宇野ゆうかの備忘録

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お笑いと人権意識とブスいじり―それは誰にとって面白いのか

www.huffingtonpost.jp

せやろがいおじさんが、過去の発言に「女性蔑視」と指摘がきて、よく考えてみた末に、自分が無自覚に女性差別をしていたと気づいたエピソードが載っている。このことについて、インタビュアーがこういう問いかけをしている。

ーーまた、お笑い芸人と社会派のネタ、なんなら多様性を大事にする主張は少し相性が悪いと感じます。人を傷つけない笑いもあるけれど、どうしても幅が狭くなってきてしまう。過去の発言や、"リップサービス"のネタの内容などで、せやろがいおじさんファンからの指摘が入ることなどはないですか?

よくある、「ポリコレを守ると、表現の幅が狭くなる」という言説だ。しかし、私はむしろ逆だと思っている。それについては、前回記事『ポリティカル・コレクトネスは表現の幅を狭めるか』で書いた。

 

さて、私は『笑点』が好きでよく見ているのだけれど、過去、ゲストに仲間由紀恵が登場して大喜利をやった時、ネタがことごとく仲間由紀恵へのセクハラになってしまったことがあった。

当時、私はTwitterでこう呟いた。

 もちろん、セクハラそのものが不快だったというのもあるが、「女性ゲストといえばこういうネタ」とばかりに、素人でも思いつくようなネタばかりが連発されてしまい、そのほとんどが、単純につまらなかったのだ。

ただ、これ以降、女性ゲストが来たときに、さすがにこの時のようなセクハラばかりに走るネタは、あまり見なくなったけれども。

 

「ポリコレで表現の幅が狭くなる」と言う時、「それは一体、誰にとって面白かったのか?」という問いが鍵になってくると思う。とりわけ、日本のお笑い業界によくある、女性に対するセクハラネタは、実は、人口の半分以下の人にしかウケないネタだったのではないだろうか。見ている人の半分にしかウケない、どころか、気分を悪くするかもしれない「笑い」って、どうよ?という問題である。

いち女性の感覚としては、まぁ、そういうネタで一応笑うこともあるけれど、その時は、「上司のつまらない冗談に、笑ってあげている」という気分になることが多い。

 

これは、女性よりもっと人口が少ないマイノリティの場合もそうだろう。マイノリティのマイノリティ性というのは、マジョリティ側にいる人間からすると珍しいので、ついついその部分に注目してイジりたくなるけれど、相手は「ああ、またかよ」「それ今まで何回も言われたわー」と思っている可能性がある。とすると、これはあまり芸のないネタだ。

また、芸人ならば、自分をイジられることに同意があるし、イジられることで賃金を得ているけれど、素人は自分がイジられることを了承していない上に、金がもらえるわけでもないので、何一つメリットがない。

 

歴史的な話をすると、アメリカでは、かつて「ミンストレル・ショー」という演芸があった。白人支配的な社会背景の中で、顔を黒く塗った白人が「白人にとって面白い黒人像」を頻繁に演じていた過去がある。そういった経緯もあって、現代では黒塗りで黒人を演じるのはタブーになっている。

 

今のお笑いの世界では、特定のお笑い芸人が「権威」と化してしまい、周囲がその人に気を遣い、何が面白いか面白くないかを、客よりもその人が決めてしまっているような空気になっている面があると思うが(元記事で「干される」と言われている人とかw)、差別のある社会というのも、これと似た構造で、差別に対して無批判なままだと、何が面白いか面白くないのかを、発言力の強い層が決めてしまうような状況になってしまう。

 

私は、「お笑い」というジャンルは、実は最も人権感覚の変化を意識しておく必要がある職種なのではないかと思う。なぜなら、何年か前には笑えていたことが、今は笑えなくなっているということが起こるからだ。ここ10年で、同性愛者を茶化して笑うことは、通用しなくなった。私は、次の10年では、他人に「ブス」「デブ」と言って笑うことは、通用しなくなっていくだろうと思っている。*1

もっとも、どこの業界でも、何十年も前の常識が通用しなくなっていたり、感覚を更新していないと、その世界ではやっていけなくなってしまうというのは、よくあることだから、結局お笑いの世界もそうだということなのだろうけど。例えば、建築の世界では、何十年も前の建築基準では建てられないとかね。

 

そして、人権を意識しながら、鋭い笑いや尖った表現はできるのではないかと思う。というか、そもそも、尖ったデザインの建物と、建築基準を満たしていない雑な設計の建物が、全く違うのと同じで、尖った表現と、人権感覚が更新されていなくて古いものは、全くの別物だ。

後者のようなものを「タブー破り」で「尖った表現」だと勘違いしている自称アーティストとか、よく見かけるけれど、尖っていると思っているのは本人だけで、「古いわー。そういうの沢山あるわー。歴史的に見ても何十年も前からずっとあるわー」と、お寒い気分にさせられることは、よくある。

 

そもそも、「お笑い芸人と社会派のネタは相性が悪い」ということ自体が、ちょっと違うんじゃないかと思う。古代ギリシャの時代から、政治問題や社会風刺を扱った喜劇は盛んだったし、欧米のスタンダップコメディも、政治の話は欠かせない。それこそ、冒頭で挙げた『笑点』では、昔から政治風刺の回答がある。

また、『防弾少年団(BTS)の政治性~政治と音楽は関係あるか』でも書いたが、「政治と音楽は関係ないじゃん!」というのは日本の感覚で、海外では政治的・社会的メッセージを音楽で表現するのは、普通のことだ。

結局、「お笑い」とか「音楽」とかではなく、「現代日本では、政治の話がやりにくい」ということなのではないかと思う。

 

 

さて、せやろがいおじさんが「女性蔑視」と指摘を受けたネタについて、考えてみよう。

内容は「SNSで画像加工した女性を見た後に実物見たら『ブス来たー』ってなりますよね」という発言で。お笑い界では割とよくある文脈です。

指摘に対して、一瞬「そんなつもりないから」「女性蔑視の気持ちないから」という反論をしかけたんですが、よく考えたら傷つく人もいるから、「不快にさせてすいません」と投稿したら、「お前なんも分かってないな」「そういうことじゃない」と反論がきまして。

そこで再度、自分の中で問題を因数分解して、「別に画像加工するのは女性だけじゃなくて男性もいるよな」「なんで女性に限定したんだろう」と思って。そこで、自分が無自覚に女性差別をしていたんだと気づいて。

自分が指摘されて、初めて差別する側は息を吐くように差別するんだなと気づきまして。

 

たぶん、せやろがいおじさんは、「なんで女性に限定したんだろう」というところが、この問題の鍵ということに気づいたのだろう。「なんで」かというと、「女性のほうが、男性より容姿についてあれこれ言われるから」だ。

例えば、もしせやろがいおじさんが女性だったとして(ここで言う『女性だったとして』とは、『若くてかわいい女子だったとして』という意味ではなく、今の自分の容姿年齢学歴収入コミュ力、その他全てのスペックそのままで女になるという意味だ)、特に容姿に関係ないネタをYoutubeで投稿したとしても、わざわざ容姿に言及する男がコメント欄に出現していたと思う。

つまり、せやろがいおじさんが、容姿ではなくちゃんとネタのほうに注目してもらえるのは、せやろがいおじさんが男性だからなのだ。

 

このような社会背景があるのだから、SNSで画像加工する人が、男性より女性のほうが多かったとしても、何らおかしくはない。「美人だと言われてちやほやされたい」という、評価をプラスにする目的よりは、「ブスだという口をあらかじめ塞いでおきたい」という、マイナスをゼロにする目的で画像加工する女性だって、沢山いるだろう。いじめられないための自衛策である。

だから、ネタにされるべきは「SNSで画像加工する女性」よりも、「女と見ればすぐ美人だのブスだの言ってしまう男性」のほうだろう。

 

そして、「女と見ればすぐ美人だのブスだの」という社会背景は、「女芸人といえばブスとデブ」という風潮を作り出してきた。*2芸能界では特にこの傾向が強く、一般社会ではよくいる普通な感じの女性でも、芸能界ではブス枠に入れられてしまう。相席スタートの山崎ケイが、男性の先輩芸人からブスだと言われたのも、この「芸能界の女性のブス基準偏りすぎ問題」によるものだろう。*3

そして、何が面白いかの基準が男性寄りになっているということは、人口のもう半分、つまり女性に向けて笑いが取れる人の才能を潰してきた可能性がある。

joshi-spa.jp

papapico.hatenablog.com

 

女性が容姿に言及されがち問題について、よくある大きな誤解が、「ブスと言うのはダメで、美人だと褒めるのならいい」と思ってるやつだ。女性の場合、容姿に関係ない分野でも「美人かブスか」という評価軸を持ち込まれ、その女性自身の経験やキャリアが無視されてしまうことがよくあるのが、問題の本質なのだ。

例えば、女性差別を含む数々の差別問題に取り組んできたオバマ元大統領でさえ、ある女性州司法長官のことを「ずば抜けて美人だ」と言ってしまったことで謝罪している。なぜなら、彼女は州司法長官としてその場に来たのであって、モデルのオーディションを受けに来たわけではなかったからだ。

 

せやろがいおじさんが、自身の中にある女性への偏見を見つめ直したことについて、称賛するコメントが多くあったけれど、私は、こういう場合には、特段「すごい!」「立派!」と言って称賛する必要はないと思う。というか、称賛しないほうがいいとすら思う。なぜなら、マイノリティを理解することを称賛されたマジョリティは、マイノリティと同じ地平に足つことが難しくなるからだ。マジョリティとマイノリティは、本来対等であるべきで、差別を受けないのが当たり前なのだから、せいぜい「称賛」ではなく「認める」くらいでいいと思う。

私たちは、差別や虐待を受けないことで、ありがたがる必要はないし、マイノリティに対して「お前たちのことを理解してやるぞよ。ありがたく思え」という態度を取ってはいけない。

 

とりあえず、せやろがいおじさんは、ハゲをバカにする価値観について問題提起してるので、その流れで、ブスをバカにする価値観についても考えられるはず。


ハゲを馬鹿にする価値観に一言【せやろがいおじさん】

 

ぜんじろうという、海外でスタンダップコメディをやっている人。6:09頃からの、女性とお笑いについての話が興味深い。


世界のお笑いにあって、日本にないものとは?

*1:欧米における「ボディ・ポジティブ」の概念は、何年か経ったら日本にも広まってくるだろう。

*2:私はミゼットプロレス肯定派だけど、ミゼットプロレスの笑いと日本のお笑い界のブスいじりは、違うような気がする。現状のブスいじりは、どちらかというと感動ポルノに近い。

*3:第1回:“ちょうどいいブス“ってこういうこと!