の形をした近代建築の博物館だった

安倍首相が、大阪で開催されたG20サミットにおいて、大阪城天守閣にエレベーターがついていることをネタにしたことで、世間ではバリアフリーの観点から批判の声が上がった。それについて、安倍首相自身が、自らの発言について説明したり、菅官房長官が擁護したりしている。

 

www.asahi.com

www3.nhk.or.jp

 

ただ、私としては、「天守閣は今から約90年前に16世紀のものが忠実に復元されました」という首相の発言が気になってしょうがない。なぜなら、現在の大阪城天守閣は、鉄筋コンクリート造りだからだ。もちろん16世紀に鉄筋コンクリートの建物なんてないわけで、「忠実な復元」であるはずがない。だいたい、大阪人自身が「ま、あれは鉄筋コンクリートなんやけどな(笑)」とネタにすることがあるくらいだ。

 

そこで、大阪城について、あらためて色々と調べてみた。

 

現在の大阪城天守閣は、1931年(昭和6年)の完成で、当時の大阪市長・関一(せき はじめ)の呼びかけによって、市民からの寄付金で造られたものだ。申し込みが殺到し、およそ半年で目標額の150万円に達したという。

この時代、大阪市は世界でも6番目に人口の多い都市であり、商工業都市大大阪(だいおおさか)」として栄えていた。これは、関東大震災の被災者の一部が大阪に移住したことの他に、関一が都市計画学者だったことも関係しているという。*1

 

大阪城天守閣は、その歴史上、16世紀末に建てられた豊臣時代のものと、17世紀以降の徳川時代のもの、そして現代のものがあり、現・大阪城天守閣は、徳川時代天守台石垣の上に立てられている。外観は、下から4層目までが徳川時代の白漆喰壁、最上階の5層目を豊臣時代の黒漆壁という、折衷デザインになっている。*2

鉄筋鉄骨コンクリート造りになったのは、当時の建築規制により、巨大な木造建築物が作れなかったからだという。*3

当時から5階まで行けるエレベーターはついていたが、平成の改修によって、身体障害者は最上階の8階まで行けるエレベーターを利用できるようになった。*4*5

 

大阪市のホームページに、現・大阪城天守閣を造る上での資料が載っていた。

“ 当時城郭建築の研究は進んでおらず、また豊臣氏大坂城天守に関する資料はほとんどなかった。古川は全国の桃山時代建築や城郭建築を調査、研究し、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた天守をもとに全体の構成から細部意匠にいたるまで、中心となって設計をおこなった。”

大阪市:昭和六年大阪城天守閣復興に係わる設計原図等関係資料 一括(147点) (…>大阪市指定文化財>大阪市指定文化財(指定年度別))

この資料を見るに、当時は「16世紀の忠実な復元」はそもそも無理があったということが伺える。豊臣時代の天守台石垣と、豊臣氏大阪城本丸図(中井家本丸図)が発見されたのは、戦後になってからのことだ。*6*7

むしろ、この資料からは、大阪城天守閣の資料が少ない中で、なんとか復興させようとした当時の苦労が思われる。

 

また、調べるうちに、このようなサイトを発見した。

kakuyomu.jp

なんと、大阪城天守閣は、現存する日本最古の鉄筋鉄骨コンクリート造の建物だという。ちなみに、日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅は、「軍艦島」の愛称で有名な長崎県端島にある建物だそうだ。

 

こうして調べてみると、大阪城は、人々にかつての豊臣・徳川の時代を思い起こさせるものであり、昭和初期の大大阪時代を思わせるものであり、日本における近代建築の歴史を思わせるものであり、日本の城郭建築の研究の歩みを思わせるものであり、視点を変えていけば、色々な見方ができるものだと思えてきた。

 

さて、大阪城は、建物そのものばかりが注目されがちだが、実は内部の展示物がすごい。かつての大阪城と同時代の歴史資料や文化財が多数展示されており、その多くが実物なのだ。秀吉の黄金の茶室の復元もある。

大阪城天守閣の公式ホームページに載っている、2019年5月22日~7月17日開催の企画展示「サムライたちの躍動―大阪城天守閣名品セレクション―」の紹介文にも、こんな文面が載っている。

 

“ 大阪城天守閣は全額大阪市民の寄附金によって昭和6年(1931年)に復興され、現在まで、大阪や大阪城の歴史、戦国時代から安土桃山時代にかけての武家を中心とした日本の歴史や文化を発信するユニークなお城の博物館として歩んできました。

 約1万点にのぼる大阪城天守閣の収蔵品には、武士たちが身にまとい、使用した武器武具、有名な戦いを描いた合戦図屏風が多く含まれており、コレクションの大きな柱となっています。”

大阪城天守閣

 

私は、この「お城の博物館」という言葉が、現在の大阪城天守閣を言い表す言葉として、最適なのではないかと思う。大阪城天守閣は、大阪市が所有する公立の博物館という扱いになるのだろう。そもそも、内部に入ってしまえば、近代建築の博物館そのものなので、忠実な復元ではないことはわかる話だ。

大阪城天守閣は、各種障害者手帳、戦傷病者手帳、被爆者健康手帳の所持者は、本人と介助者1名まで利用料金を無料としている。公立の美術館や博物館は、基本的にそうなっているので、大阪城もそうなのだろう。

 

ちなみに、現・大阪城天守閣は、昭和初期のものだが、大阪城公園内には、石垣や門や櫓(やぐら)など、江戸時代からの建造物が数多く残っている。

また、天守閣の近くに建つロマネスク様式の西洋建築・ミライザ大阪城(旧第四師団司令部庁舎)は、天守閣と同時期に建てられたもので、現在は大阪城を眺める商業施設になっている。

 

さて、ここからは、私が勝手に思っていることなのだけれど、大阪という都市は、すぐ隣に京都奈良があるせいか、なんとなく「歴史都市」という印象が薄いような気がする。しかし、大阪は、古代から都の重要な海の玄関口であり、現代まで主要都市であり続けたわけで、大阪という都市ひとつの中に、古代から現代までの足跡が残っているのだ。

世界遺産に登録された、大仙陵古墳仁徳天皇陵)を含む百舌鳥・古市古墳群聖徳太子によって建立された四天王寺。かつて都や副都が置かれ、大化の改新の舞台となった難波宮跡。太閤秀吉が築いた大阪城茶の湯を大成した千利休。江戸時代は町人文化が花開き、井原西鶴近松門左衛門が活躍し、明治以降に近代化してからは、商工業都市大大阪」として栄えた。 

 

そんな大阪の歴史を紹介した「大阪歴史博物館」は、大阪城公園のすぐ南西の位置にある。大阪城天守閣大阪歴史博物館のチケットは、セットで購入するとお得になるそうだ。興味のある人は、行ってみるといいと思う。(勝手に宣伝)

www.osakacastle.net

www.mus-his.city.osaka.jp

 


模型で蘇る豊臣大坂城

 

大坂城 絵で見る日本の城づくり (講談社の創作絵本)

大坂城 絵で見る日本の城づくり (講談社の創作絵本)

 

東大生が上野千鶴子氏にインタビューした記事を読んで、色々考えたこと

todai-umeet.com

上の記事を読みました。なんか、最初はインタビュアーという役割の人としてインタビューしようとしていた編集部の皆さんが、途中から自分自身の個人的な話になっていくのが面白かったです。「個人的なことは政治的である」って、こういうことなんですかね?

読んでるうちに、ちょこちょこ気になることがあったので、ブログに書いてみたくなりました。

 

「男というだけで、ずっと悪者なのか」

まず、もらいださんの発言から。

“自分は男ですが、ここまで聞いていて、男というだけで、ずっと悪者なのかっていうことが一瞬よぎりました。
僕は、男女差別的な構造の中で生きていて、社会的に構築された自分としては女性からみたら敵になる部分が多いなと思うんですけど、男女差別的な構造を自分が選んだわけではないので、自分に直接責任があるかと言われたらわからないなと思って。”

 

性差別の問題について、こういうふうに考えてしまう男性って多いよな、と思います。私は、これを、マリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」発言で考えています。(※なお、これはあくまでも「ものの例え」であって、実際のマリー・アントワネットはそういう発言をしなかったとか、非常時にはパンの代用としてブリオッシュを食べるとか、歴史上の正確性については、ここでは議論の対象としません。) 

 

マリー・アントワネットが、たまたま高貴な身分として生まれたこと自体には、罪はありません。生まれは選べないものですから。彼女の罪は、庶民がどれだけ苦しい立場に立たされているのかを、理解していなかったことです。理解していないから、「え……?パンがなければお菓子を食べればいいんじゃないの?」という、庶民を決定的に傷つける発言を、無自覚にしてしまいます。

この関係、マリー・アントワネットの視点からすれば、「パンを!パンを!」と求める庶民が、無知で感情的に見えるんだけれども、実際には、マリー・アントワネットのほうが、無知で鈍感なんですね。

 

そういえば、こんな話がありましたね。

“食費にお金を若者はかけられないというが、それは、言い訳。今日のお昼ご飯、鱧のおすましだったけど、家人に聞いたら、実質何百円だって。骨切りした鱧も旬だから安いし、他の材料も残りものだしって。やれば出来る。やらないだけ。(小池一夫)”

【追記あり】小池一夫氏「若者は食費にお金をかけられないというがそれは言い訳。やれば出来る。やらないだけ」 - Togetter

 案の定、若い世代から、「働いて家に帰ったら、それを作る時間も体力も残っていない」という指摘がされていました。

 

男であるだけで、あるいは、先に生まれたということだけで、悪者っていうことはないんです。ただ、差別とか格差の存在を認識していないと、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」って言っちゃうタイプの人間に、わりと簡単になってしまうということです。

 

「自分が幸せになりたいんだったら、女として生きていくということを、受容した方がいい」

“東大卒の父と専業主婦の母っていう絵に描いたような家庭で育ってきて。家族や親せきから「専業主婦になってほしい」とか、「女には女の役割がある」という言葉を聞いたこともあります。”

 

“母親とはそのことでよく喧嘩もするんですけど、母親もその、私のことを嫌いで言ってるわけじゃなくて。
個人単位で考えたら、傍観者で生きていった方が圧倒的に生きやすいじゃないかと言われていて。

正しいことを正しいというと、自分が矢面に立って、めんどくさいやつだかわいくないやつだと言われて生きていくことになるから、それはあなたの人生にとって辛いことだろうと。

それよりも、社会がどうかの話の前に自分が幸せになりたいんだったら、女として生きていくということを、受容した方がいいとずっと言われてきて、ずっと葛藤していたんです。”

 

これは、親に洗脳されて進路を誘導されて、ひきこもりになった経験のある私は、色々と思うところがありました。

『子どもがひきこもりになりかけたら(著:上大岡トメ)』っていうコミックエッセイがあるんですけど、その中に、こういうことが描いてあるんですよね。

 

今のコドモたちは親が経験したことのないような新しい世界を生きています

 

変化に気がつかずに 親の価値観をコドモに押し付けて レールに乗せようとする

「とにかくこれに乗りなさい!(お父さんはこれで大丈夫だった)」

「えっ」「なんか古そう!」

 

「えーっ」「どこに行くの!?線路がなくなってるみたいだけど!!」

「「これで安心」」

「いえ とっても危険です」「でもこういう方は多いんです」

子どもがひきこもりになりかけたら|上大岡トメ|第2話 トメ meets「結」|コミックエッセイ劇場

 

これ、ほんとそうだと思います。私は自分の経験上、「ひきこもり」と「非モテ」の問題に興味を持っているんですけど、進路にしろ恋愛にしろ結婚にしろ、親にとっての「いい子」になって、親世代の価値観に適応しすぎてしまった子供は、生きづらくなる傾向があると思います。 

まぁそりゃそうですよね。若者が生きていくのは「今」、そして「未来」であって、30年前の「過去」じゃないんですから。これが親世代なら、周りがみんな自分と同じ30年前の価値観で、その中である意味守られていたりしますけど、若者はそうはいかないんです。

 

80年代以前の日本では、専業主婦世帯が多数を締めていましたが、90年代に逆転して、今は共働き世帯のほうが多数派なんですよね。

親世代って、人数が多いし、社会的に上の立場で発言力もあるから、まだまだ専業主婦世帯が日本のスタンダードみたいな空気が維持されてますけど、実際には、もう共働き世帯のほうが多い。全体の数字でさえそうなので、これが、結婚や子育て真っ盛りの30代に絞ると、共働き世帯の割合はもっと多くなると思います。

つまり、「正しいことを正しいという」とか「めんどくさいやつだかわいくないやつだと言われて生きていく」とか以前の話として、女だったら専業主婦になるのが当たり前という社会は、もう30年くらい前に終わっているんですね。

 

それから、私は過去、毒親である親が私にしたことをブロクで書いて吐き出していたんですが、当時、私のブログをよく読んで下さっていた人のことを思い出しました。その人は母親で、自分自身が親から傷つけられて育ってきて、おそらく娘さんにも同じことをしてしまっていたような、そんな人でした。

その人は、たしか、「傷つけられて育った私は、娘が目立つのが苦手だった。目立たなければ傷つくこともない。そう思っていた」みたいなことを書いていました。そして、娘さんの行動を制限し、そのことで、娘さんは不調になってしまったようなのでした。

 親って、「自分が不安になりたくない」というエゴを、簡単に「子供のため」にすり替えてしまいがちな生き物ですからねぇ……

 

毒親のことをブログで吐き出すのと同時期に、私は、日本の景気が悪かったり少子化だったりするのを、若者のせいにして、若者バッシングをしている、いわゆる「老害」な年長者たちの姿を見て、「老害になる人とならない人の違いって、何なんだろうな……」と思っていました。

そして、「自分が若い時のままで時が止まっている人が、老害になる」という傾向があると気付きました。老害な人ほど「自分はまだまだ若い!」「若者には負けん!」って言ってたりするんですけど、それは、若い時のままで時が止まってるからなんですね。

 

自分が若い時のまま感覚を更新しないでいると、徐々に価値観が古くなって、気付いたら20年、30年も古い、なんてことになってしまいます。これはジェンダー観だけに限りませんよね。仕事や経営、虐待や体罰に対する認識とか、色々な分野においてそうです。

ということは、老害にならないためには、日々、感覚を更新していくことが必要ということになるでしょう。

 

親は高確率で自分より先に死にます。そして、いずれ自分も年を取って、自分より若い世代のほうが多い社会を生きることになります。若いうちは、自分より前の世代の価値観が大多数な世界だから、親世代の価値観に適応したほうが、幸せだし生きやすいんじゃないかと思ってしまいがちですが、長い目で見た時、その生き方は、本当に幸せなんでしょうか。

ただ自分の利益だけを考えて、感覚を更新しない生き方をしてきた人を、若者は尊敬しないと思うんですよね。 

 

東大男子はモテるとかモテないとか

上野千鶴子氏が祝辞で「東大の男子学生はもてます」と言ったことについて、当時、「東大に入ってもモテない」と言ってる人を見ましたが、確かに、学歴が高くて高収入でも、モテない男性はいますよね。高い学歴というのは、十分条件ではなく、あくまでも、一定レベル以上の外見やコミュ能力といったものが備わっていた場合に、威力を発揮してくるものなのかもしれません。

ただ、外見や家事能力やコミュ能力や収入などのレベルが同じ男女がいたとして、「東大」という要素がモテ要素として働くのは、圧倒的に男性のほうでしょう。そういう意味では「東大男子はモテる」と言えると思います。

 

ところで、私はこれまで「非モテ」問題に興味を持ってきたと言いましたが、たまに「頑張って勉強していい大学に入ったのに、女の子にモテない!」と言ってる人を見かけます。私は、これは「数学頑張ってるのにバスケ上手くならない!」って言ってるみたいなものだなと思います。学歴で手に入るのは、知識とか研究ノウハウとか就職における有利要素とか、そういうのであって、付き合う相手じゃないんですけどね。

こういうこと言う人って、決まって男性なんですよね。女性の場合は、外見や家事能力やコミュ力を問われるのが当たり前なので、学歴だけではモテないということを知っているからでしょう。

 

私は、これも、親世代の価値観に過剰適応してしまった例なんじゃないかと思います。「真面目に勉強して仕事を頑張っていれば、自動的に女の子をあてがってもらえる」というのは、お見合い時代の価値観ですね。でも、お見合いが主流だった時代って、何十年前なんでしょう?

親や上司や親戚の人が、お見合い相手を探してきてくれるという環境でないのならば、真面目に勉強して仕事頑張ってるだけじゃ、付き合う相手をゲットできたりはしません。自由恋愛って、自分で営業活動する必要があるってことですから。いくらいい商品だけがそこにあっても、宣伝しなかったら売れないですもん。

 

「東大に行くための努力ができる環境」について

過去記事『貧乏人の私がおしゃれになるためにしたこと』でも書いたエピソードですが、私の母はブラジャーを買ってくれない人だったので、私は、ワコールやトリンプで売ってる4000円前後のブラジャーを、なんとなく「贅沢」だと思って、ずっとユニクロのブラジャーを「ちゃんとしたブラジャー」だと認識していました。他のブラジャーも色々試した上でユニクロのブラジャーに落ち着くんじゃないくて、下着専門メーカーで売ってるブラジャーを自分が買うということを思いつかなかったんです。よくよく考えたら、4000円前後のブラジャーなんて、普通なんですけどね。

 

虐待を受けて育った人には、これに似た話がよくあります。例えば、医療ネグレクト*1を受けて育った人は、大人になっても、医療機関にかかる習慣が身についてなかったりします。「自分は、病院に行ってもいいんだ」と思えない、あるいは、そもそも病院に行くという発想自体がないのです。

私も医療ネグレクトを受けていた期間がありましたが、医療機関で自分のケアの仕方を教えてもらって、かつ、「医療機関にかかれるんだ」と思えるようになったことで、やっと自分で自分をケアできるようになったのです。ほったらかされていた人は、自分をほったらかしてしまうのです。

 

「東大に行くための努力ができる環境がない」っていうのは、このブラジャーや医療ネグレクトの話に似ていると思います。最初から、東大に行くという発想自体がないのです。

 

 

*1:必要な治療を受けさせない虐待のこと

「人権派」な人の性加害案件を見て、父の精神的虐待を思い出した話

www.buzzfeed.com

 

人権派」と言われ、弱い立場の人々に寄り添った活動をしてきた人が、セクハラやレイプをしていたことが発覚して、多くの人が「まさか、あの人がそんなことをするなんて」という反応をしているらしい。でも、私は特に驚かない。「ああ、父に似た人なのかな」と思うからだ。

私は今のところ、父が女性をレイプしたという話は聞いたことがないし、私自身が父から性的虐待を受けていたわけでもない。ただ、「反差別」で「人権派」な思想を持っていた父親が、一方で家族を抑圧し、娘の私に精神的に寄りかかって甘えていたことが、この構造と共通した部分があると思うのだ。

あと、最初に言っておくが、この手の人は右にも左にもいる。違いがあるとすれば、周囲の反応のほうだろう。

 

父は、自分に対する「NO」を受け付けない人だった。なので、私は、娘の好みなどわからない父親が買ってきたダサい服を、もらった時に「ありがとう」と言って受け取るだけでは済まず、父と一緒に出かける時にわざわざ着て、「これ気に入った!」と言って喜んであげなければならなかった。飲食店で父が食事を頼みすぎても、苦しくても全部食べてあげなければならかかった。その影響で、私は会食恐怖症の後遺症を抱えることになった。

これは、アルハラの構造と同じだ。アルハラする人というのは、自分が勧めた酒を断られた時に、「相手の体質上、これ以上飲めないのだ」ではなく、「自分が拒絶された」と受け取る。ハラスメント気質の人にとっては、部分的な拒否が、自分への全否定に変換されるのだ。

 

父のこういう性格に、他の家族メンバーは全員困らされていた。子供たちは、反抗期になっても、当然こんな父親だから、反抗心が湧き上がるのだが、実際にそれを父の前で出すことはせず、父の前では「いい子供」を演じていた。

父は「良い父親」という自己イメージ、そして、「子供との良好な関係」を望んでいたのだろう。その望みは、本来であれば、子供の気持ちをちゃんと聞くなど、地道に相手と向き合って構築するべきものだが、父は、自分の物語に子供達を無理矢理付き合わせた。子供たちが父の物語に沿わない態度を見せると、不機嫌さによる無言の威圧や、声量は大きくはないが低く鋭い声の調子という、微妙な感情の表出によって、子供達を押さえ込んだ。

おそらく、こういった父の「癖」は、父自身は全くの無自覚だっただろう。もし私たちが指摘しても、「自分はそんなことしていない」「嫌なら断ればいい」と否認し、認めなかっただろうと思う。

 

一方、父は「反差別」で「人権派」の思想の持ち主だった。在日コリアンや障害者や部落差別や発展途上国支援などの問題が、父の関心の対象だった。私がネトウヨにならなかったのは、父の教育があったからとも言える。このことは、父の中では、何も矛盾はなかっただろう。「弱者の側に立つ人」「子供を思う良い父親」というのが、父の自己イメージだったであろうから。

父の知り合いの人と会った時、「あなたのお父さん、優しい人でしょ?」と言われて、何とも言えない気分になったことがある。父は「その人に対しては」優しかったのだな、と思った。

 

両親からの依存の影響で精神を病み、心理カウンセリングを受けて、徐々に回復していく中で、父に本音をぶつけてみようとしたことがある。父と話す機会があった時に、これまで不満に感じていたことを言ってみようとした。

だが、父は相変わらず、不機嫌さによる威圧感と、低く鋭い声の調子によって、私の言葉を遮った。私が何か言おうとしても、その上から言葉を被せてきて、全く聞く耳を持たなかった。そして、沖縄の米軍基地問題と、グアム島先住民族が、その歴史上、いかに支配を受けてきたかについて話し出した。

私は、この時ほど、父の「人権派」な内容の話を、虚しく聞いたことはなかった。「あー、この人には、何を言っても無駄なんだなぁ……」と、冷めた諦めの気持ちになった。

 

id:watapoco 自分の知る限りだけど(サンプル少ないけど)、典型的なこの世代の社会運動に関わる男性。問題は自分の外にある、という世界の認識の仕方なので、自分を振り返れないの(もしかしたらその能力そのものがない)。

 冒頭に挙げた記事についていたブックマークコメント。これはまさに私の父だ。父が関心を持っていた問題は、父にとって「自分の外」にある問題であり、そういう問題に対しては、父は共感し、助けになりたいという思いが持ち上がったのだろう。そして、実際、そんな父に助けられた人もいたかもしれない。

だが、自分の内側にある問題、身近な女性と子供への抑圧については、父は全く自分を振り返ることができない人だった。

 

しかし、これは何も、父に限ったことではないのだと思う。支配・被支配の関係というものは、傍から見ればそれが明白であっても、自分がその関係の中にいる時は、被害者の立場の人ですら、その構造が理不尽な支配・被支配の関係なのだと理解しにくくなってしまう。

他人のことなら「それってレイプじゃん!」「毒親じゃん!逃げて!」と思えることでも、自分が受けた被害については「自分が悪かったのでは……」「この程度では虐待とは言えないんじゃ……」と思ってしまう。加害者なら尚更で、自分が加害しているという意識すらないし、ともすると自分のほうが被害者だと思っていたりする。

虐待被害者の話で、自分の親が虐待のニュースを見て「子供を虐待するなんて、信じられない!」と言っていたというのは、よく聞く話だ。

 

今回、7人の女性から性被害を告発された広河氏の振る舞いは、ネット上の記事を読む限り、書籍『部長、その恋愛はセクハラです!(牟田和恵・著)』に書かれているような、「女性部下からの尊敬を好意と勘違い」→「本来の目的を言わず、仕事にかこつけて誘う」→「同意を得ずにいきなり押し倒す」という、職場におけるレイプの典型例だった。

また、広河氏の「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」*1という認識は、性暴力加害者によく見られる、「自分が望んでやったのではなく、相手が望んだからやってあげたのだ」という認知の歪みと共通している。

 

おそらく、広河氏は、言い訳ではなく本気でこう思っており、「人権派」で性暴力被害の取材もしている自分自身と、職場の女性に手を出した自分自身とは、彼の中では全く矛盾なく両立していたのだろう。

そして、ここからはあくまでも私の推測だが、「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりした」という部分が、広河氏の望みだったのではないだろうか。つまり、「女性に求められる自分」という自己イメージを保つために、地道に女性との関係を築くという、本来やるべきことをするのではなく、不機嫌さと周囲への威圧によって、部下の女性たちを無理矢理自分の物語に付き合わせ、居心地のいい錯覚の世界を、自分の半径5mくらいに築いていたのではないだろうか。ちょうど、私の父がそうしていたように。

 

「相手が自分に魅力を感じたんだ」という、妙な自信があるわりには、性行為という本来の目的を明らかにして誘うのではなく、最初は「写真を教えてあげる」などと、仕事にかこつけて誘うのが、この手の人たちの特徴でもある。自信があるのなら、本来の目的を言って誘えばいいのだが、なぜか彼らはそうはしない。

理由として、ひとつには、本当は無意識下では、仕事の上での尊敬しかされていないとわかっていることが考えられる。もうひとつは、相手から「NO」と言われることが死ぬほど嫌い、というよりは、怖いのだと思う。相手からの部分的な拒否が、自分に対する全否定に変換されてしまう。「女性に求められる自分」という自己イメージが壊れることに、精神的に耐えられないのではないだろうか。だから、無意識のうちに、相手が「NO」と言えない状況に追い込む手段を取ってしまう。

 

『男が痴漢になる理由』の著者であり、性暴力治療プログラムに携わってきた斉藤章佳氏は、DVや性加害をする男性の根底にあるものは、「恐怖」だと語る。

斉藤:男性がもっとも向き合いたくない感情のひとつが“恐怖”なんです。

雨宮:恐怖ですか……?

斉藤:自分よりも立場が弱い存在から、攻撃されたり、排除されたり、自分の存在意義を否定されたりすることへの恐怖ですね。

攻撃的な人・性暴力を振るう人の根底には恐怖の亡霊が住み着いています。本来、この恐怖を認めることができれば楽なんですけど……。男性は“男らしさの教育”の中で、そういった訓練を受けてないんですね。男性の一番のウイークポイントは「自分の弱さを認められない」ってことではないかな、と思います。

”恐怖”という亡霊が生み出す過剰な攻撃性 - 雨宮処凛×斉藤章佳 対談

私の経験上、この手の人は、自分より立場が弱いゆえに依存している相手から、直接「嫌だ」と言われても、まともに聞けないだろうと思う。彼らにとっては、弱者からの拒否は恐怖なのだ。こういう人からは距離を取るしかないし、もし言うとしたら、彼が依存対象としていない、第三者に言ってもらうしかない。

 

ちなみに、私の母親はというと、母自身も父の横暴さに困っていながら、私と父との関係を「仲がいい」と思い込んで、「あんたは、お母さんには、そうやって反抗するのに、お父さんが誘うと、嬉しそうについて行って……」などと言っていた。

父と母はある意味似た者同士というか、母もなかなかの毒親で、私に精神的に依存していた。母は、私が父にさせられていたようなご機嫌取りを、自分にもしてほしかったのだと思う。だが、母には私を威圧して黙らせる能力がなかった。その点については、母は父よりマシだったが、当時の母にとっては、そうではなかったようだ。

 

おそらく、職場でも、このような構造はあるのではないだろうか。横暴なセクハラ上司の生贄になっている若い女性のことを、周囲は「仲がいい」とか、「体を利用して上司に取り入ってるんだ」とまで思っていて、女性が孤立させられてしまうことが。ある種の男性は、「自分だって若い女に手を出したいのに」という嫉妬から。他の人は、荒ぶる神を鎮めておくために、彼女を生贄に差し出したという後ろめたさから。

性暴力被害者の女性にセカンドレイプする男性たちの中には、「お前はどうせ、俺にはやらせないんだろ。俺だって同じことがしたい」という思考回路の人がいるが、ある意味、私の母に似ているのかなと思う。

 

父を「優しい人」だと言った人の感覚を、私は否定するつもりはない。その人にとっては、確かに父は優しい人だったのだろう。一方で、私が父に感じていた抑圧も、否定されるいわれはない。そして、両者は矛盾しない。

「まさか、あの人が」と思う場合、あなたはたまたま、彼あるいは彼女の依存対象にならなかったというだけのことなのだ。

 

 

※私が父から受けた抑圧を、もう少し具体的に書いたブログ記事。

d.hatena.ne.jp

 

 

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

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男が痴漢になる理由

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西武・そごうの、女性差別をテーマにした広告から読み取れるもの


【西武・そごう】わたしは、私。オリジナルムービー

www.sogo-seibu.jp 

西武・そごうの、女性差別をテーマにした広告に、Twitter上で疑問の声が上がっている。

まぁ、広告が表現したかったことはわからないでもない。挑戦だったのだろうとは思う。けれど、パイを投げた人たちの存在が透明化されているところや、女性が怒ってないところが、大手メディアで女性差別をテーマにした表現をする上での、現時点での限界なのかなと思った。

 

この広告ムービーにおけるパイは、女だからといって強要されること、無視されること、減点されること、女性が受けるセクハラや性暴力といったものの比喩なのだろう。しかし、女性にパイを投げる人たち(まぁ、大半は男性だろう)は、最初から最後まで登場しない。パイは最初から、何もない空間を漂っている。

投げつけられた後も、彼女の顔についたクリームを拭ってケアする他者が現れるわけではない。女性は、自分でクリームを拭い、他人に助けを求めるわけでもなく、投げつけた人に対して怒るわけでもない。結局、一人で耐えて対処して、怒らないというのは、よくある、加害者側にとっての「理想的な被害者像」に近いものだ。

 

差別は、差別される側ではなく差別する側に問題があるのに、差別される側ばかりに焦点が当てられ、差別される側がどう対処するか、どう生きるか、どう考えるかといったことばかりが語られるわりには、差別する側には焦点が当てられず、どう振舞うか、どう考えるかなどといったことも語られず、透明化されるというのは、差別問題あるあるなので、差別を扱った表現をするならば、当然そこに対して突っ込みは入ってくるだろう。

 

往々にして、差別する側は、自分を「観客」の位置に置きたがる。差別される側が自分たちで頑張って対処している分には、「差別は良くないよね」「差別を乗り越えて頑張って!」などと言っていても、差別する側に対して怒りや抗議の声を向けてきたり、「いや、これはあんたらの問題だろ」と言われたりすると、不快感をあらわにすることが多い。

つまり、この広告は、西武・そごうの偉い男性や、この広告を見るであろう男性たちを「ご不快」にさせない範囲での女性差別の表現に留まっており、そこが、日本における2019年1月時点での、大手メディアでの女性差別をテーマにした広告の限界を表しているように思えるのだ。

 

www.ted.com

“ 「ジェンダー・バイオレンス」は、総じてこう捉えられてきた。「善き男性が助けるべき女性の問題」。でも、私は正しいと思えない。受け入れられない。「善き男性が助けるべき女性の問題」ではない。何よりもまず問題があるのは、男性の方なのです。”

 

 

あと、キャッチコピーの「女であることの生きづらさが報道され、そのたびに、『女の時代』は遠ざかる」というのも、ちょっと意味がよくわからない。

例えば、いじめが蔓延しているにもかかわらず、「いじめ0」などと言っている学校と、いじめが蔓延していることが明るみになってきた学校とでは、どちらが良いだろうか?報道すらされない時代のほうが、女はより生きづらい。むしろ現時点では報道が足りない。もっと報道されるべき。

 

なんか、最初にこれを作ろうとした人は、女性差別をテーマに挑戦的なものをやりたかったのかもしれないけど、結局、会社のおじさんたちのご機嫌を損ねないようなものしか作れなくなって、よくわからないものができあがってしまったのかな、という感じ。

動画の最後に、安藤サクラと同じようにパイを投げつけられた女性たちが、一人、また一人と集まってきて、女性たちが一斉にパイを投げ返すという終わり方だったら、まだ少しはワクワクできたかもしれないけれど。

 

2004年、ペプシコーラのCM『We Will Rock You 』。女同士で戦うのをやめ、観客に揺さぶりをかける女性たちと、最後に観客席から落ちる「偉い男」。


Pepsi Commercial HD - We Will Rock You (feat. Britney Spears, Beyonce, Pink & Enrique Iglesias)

 

[2019.1.4. 追記]

西武・そごうは、2017年版に樹木希林を起用したCMを作っているが、同じ「わたしは、私」でも、こちらはとても好評だった。


【西武・そごう】わたしは、私。樹木希林さんスペシャルムービー

 

2017年版では、「年相応にとか、いい年をしてとか、つまらない言葉が、あなたを縛ろうとする。」と、年配女性に対する抑圧をテーマにしている。こういった抑圧をしてくる人たちは、その女性と同年代かそれ以下の人たちということになるだろう。そして、男女でそれほど差はないだろう。また、樹木希林のような年配の大物女優だと、会社の偉い男性たちにとっても、敬意を払う対象になるのではないだろうか。

一方で、2019年版でテーマになっている抑圧は、大半が男性から女性へ、年上から年下へ、立場が上の者から下の者への抑圧だ。演じている安藤サクラも、会社の偉い男性たちからすれば、目下の女性ということになるのだろう。

 

2017年版では、ちゃんと筋の通った良いものができていたのに、2019年版はとっちらかってしまっているのは、要するに、リスペクトの差なのではないだろうか。

抑圧する側に圧倒的に男性が多く、目上から目下になると、丁寧さや敬意が目減りし、捉え方が雑になるという社会の縮図が、この2つのCMの違いに現れていると思う。

 

炎上しない企業情報発信 ジェンダーはビジネスの新教養である

炎上しない企業情報発信 ジェンダーはビジネスの新教養である

 

日本酒を女性に買わせたければ、男目線じゃないCMを作れ説

 

上のTweetに、多くの人が「なるほど!」と納得していた。私は日本酒おいしいと思っているのだけれど、それは、私自身が下戸で、外飲みはほとんどせず、従って、飲み放題コースの酒を飲んだことがなく、日本酒デビュー(というよりも、酒デビューそのもの)が正月のお屠蘇だったので、日本酒好きになったのかもしれない。正月になると、だいたい親戚の叔父が、純米大吟醸あたりを買ってきていて、それで最初の酒の味を覚えたのだ。もっとも、下戸なので、舐める程度にしか飲めず、銘柄には全く詳しくならなかったのだが。*1

 

さて、女性に日本酒を飲んでもらおうという試みはよくあって、その多くは、口当たりがまろやかで、甘口で、アルコール度数が低く、時にはスパークリングさせた日本酒を、「女性向けの日本酒」「女性にも飲みやすい日本酒」と言って提供することのようなのだが、女性といえば甘口を好むものだというのは「本当だろうか?」と思ってしまう。

 

そういうことよりも、私がそれ以上に、女性の「日本酒不人気」に影響を与えていると思うのは、日本酒のCMの多くが、男性目線で作られていることだと思う。よくあるのは、人気女優が居酒屋の美人女将を演じていたり、こっちを向いて「ねぇ、ちょっと間接キスしてみ?」と言うなど、女性と一緒に飲むシチュエーションだったり。あなたのお世話をするのが幸せだという歌詞が流れているCMは、今時違和感を覚えるほどに感覚が旧かった。全体的にかなりジェンダーが偏っているように思える。

 日本酒は、こういった演出のCMによって、なんとなく男性向け&年長者向けのイメージがついてしまっているのではないだろうか。ワインが、ことさらパッケージを女性向けにしていなくても、女性に売れているのは、そういったイメージがないからだと思う。

 

また、女性は得に、飲みの席で、パワハラから発展したセクハラに遭うことが多い。「日本酒=おっさんによるアルハラ・セクハラ」というマイナスイメージがついてしまっていることによる、日本酒不人気があるのかもしれない。

そういえば、永井荷風は、小説『一月一日』の中で、日本料理で正月を祝う在米日本人たちが集う中で、金田という日本酒・日本料理嫌いの人物を登場させ、その理由を「母を泣かしめた物」と言わせている。金田の父親は茶人で料理にうるさく、いつも母親が出す酒や料理について叱っていたからだという。

お分りになりましたらう。私の日本料理、日本酒嫌ひの理由いはれはさう云ふ次第です。私の過去とは何の関係もない国から来る西洋酒と、母を泣かしめた物とは全く其の形と実質の違つて居る西洋料理、此れでこそ私は初めて食事の愉快を味ふ事が出来るのです。

永井荷風 一月一日 - 青空文庫

 

これは、数年前に言われていた「若者のビール離れ」の構造とも共通していると思う。若者は、上司のおっさんたちとの、アルハラを含んだ酒の席が嫌いなのであって、ビール自体を嫌いなわけではないのだけれど、おっさんのアルハラのせいで、ビールまで良いイメージが持たれていなかった。

だが、最近は若者の間でもクラフトビールは好まれている。そして、クラフトビールは、上司との飲みではなく、友達とビアバーやオクトーバーフェストに行って飲むイメージだ。これは、飲みの席での「とりあえずビール」ではなく、個人の好みで酒を味わいたい若者のスタイルと合致した。ビールにまつわるマイナスイメージが払拭されれば、若者も普通にビールを飲むということだ。

 

そもそも、他の酒で、わざわざ「女性でも飲みやすい」と言うことはあまりないので、逆に言えば、日本酒がそれだけ「男の世界」になってしまっているということだろう。そこが、味以前に女性から敬遠される原因なのではないだろうか。味だけで言うなら、性別よりも初心者かどうかのほうが、好みに影響を及ぼしそうな気がするけれど。

そして、これはどの業界にも言えることだけれど、もしその業界で性差別やセクハラが蔓延している場合には、作り手側のそういう空気はなんとなく表に出てくるものだし、真に女性にアプローチできるものを作ることは難しいと思う。

 

さて、若い女性が一人で日本酒を飲むシチュエーションといえば、漫画『ワカコ酒』があった。酒呑みの舌を持って生まれた26歳の女性・村崎ワカコが、一人で酒と肴を味わうという内容で、女性&上戸版の『孤独のグルメ』とも言われている。

ワカコ酒』の特徴は、ワカコがほとんど無表情で酒を飲み、肴をつつき、旨さの感覚が頂点に達したところで、口から「ぷしゅ~」という擬音を発するのだけれども、その時のワカコの表情までも、ある種様式化された表情で描かれているところだ。

 

若い女子の一人酒」というのはつまり、サラダのとりわけとか、会計はいったん男性に払ってもらってあとで割り勘するとか、はたまたそもそも自分で料理を作るべし、といった、やるにせよやらないにせよいろいろメンドくさい食まわりの「役割」からつかの間解放されて、ただただ「味わう」ことに集中できる環境、ってことなのだと思うのだ。色っぽさをわざと発生させない無表情+「ぷしゅー」という擬音、という表現が、それをきちんと成立させている。

おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』 NTT出版Webマガジン -Web nttpub- 第106回 『ワカコ酒』 新久千映(徳間書店)

上の記事では、同じく女性の一人飯を描いた『花のズホラ飯』と、『ワカコ酒』とを対比させる形で書かれているが、『花のズボラ飯』のほうは、旨さの感覚が極まった瞬間の表情が、性的快感を連想させるような画で描かれているのに対し、『ワカコ酒』のほうは、色気とは無縁で、 男目線が入っていないことに良さがある、ということである。

 

この漫画はドラマ版とアニメ版が製作されたが、ドラマ版は、原作の良いところをいまいち掴みきれていないのではないかと思う。

ドラマ版のほうは、若い女性が酒の席で求められがちなもろもろのことから離れ、男目線を意識せず、ただ目の前の料理を楽しむという、この漫画を多くの人が支持した要素が、いまいち感じられない。ワカコ役の女優さんの表情も、どこか色気を意識しているというか、「お酒を飲む女の人っていいよねー」という男目線から作られているように見えるのだ。

これがもし、『女が一人で呑む時はね、誰にも邪魔されず 自由で なんというか救われてなきゃあダメなんだ 独りで静かで豊かで……』という描き方だったら、もっと女性からの共感を得られたかもしれないのに……

ちなみに、アニメ版は原作に沿った内容で、良い。声優さんの演技も、一人でおいしいものを味わっている感じがする。

 

ワカコ酒 原作サイト
www.zenyon.jp

www.zenyon.jp

 

ワカコ酒 アニメ版


アニメ「ワカコ酒」もうすぐ放送だプシュー(ワカコ役:沢城みゆき NAver.)

 

ワカコ酒 ドラマ版


ワカコ酒 Season3 第12夜「特別な旨さ、和牛たたき」 | BSジャパン

 

日本酒は、女性に売りたいのなら、女性を「飲みの席でのお酌役」から解放し、女性の一人暮らしや、共働きで家事折半の夫婦関係を前提としたCMを作ったほうがいいのではないだろうか。そして、もうひとつ付け加えるならば、若い女性を見つけるとウンチクを垂れたくなるマウンティングおじさんに、お引き取りいただくことだろう。

 

 

ワカコ酒 1 (ゼノンコミックス)

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オンナの日本酒――女性のハートが選ぶお勧めの酒

オンナの日本酒――女性のハートが選ぶお勧めの酒

 

 

*1:※本来のお屠蘇は、屠蘇散を日本酒やみりんに浸したものらしいが、うちでは清酒

中高6年間、自分で弁当を作って持って行っていた私が思う、「給食か弁当か」問題

nlab.itmedia.co.jp

 

タイトルの通りである。私の両親は共働きだったので、中学高校と6年間、自分で弁当を作って学校へ通っていた。なので、こういう「給食か弁当か」問題については、色々言いたいことがある。

結論から先に言うと、「『弁当か給食か』の議論は、私のような子供の存在を基準にして考えろ」だ。そして、そこから導き出される結論は1つ。「給食が最善。論点は予算の問題だけにしろ。余計な精神論を混ぜるな」だ。

「お弁当を作りたいお母さんの気持ち」?それよりも「弁当を毎日作らざるを得ない子供の気持ち」を考えろ!

 

そもそも、公教育は、家庭の事情がバラバラな子供たちに、ある程度均一な教育を与えるためのものであり、その点に立ち返るなら、家庭の事情がバラバラな子供たちの食事事情を補うためにも、給食が望ましいのは当然の話である。

成長に必要なものを与えられる環境で育つのは、子供の権利であり、子供がその権利を享受できるようにするのは、大人の義務だ。この義務は、親の個人個人が、各々の子供に対して持つものばかりではなく、この社会の大人たちが、子供全員に対して、共同で持つものである。

だから、うちの子はいいが他所の子は知らんというのは、社会における大人の責任を果たしているとは言い難い。うちの子も他所の子も権利を享受できるよう、制度を整えるのが大人の役割であり、行政というものだ。だから、「給食を望む親は、手抜きがしたいだけ」などと言うのは、全くの的外れなのだ。

 

さて、肝心の子供は、給食と弁当について、どう思っているのだろうか。

小学生時代、クラスで「給食か弁当か」という討論会をやったことがあった。多くの子供は「弁当」側につき、私を含めた少数が「給食」を主張した。なぜ多くの子供が「弁当がいい」と言ったのかというと、「給食当番をしなくて済むから」だった。

一方、給食派の子供の主張は「毎日弁当だと、飽きる」が主な理由だった。実は、給食派の子供のほとんどが、私と同じ両親共働きの子だった。つまり、夏休みなどの長期休暇で、毎日弁当が続く日々を実際に体験したことがある子たちだったのである。弁当は、遠足や運動会などの1日だけなら、イベント的で楽しいが、毎日だとバリエーションが少なくて飽きるということを、身を持って知っている子たちだった。

要するに、子供たちにとっての「給食か弁当か」は、「楽をしたい」と「飽きる」の攻防であって、そこでは、「お母さんの愛情」は話題にならなかったのである。

 

私自身は、親が弁当を作ってくれたら、それはそれで嬉しかったけれど、それは単に「自分で作るのめんどくさいから」という理由であって、給食があれば解決する問題だった。子供でも、親が仕事で忙しいのはわかっていたし、そんな親の手を煩わせず、私もめんどくさい思いをせずに済む方法があるなら、それが一番良かった。

今から思っても、特に「親に」弁当を作って欲しかったとは思っていない。私が本当に親にして欲しかったのは、弟と接し方で差をつけないで欲しかった、自分の不安感から私の進路に介入しないで欲しかった、私の興味があることを抑圧しないで欲しかった、子供に謝るのは父親としての威厳を傷つける行為ではない、双方の愚痴を私にぶつけてくるなとか、そういうことだ。要するに、もっと私の気持ちを尊重して欲しかったのだ。

 

給食を食べさせたり、弁当に冷凍食品を使ったりすることを、「手抜き」と言う向きがあるが、子育てのうち、最も手を抜いてはいけないのは、「子供の気持ちを聞くこと」だろう。これは、場合によっては、弁当を作る以上にめんどくさいことであり、そして、親側に余裕がないとなかなかできないことだ。

その余裕を作っておくために、家事の「作業」に当たる部分で、手を抜けるところは抜き、効率化するのは、とても理にかなったことだと、私は思う。「手抜き」でない弁当を作ることに必死になって疲れ果て、子供の気持ちを聞く余裕がなくなってしまっては、元も子もないのだから。

 

だいたい、この「お母さんの愛情弁当」的な議論において、肝心の「子供の気持ち」というものは、どうなっているのだろう。

弁当を取り巻く「彩りを良くしないと…」「冷凍食品は手抜きだと思われるんじゃ…」「キャラ弁作らなきゃダメなの…?」という、親御さんたちの気持ちは、なんだか、目の前の子供に向けて作っているというよりは、社会とか世間様とかのほうを向いて、「そうしないと、ダメな親だと思われるんじゃないか」と、顔色を伺っているような気がする。

でも、「子供の気持ちよりも世間体のほうが大事」というのは、毒親の特徴でもある。そして、これほどまでに母親に対して「良い母親たれ」という圧力をかける日本社会は、毒親を生み出しやすい土壌でもある。

 

—— たしかに、『母がしんどい』では、主人公のエイコさんのお母さんが、「自分はいい母だし、いい母娘関係にある」、と主張しつづけますよね。まさに、社会が提示する「お母さん像」に、エイコさんのお母さんが押しつぶされていた、ということなんですね。

田房 そうなんですよ。「毒母」と呼ばれるお母さんたちは、理想の「お母さん像」を押し付けられる窮屈さから生まれてしまうんです。
 『母がしんどい』に共感してくれた人たちに話に聞くと、「毒母」たちに共通していたことは、やっぱり「世間体」をものすごく重視していた、ということでした。

【後編】何もしなくても母性が湧いてくるなんてことはない|いまスゴイ一冊『ママだって、人間』田房永子

弁当って自分や子どものためと思ってきたけど
弁当箱の蓋は社会に向かって開かれていたんだなあ。
しみじみ。

毎日同じメニューを食べるということ: 武蔵野庵 ーごはん、手仕事、日々の徒然

 

私は、「お母さんの愛情あふれる手作り弁当」的なものは、精神論根性論の類だと思っている。精神論とは、考えるのを怠けることだ。自分が今抱えている不安や問題を解決する方法がよくわからない時に、問題に向き合って分析するのではなく、とにかく練習量や作業量を増やして、死ぬほど頑張れば報われると信じたくなる、それが精神論に陥る時の心理だと思う。

ここで言う不安とは、「自分の子供はちゃんと育つのか?」という不安だろう。皆、子育てに不安を抱えているんだと思う。そして、不安な時、人はマニュアルに頼りたくなる。私は、「お母さんの愛情あふれる手作り弁当」信仰を見ていると、恋愛マニュアル本を読んで女性に接する男を思い浮かべてしまう。「女はこうすれば落ちる」「こういう女はいける」とかの。でも、本質はそういうことじゃないよね。恋愛でも子育てでも、人と接する上で肝心なのは、「相手の気持ちを聞く」だと思う。

 

そもそも、弁当とは、単なる昼食である。一日三食のうちの一食に過ぎない。持ち運び用に作られた昼食、これが弁当だ。家で食べる昼食なら、「今日は素麺ね」みたいなこともあるだろう。*1

だから、一日のうちの一食を、そんなに特別視して信仰することもない。一食が他人の手で作られた食事だったとして、別に家庭で食事を作らなくなるわけでもあるまいし。というか、食事を作らない家庭の子供の場合は、むしろ給食が必要だ。そして、そういう家庭の親は、食事を作れと言って作るものではない。

 

ちなみに、うちの親は全く弁当を作らなかったわけではなく、遠足や運動会といったイベントの時は、早くから起きて、私の好物を入れた弁当を作ってくれた。そういう時の弁当は特別感があって、嬉しかった。

休みの日には、家族で弁当を作って、公園に出かけて行くこともあった。「食育」ということを考えるのなら、余裕のある休みの日に、親子で一緒に弁当作りをするほうが、食育になるのではないだろうか。

また、私の父は普通に家族のために料理を作る人だったので、私はおやじの味とおふくろの味で育った。

 

思うに、こういった弁当問題は、「母親が作るもの」と見なされているから、手抜きがどうのこうのと言われるのではないか。もし父親の育児参加が当たり前になったら、すぐ「給食のほうがいい」ということになるだろう。なぜなら、男性たちは、女性にさせるケア労働には、無駄に手間をかけることを要求するけれど、いざそれが自分の仕事になった途端、問題解決能力の高い男性らしく、効率的かつ合理的な方法を選択するであろうから(笑)。

すっぴん通学で自分の用意だけしていればいい高校生の私ですら、毎日の弁当作りはクソめんどくさかったのである。世のお母さんたちは、この上、朝御飯作って化粧して子供たちの用意もして、それで弁当作りでしょ?やってられるか!

 

 

小林カツ代のおべんとう決まった! (講談社のお料理BOOK)

小林カツ代のおべんとう決まった! (講談社のお料理BOOK)

 

 

*1:この考え方は、料理研究家小林カツ代氏の弁当作りに対する考えとも共通している。 小林カツ代さんの料理哲学 - Togetter