宇野ゆうかの備忘録

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「快・不快」の不均衡~ヘテロ男性は、自分にとって不快なエロ表現への配慮に気づいていない

胸を強調した女性の絵が表紙のラノベが、子供も目にするところに積まれていた件*1について、田中圭一氏がある女性と話したことらしいが、この件については、こういう個人レベルの快・不快の問題というよりは、社会のどの層の人たちにとっての快・不快の感覚が優先されているかということが、問題の本質だと思う。
今回問題になっているのは、ジェンダーの快・不快問題だ。多くのヘテロセクシャル男性にとっての快・不快の感覚が優先され、多くの女性や同性愛者にとっての快・不快は軽視されがちなことが、根底にある。


ヘテロ男性の多くが「快」と感じ、女性の多くが「不快」と感じる表現が、普段目にするところでさえ溢れているというのは、よく認識されていることだが(認めない人も沢山いるが)、実は、これと対になっている現象として、ヘテロ男性が「不快」と感じる表現は、あまり表に出されないという側面がある。女性も同性愛者も、ヘテロ男性に「配慮」しているのだが、多くのヘテロ男性たちは、自分たちに対してそういう「配慮」がされていることに、気づいていない。


そういう「配慮」の存在は、例えば、『弟の夫』の中で、著者の田亀源五郎氏が、あえて男性のシャワーシーンを「サービスカット」的に入れるということで、可視化している。

田亀 男性向けのマンガだと、女の子のパンチラとか入浴シーンって、定番じゃないですか。それを「サービス」という形でやっている。それを男性でやると「ギョッ」とするでしょ? ……というのをヘテロ読者に体験してもらいたかった。

——男性向けマンガのサービスショットを女性が見た時には、ひょっとしてこういう居心地の悪さを感じているのかな? とも思いました。

田亀 それを結論づける必要はないと思いますよ。ただ、ひょっとしたら、そう思っている人もいるのかな? と、そういうことを感じてもらえたらおもしろいですね。
「なんでこんなところに男の裸が出てくるんだ?」と思ったら、それはすでに常識に取りこまれているということなんです。

『弟の夫』田亀源五郎インタビュー ゲイコミックの巨匠が“ホームドラマ”のなかに盛りこんだ、ヘテロへの「挨拶」と「挑発」

 

他の例では、2008年に起こった「蘇民祭」ポスターの件が挙げられるだろう。*2男性たちが裸で行う荒々しい祭りの様子を撮ったポスターで、当初は電車に張り出される予定だったが、鉄道会社側が「男性の裸に不快感を覚える客が多い」「女性が不快に感じる図柄」という理由で、取り下げにしてしまったのだ。

これに対して、ネット上では、「エロを喚起させる女性の半裸中釣り広告については、これまでずっと『不快だ』と言っても取り下げてこなかったのに、男の裸ならすぐ取り下げるのか」「結局、男性社会である鉄道会社の人にとって不快だったからなのでは」「こんな時に限って女を理由にする」と言っている女性たちが沢山いた。(なお、私は当時、実際に女性からクレームが入った情報はないかと探してみたが、見つからなかった。)

 

街中で普通に目にしてしまうヘテロ男性向けエロ表現は、ヘテロ男性たちにとって、自分がされても平気なことだから、女性に対してもやっているというわけでは、決してない。むしろ逆で、女性より男性のほうが、自分の性が一方的に性的に描かれた表現に耐性がない傾向がある。女性は、子供の頃からそういう社会で生きてきて、「慣れさせられて」しまっているが、男性には、そういう表現を見ると「バグる」人が多い。

ヘテロ男性は、自分の性が一方的に性的な視線に晒される表現が、個人の趣味の領域だけでなく、公の場でも頻繁に遭遇する社会で生きるということ、そして、実際に社会生活を送っている中で、同意のない状態で、性的に消費されるような体験を頻繁に経験するということを、体験したことがない。体験したことがないから、想像力の乏しい人には、理解できない。理解できないので、「そのくらい、大したことないだろう」という態度を取ってしまう。

 
フェミニストと言われる女性がよく騒いでいるように見えるのは、それだけ、ヘテロ男性の「快・不快」が優先されているからでしかない。2014年、ネット上で「腐女子テロ」と呼ばれた出来事があったが、そういった表現に直面した時の男性たちの騒ぎようは、女性の比ではなかった。

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こういう問題に批判の声を上げる女性たちは、いつも「性嫌悪」のレッテルが貼られるが、ゲイ向けの性表現やBLに対するヘテロ男性たちの反応を見るに、ヘテロ男性たちのほうが、余程「性嫌悪」に見える。

コンビニのエロ本コーナーについて、よく「日本は性に寛容だから」と言う人がいるが、ヘテロ男性向けだけではなく、女性向けやゲイ向けやレズビアン向けなど、まんべんなく置かれている状況にならない限り、「性に寛容」とは言えないだろう。


ジェンダー以外では、人種や民族表現の快・不快の感覚も、アンバランスになりがちだ。どの人種や民族がステレオタイプに描かれがちか、ヒーローになりやすいか、多く描かれるかということは、ハリウッド周辺ではよく問題になっている。

 2018年は、主要キャラクターのほとんどが黒人で占められている『ブラックパンサー』、主要キャラクターのほとんどがアジア人で占められている『クレイジー・リッチ・アジアンズ』がヒットし、ハリウッドの歴史上、画期的な出来事として受け止められている。言い換えれば、2018年でやっとここまで来た、ということでもあるのだろう。

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ところで、最近はキズナアイを使ってノーベル賞の解説をするNHKのサイトが、ジェンダー的に不均衡だと問題になっていたが、どうせVRの技術を使うなら、女性や同性愛者の「快・不快」の感覚が優先され、ヘテロ男性の「快・不快」の感覚が軽視される社会を、バーチャル・リアリティで再現してみればいいのでは。最先端の技術を使った表象が、なぜかことごとく美少女型になる現象よりは、ずっと感覚が新しいと思う(笑)。

 

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