宇野ゆうかの備忘録

ちょっとした作品発表的な場所。/はてなダイアリー→d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/

白髪とロックTシャツと常識――自分を愛するため

www.huffingtonpost.jp

前回記事『白髪を染めないのはマナー違反なのか?――髪色とドレスコード』では、「白髪を染めないのは失礼」という「常識」について考えてみた。今回はその続きで、「女の子はかわいくてきれいがいい」という「常識」について考えてみようと思う。

 

白髪育ての間は、自分の心も育てているような感じでした。なぜこの年齢になって、青少年みたいに心を強くすることをしなきゃいけないの、と思ったこともあります。

幼い頃から内面化されてきた「女の子はかわいくてきれいがいい」という、自分の「常識」がここで試されるんです。白髪を染めずにいるのは「常識」に反するわけですから。おとなしく染め続けているのが、精神的には一番楽です。

 

 これは、私が20代前半の時点で捨てた「常識」だ。

私は落ち着いた大人顔だったので、実年齢より上に見られることが多く、同年代の若い女の子向けの格好が、ことごとく似合わなかった。というわけで、早々に「私は年上に見られたっていいし、かわいくなくていい」という考えにシフトした。そして、大人っぽい自分に似合うものを探すために、自分が魅力的だと思う年上の女性たちを観察することにした。

そんな私なので、上の文章を読んだ時、こう思ってしまった。「逆に、なぜ『この年齢』とやらになってまで、『女の子はかわいくてきれいがいい』という常識に従わなくてはならないの?」

 

以前、「40代が似合わないTシャツはコレ!」と題して、レースつきや深いVネックやビッグTはダメだの、ロックTシャツは精神的に大人になり切れてなくて常識がないだのと書いて炎上した記事があったけれど、*1どこかのグループに属してないといじめられるだの、トイレに一緒に行かないとダメだのの同調圧力に悩まされる「女の子」の時期を過ぎて、とっくに「大人の女性」になった40代なら、「私は私、あなたはあなた」という振る舞いを身につけてもいい頃だと思った。他人に同調圧力をかけて、自分と違う趣味の人にケチをつけている人は、精神的に大人になりきれていると言えるのだろうか。

 

「痛いおばさん」は、社会的な立場であり、周囲からの評価です。痛いと思われることを知りながら、そのような服装や美学を貫く人の内面は自立していると私は思います。趣味嗜好が子ども好みであるとか、かわいいものばかりだとか、そういうことは関係がありません。「なんとなく仕事ができそうに見えるから」とスーツを着て、ショートカットにする人の内面は、幼稚です。自分の常識を誰かに預けて生きる人は、自立していないのです。

「大人になる=処女喪失が怖い」 雨宮まみの“穴の底でお待ちしています” 第13回

 

まぁ、実年齢より上に見られたからって、それがどうだという話だし、ぶっちゃけ、おしゃれなんて、自分を売り込むタイプの仕事に就いているのでもない限り、別にしなくてもいいものだけれど、 ただ、そうは言っても、かわいくてきれいに見られたいし、若く見られたいという願望はあるものだと思う(そうじゃない人は、最初から悩まないよねw)。なので、ここからは、私が年上女性を観察してきて思ったことを書いてみようと思う。 

 

私が年上の女性たちを観察していて思ったことは、シミやシワなどよりも、「若作り」と「流行遅れ」のほうが、ずっと老けて見えるということだった。

若者からすれば、40代50代の女性にシミやシワがあるのは、当たり前のことで、特に気にはならない。一方、トレンドの感覚がある若者だからこそ、母親のメイクが若い頃のままなのがよくわかった。

老けて見られたくないなら、シミやシワや白髪よりも、眉毛の書き方や口紅の色が、若い時のまま止まっていないかどうかを気にしたほうが良いというのが、私が得た見解だ。

 

私は以前、『自分が若いときのままで時が止まっているのは、「若い」とは言わない』というブログエントリを書いたことがある。ここでは価値観の古さという話だったが、ファッションにも同じことが言えるのだと思う。私はブログエントリの中で、「『若い』っていうのは今を生きることだ。」と書いたが、結局、外見における若々しさもそうなのだろう。シミやシワや白髪がある自分の「今」と、時代のトレンドという「今」を生きている状態が、年上の女性たちを観察してきた私が思う「若々しさ」だ。

 

私は、多くの場合、女性は男性目線から解放されたほうが、魅力的になれると思っている。なぜなら、男性目線の価値基準は、要するに「男にとっての都合のいい女」なので、「親にとっての都合のいい子」と同じく、その人本来の魅力が殺され、自己肯定感を失わせる方向に行ってしまいがちだから。

それに、男性だって一人一人好みが違うのに、それを最大公約数的にまとめてしまうと、すごく狭いわりには、すごくふわっとした女性像になってしまって、無理やり自分をそれに当てはめようとすると、特に悪くはないけれど、取り立てて良くもない、よくいる普通の人になってしまうから。

 結局のところ、外見的造形についても、自分の評価軸を他人に預けてしまっている状態よりも、評価軸を自分自身に設定して、セルフコンフィデンスがある状態になったほうが、その人の魅力が出ると思う。他人とか世間とかの枠に収まってると、ある一定以上には伸びないんですね。

 

だから、とにかく男にモテたいしちやほやされたいというタイプの女性ならともかく、よく考えたら、自分のことを理解してくれるパートナーが一人いればいいし、何ならいなくてもそれなりに過ごせるし、好みじゃない男が寄ってきても特にありがたくもないという人にとっては、「女の子はかわいくてきれいがいい」という価値観は、実は手放してもいいものだと思う。

個人が「私はかわいくてきれいな格好がしたい」と思ってするのは、その人の自由だけれど、「女の子はかわいくてきれいがいい」というのが「常識」だから、しないといけない気がしているのなら、その「常識」自体を疑ったほうがいいと思う。それは、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で百合ちゃんが言ってたみたいな、呪いの可能性が高い。

 

togetter.com

 

だいたい、男(おっさん)のほとんどはおしゃれに興味がないので、そういう漠然とした男性目線に合わせても、おしゃれになれたりしねぇんだわ。元記事に「おしゃれなマダムはグレイヘアが多い」という話が出てくるけれど、そういうことだと思う。 

この本を作るうち、あることに気づいたんです。おしゃれな女性はグレイヘアが多い、と。「老けてみられると恐れるよりは、自分らしくありたい」という価値観から、彼女たちはグレイヘアを自ら選んでいました。

 自分のやりたいことが「男からのちやほや」な人は、そっちを目指せばいいし、「おしゃれ」な人は、そっちを目指せばいいし、常識的な格好に「擬態」しておきたい人は、そうすればいいし、どっちにも興味がない人は、どっちもやらなくていいんじゃないかな。

 

ただ、外見的なかわいらしさを手放しても、別の形でのかわいらしさは残ると思っている。それは、男性目線で見た「若くてかわいい子」ではなくて、人としてのかわいらしさ。「キュート」ではなく「チャーミング」ということだ。

それがどういうふうに身につくのか、はっきりとはしないけれど、そのひとつの要素としては、素直でいることだと思う。素直でいることで、その人の持っている、内面的な、人としての素のかわいらしさが出てくるものだと思う。

 

それに、「あれもダメ、これもダメ、ロックTシャツは痛い」って方向に行くより、ロックTシャツ着たかったら、どうすればおしゃれに格好よく着こなせるかを考えたほうが、おしゃれも上達するし、そっちのほうが若々しいし、チャーミングだ。

「ロックTシャツは痛い」って記事見るより、こういうの見たほうが楽しいよね!

matome.naver.jp

 

ところで、前回記事のブックマークコメントに、こんな書き込みがあった。

id:kaminoke-no-ohanasi 学校生活で言えば、若白髪で悩む子が「校則で白髪染めをさせてもらえない」と嘆いていた。

元記事で「グレイヘアリスト」になった朝倉真弓氏も、11歳の頃から白髪が生えていたことでいじめられて、学校側に髪を染めたいと言ったが、認められなかったという。*2一方で、生まれつき茶髪の生徒に黒染めをさせようとする学校がある。

どうなんだろう。もし若白髪で悩む生徒が、白髪ではなく茶髪だったら、学校に言えば染めさせてもらえたのだろうか。それはわからない。でも、「若白髪でいじめられるから黒に染めたい」と「生まれつきの茶髪を黒に染めたい」だったら、後者のほうが許可が下りやすい感じがするのは、気のせいだろうか。もし気のせいでないとしたら、日本の学校という場所のグロテスクさを感じる。

 

 

白髪を染めないのはマナー違反なのか?――髪色とドレスコード

www.huffingtonpost.jp

ある女性が、白髪染めをやめてグレイヘア・スタイルにしたことついて取り上げた記事を読んで、まだ白髪の生えていない私も、色々と思うことがあった。

記事の中では、大きく分けて2つの「常識」が出てくる。ひとつ目は「白髪を染めないのは失礼」という「常識」。もうひとつは「女の子はかわいくてきれいがいい」という「常識」だ。この記事では、とりあえず「白髪を染めないのは失礼」という「常識」について考えてみようと思う。

 

白髪育てを始めてから、いろんな反応がありました。染めるのをやめてからほどなく、「マナー違反だ」と知人から言われました。「なんで染めないの? 相手に失礼じゃないか」って。「なんで染めないの?(若いのに)もったいない」とも。これは、特に男性から言われましたね。

面と向かって言われて、世間の「常識」ってこうなのか、と改めて知りました。

 

年長者世代の女性たちの間には、「白髪は染めるもの」という同調圧力があるということを知ったのは、40代以上の女性たちのためのウェブサイトに寄稿させて頂いていた時だった。若者っぽくない若者としてブログを書いていた私に、お声がかかったのだ。

その中に、白髪のマッシュルームカットに、黒縁メガネ、赤い口紅というスタイルを確立している、とてもおしゃれな女性がいた。私はその女性にインタビューした記事や、彼女のブログを読んで、「テレビや女性誌は、若い女性たちに『女の子は、若くかわいくね!』というメッセージを放ってくるが、年配女性たちには『白髪を染めて、若くきれいになろう!』というメッセージを放ってくるのだろうか」と思った。*1

ちなみに、その女性は、後にInstagramで夫婦のペアコーデが注目され、本が出されることになった。

headlines.yahoo.co.jp

 

当時は、「そうなのかー。若い頃は若い頃で、年齢を経たら年齢を経たで、また違った同調圧力があるものなんだなー」程度に思ったものだったが、冒頭のリンク先の記事を見るに、白髪を取り巻く空気は、その程度のものではないのかもしれない。なんと、白髪を染めないのは「マナー違反だ」とまで言われるものらしい。

一応、服装のマナーについては、人並みに調べたことはあるものの、そんなマナーは聞いたことがなかった。お葬式には、あからさまな革や毛皮は「殺生」を連想させるからNGだとか、二連のネックレスは「悲しみが繰り返す」という意味に通じるから望ましくないということは知っていても、白髪がマナー違反とは。じゃあ、白髪の爺さん婆さんはマナー違反なのか?いつから白髪を染めるべき年齢と染めなくてもいい年齢に分かれるのだ?

 

 この記事を読んだ時、思い浮かんだのは、生まれつきの茶髪を黒く染めるよう、学校から強要されて、裁判を起こすことになった高校生の話だった。なぜ、自分の自然な髪色でいることが、マナー違反になるのだろうか。白髪を染めないのが「マナー違反」と言うのは、これと同じことだと思う。

元記事の女性は、グレイヘアを実践する前は茶色に染めているが、一昔前までは、白髪を染めずにいることよりも、茶髪にすることのほうが、ずっと「異端」であり「マナー違反」と見なされていたように思う。今や茶髪はすっかり市民権を得て、若者だけでなく、年長者女性たちにとっても普通になったが、髪を染めるのが普通になれば、今度は、「白髪なのに染めない」というのが、マナー違反になってしまったのだろうか。

 

一体、いつ頃から「白髪はマナー違反」になったのか……そう思って、「白髪染め 歴史」で検索してみたところ、日本においては、だいたいこのような経緯で、白髪染めが定着していったということのようだ。

  •  日本における最古の白髪染めの記録は、平安時代末期の武将・斎藤実盛が、戦に出陣する際に染めたというもの。
  • 江戸時代はお歯黒の成分で染めており、染めるのに10時間を要した。
  • 明治38年、日本で最初の酸化染料「志ら毛染君が代」発売。染める時間が2時間に。
  • 大正10年、水野甘苦堂(現 ホーユー)から「元録」発売。染める時間が30分に。
  • 昭和32年、日本独自の粉末一剤タイプ「パオン」「ビゲン」発売。昭和35年、業務用「パオンデラックスヘアーダイ」発売。昭和42年、シャンプー式ファッションヘアカラー「フェミニン」発売。

というわけで、長い歴史の中で、白髪染めの技術はあったものの、庶民レベルにまで普及したのは、昭和40年頃ということらしい。ということは、少なくともこの頃までは、白髪をそのまま染めずにいることは、普通のことであったと考えて良いだろう。*2

 

私は服飾専門家でもマナー専門家でもないが、はっきり言い切ってしまえば、冠婚葬祭のドレスコードに、髪の色は含まれない。髪の色は、あくまでも、その人が属している企業や学校などの組織との間の取り決めだ。推奨される髪色がある組織もあれば、自由な組織もある。

その好例が、天皇陛下主催の園遊会に出席した時のX JAPANYOSHIKIだ。彼は、髪型は茶髪に若干の長髪といういつものスタイルに、昼間の礼装であるモーニングコートを着ていた。どんな髪色でも、モーニングを着ていれば、立派な正装である。

髪の色がマナーに含まれると考えてしまうのは、学校生活の中で、長らく髪色について指導を受けた名残だろう。だが、それはあくまでも、その学校のローカルルールであって、学校から一歩外に出てしまえば関係ない。校則と一般社会におけるドレスコードは別物だ。学校は、葬式や結婚式に相応しい服装を教えているわけではないのだから。

 

たぶん、こんな同調圧力が生まれてしまうのは、実は多くの人が、染めたくて染めているわけではないからだと思う。自分が好きでやってる人は、他人に「良かったら、してみない?」くらいのことは言っても、押し付けたりはしない。でも、したくもないのにしている人は、他人に対して「私だって我慢してやってるのに、どうしてあなたは我慢しないの?」と、押し付ける傾向があると思う。

でも、世の中にはお堅い企業や官庁に勤めている人ばかりではなく、色んな職業や生活スタイルの人がいるのだから、「ドレスコードが関係してくるのは、服や靴や鞄やアクセサリーであって、髪色は関係ない」というのが、世の中の「常識」になっても良いだろう。

 

 

[2018.12.15 追記]

続きを書きました。

yuhka-uno.hatenablog.com

お笑いと人権意識とブスいじり―それは誰にとって面白いのか

www.huffingtonpost.jp

せやろがいおじさんが、過去の発言に「女性蔑視」と指摘がきて、よく考えてみた末に、自分が無自覚に女性差別をしていたと気づいたエピソードが載っている。このことについて、インタビュアーがこういう問いかけをしている。

ーーまた、お笑い芸人と社会派のネタ、なんなら多様性を大事にする主張は少し相性が悪いと感じます。人を傷つけない笑いもあるけれど、どうしても幅が狭くなってきてしまう。過去の発言や、"リップサービス"のネタの内容などで、せやろがいおじさんファンからの指摘が入ることなどはないですか?

よくある、「ポリコレを守ると、表現の幅が狭くなる」という言説だ。しかし、私はむしろ逆だと思っている。それについては、前回記事『ポリティカル・コレクトネスは表現の幅を狭めるか』で書いた。

 

さて、私は『笑点』が好きでよく見ているのだけれど、過去、ゲストに仲間由紀恵が登場して大喜利をやった時、ネタがことごとく仲間由紀恵へのセクハラになってしまったことがあった。

当時、私はTwitterでこう呟いた。

 もちろん、セクハラそのものが不快だったというのもあるが、「女性ゲストといえばこういうネタ」とばかりに、素人でも思いつくようなネタばかりが連発されてしまい、そのほとんどが、単純につまらなかったのだ。

ただ、これ以降、女性ゲストが来たときに、さすがにこの時のようなセクハラばかりに走るネタは、あまり見なくなったけれども。

 

「ポリコレで表現の幅が狭くなる」と言う時、「それは一体、誰にとって面白かったのか?」という問いが鍵になってくると思う。とりわけ、日本のお笑い業界によくある、女性に対するセクハラネタは、実は、人口の半分以下の人にしかウケないネタだったのではないだろうか。見ている人の半分にしかウケない、どころか、気分を悪くするかもしれない「笑い」って、どうよ?という問題である。

いち女性の感覚としては、まぁ、そういうネタで一応笑うこともあるけれど、その時は、「上司のつまらない冗談に、笑ってあげている」という気分になることが多い。

 

これは、女性よりもっと人口が少ないマイノリティの場合もそうだろう。マイノリティのマイノリティ性というのは、マジョリティ側にいる人間からすると珍しいので、ついついその部分に注目してイジりたくなるけれど、相手は「ああ、またかよ」「それ今まで何回も言われたわー」と思っている可能性がある。とすると、これはあまり芸のないネタだ。

また、芸人ならば、自分をイジられることに同意があるし、イジられることで賃金を得ているけれど、素人は自分がイジられることを了承していない上に、金がもらえるわけでもないので、何一つメリットがない。

 

歴史的な話をすると、アメリカでは、かつて「ミンストレル・ショー」という演芸があった。白人支配的な社会背景の中で、顔を黒く塗った白人が「白人にとって面白い黒人像」を頻繁に演じていた過去がある。そういった経緯もあって、現代では黒塗りで黒人を演じるのはタブーになっている。

 

今のお笑いの世界では、特定のお笑い芸人が「権威」と化してしまい、周囲がその人に気を遣い、何が面白いか面白くないかを、客よりもその人が決めてしまっているような空気になっている面があると思うが(元記事で「干される」と言われている人とかw)、差別のある社会というのも、これと似た構造で、差別に対して無批判なままだと、何が面白いか面白くないのかを、発言力の強い層が決めてしまうような状況になってしまう。

 

私は、「お笑い」というジャンルは、実は最も人権感覚の変化を意識しておく必要がある職種なのではないかと思う。なぜなら、何年か前には笑えていたことが、今は笑えなくなっているということが起こるからだ。ここ10年で、同性愛者を茶化して笑うことは、通用しなくなった。私は、次の10年では、他人に「ブス」「デブ」と言って笑うことは、通用しなくなっていくだろうと思っている。*1

もっとも、どこの業界でも、何十年も前の常識が通用しなくなっていたり、感覚を更新していないと、その世界ではやっていけなくなってしまうというのは、よくあることだから、結局お笑いの世界もそうだということなのだろうけど。例えば、建築の世界では、何十年も前の建築基準では建てられないとかね。

 

そして、人権を意識しながら、鋭い笑いや尖った表現はできるのではないかと思う。というか、そもそも、尖ったデザインの建物と、建築基準を満たしていない雑な設計の建物が、全く違うのと同じで、尖った表現と、人権感覚が更新されていなくて古いものは、全くの別物だ。

後者のようなものを「タブー破り」で「尖った表現」だと勘違いしている自称アーティストとか、よく見かけるけれど、尖っていると思っているのは本人だけで、「古いわー。そういうの沢山あるわー。歴史的に見ても何十年も前からずっとあるわー」と、お寒い気分にさせられることは、よくある。

 

そもそも、「お笑い芸人と社会派のネタは相性が悪い」ということ自体が、ちょっと違うんじゃないかと思う。古代ギリシャの時代から、政治問題や社会風刺を扱った喜劇は盛んだったし、欧米のスタンダップコメディも、政治の話は欠かせない。それこそ、冒頭で挙げた『笑点』では、昔から政治風刺の回答がある。

また、『防弾少年団(BTS)の政治性~政治と音楽は関係あるか』でも書いたが、「政治と音楽は関係ないじゃん!」というのは日本の感覚で、海外では政治的・社会的メッセージを音楽で表現するのは、普通のことだ。

結局、「お笑い」とか「音楽」とかではなく、「現代日本では、政治の話がやりにくい」ということなのではないかと思う。

 

 

さて、せやろがいおじさんが「女性蔑視」と指摘を受けたネタについて、考えてみよう。

内容は「SNSで画像加工した女性を見た後に実物見たら『ブス来たー』ってなりますよね」という発言で。お笑い界では割とよくある文脈です。

指摘に対して、一瞬「そんなつもりないから」「女性蔑視の気持ちないから」という反論をしかけたんですが、よく考えたら傷つく人もいるから、「不快にさせてすいません」と投稿したら、「お前なんも分かってないな」「そういうことじゃない」と反論がきまして。

そこで再度、自分の中で問題を因数分解して、「別に画像加工するのは女性だけじゃなくて男性もいるよな」「なんで女性に限定したんだろう」と思って。そこで、自分が無自覚に女性差別をしていたんだと気づいて。

自分が指摘されて、初めて差別する側は息を吐くように差別するんだなと気づきまして。

 

たぶん、せやろがいおじさんは、「なんで女性に限定したんだろう」というところが、この問題の鍵ということに気づいたのだろう。「なんで」かというと、「女性のほうが、男性より容姿についてあれこれ言われるから」だ。

例えば、もしせやろがいおじさんが女性だったとして(ここで言う『女性だったとして』とは、『若くてかわいい女子だったとして』という意味ではなく、今の自分の容姿年齢学歴収入コミュ力、その他全てのスペックそのままで女になるという意味だ)、特に容姿に関係ないネタをYoutubeで投稿したとしても、わざわざ容姿に言及する男がコメント欄に出現していたと思う。

つまり、せやろがいおじさんが、容姿ではなくちゃんとネタのほうに注目してもらえるのは、せやろがいおじさんが男性だからなのだ。

 

このような社会背景があるのだから、SNSで画像加工する人が、男性より女性のほうが多かったとしても、何らおかしくはない。「美人だと言われてちやほやされたい」という、評価をプラスにする目的よりは、「ブスだという口をあらかじめ塞いでおきたい」という、マイナスをゼロにする目的で画像加工する女性だって、沢山いるだろう。いじめられないための自衛策である。

だから、ネタにされるべきは「SNSで画像加工する女性」よりも、「女と見ればすぐ美人だのブスだの言ってしまう男性」のほうだろう。

 

そして、「女と見ればすぐ美人だのブスだの」という社会背景は、「女芸人といえばブスとデブ」という風潮を作り出してきた。*2芸能界では特にこの傾向が強く、一般社会ではよくいる普通な感じの女性でも、芸能界ではブス枠に入れられてしまう。相席スタートの山崎ケイが、男性の先輩芸人からブスだと言われたのも、この「芸能界の女性のブス基準偏りすぎ問題」によるものだろう。*3

そして、何が面白いかの基準が男性寄りになっているということは、人口のもう半分、つまり女性に向けて笑いが取れる人の才能を潰してきた可能性がある。

joshi-spa.jp

papapico.hatenablog.com

 

女性が容姿に言及されがち問題について、よくある大きな誤解が、「ブスと言うのはダメで、美人だと褒めるのならいい」と思ってるやつだ。女性の場合、容姿に関係ない分野でも「美人かブスか」という評価軸を持ち込まれ、その女性自身の経験やキャリアが無視されてしまうことがよくあるのが、問題の本質なのだ。

例えば、女性差別を含む数々の差別問題に取り組んできたオバマ元大統領でさえ、ある女性州司法長官のことを「ずば抜けて美人だ」と言ってしまったことで謝罪している。なぜなら、彼女は州司法長官としてその場に来たのであって、モデルのオーディションを受けに来たわけではなかったからだ。

 

せやろがいおじさんが、自身の中にある女性への偏見を見つめ直したことについて、称賛するコメントが多くあったけれど、私は、こういう場合には、特段「すごい!」「立派!」と言って称賛する必要はないと思う。というか、称賛しないほうがいいとすら思う。なぜなら、マイノリティを理解することを称賛されたマジョリティは、マイノリティと同じ地平に足つことが難しくなるからだ。マジョリティとマイノリティは、本来対等であるべきで、差別を受けないのが当たり前なのだから、せいぜい「称賛」ではなく「認める」くらいでいいと思う。

私たちは、差別や虐待を受けないことで、ありがたがる必要はないし、マイノリティに対して「お前たちのことを理解してやるぞよ。ありがたく思え」という態度を取ってはいけない。

 

とりあえず、せやろがいおじさんは、ハゲをバカにする価値観について問題提起してるので、その流れで、ブスをバカにする価値観についても考えられるはず。


ハゲを馬鹿にする価値観に一言【せやろがいおじさん】

 

ぜんじろうという、海外でスタンダップコメディをやっている人。6:09頃からの、女性とお笑いについての話が興味深い。


世界のお笑いにあって、日本にないものとは?

*1:欧米における「ボディ・ポジティブ」の概念は、何年か経ったら日本にも広まってくるだろう。

*2:私はミゼットプロレス肯定派だけど、ミゼットプロレスの笑いと日本のお笑い界のブスいじりは、違うような気がする。現状のブスいじりは、どちらかというと感動ポルノに近い。

*3:第1回:“ちょうどいいブス“ってこういうこと!

ポリティカル・コレクトネスは表現の幅を狭めるか

最近のネット炎上を受けて、竹下は、「表現の幅が狭まってる」「昔はもっと自由にできた」と感じている制作者と、不快な表現に批判的な声を上げるようになった受け手の間で、「分断」が起きていると指摘した。

「ネット炎上→削除」の先にあるもの。小島慶子さんらと「メディアと表現」考えてみた | ハフポスト

よくある「最近はポリコレポリコレうるさくて、自由に表現できないよ」というやつだ。でも、それは本当なんだろうか。私は、むしろ逆だと思っている。 

 

オードリー・ヘップバーンが主演を務めたことで有名な1961年のハリウッド映画『ティファニーで朝食を』に、「ユニオシ氏」という日本人(日系人)キャラクターが登場する。ミッキー・ルーニーという白人俳優が「イエロー・フェイス」をして、つり目で出っ歯で眼鏡をかけて、LとRの区別がつかない、いかにもステレオタイプな日本人を演じている。


Breakfast at Tiffanys Opening Scene

 

ユニオシ氏はコミカルなキャラクターとして描かれている。おそらく、このキャラクターは、当時のアメリカ人にとっては、面白いものだったのではないだろうか――アジア系以外の人たちにとっては。

日本に住む日本人は、こういったアジア人描写を、ある程度余裕を持って見ていられるかもしれない。しかし、アメリカ社会でマイノリティとして暮らしているアジア系市民にとって、「メディアに、アメリカ白人のイメージするアジア人しか出てこない」という環境は、どれほど抑圧的に作用するものだっただろう。

 

今のアメリカ映画界では、このような日本人描写をすれば、日系人だけでなく、それ以外の人からも「ポリコレ棒で叩かれる」だろう。では、ユニオシ氏のような描写が批判されるようになったことで、アジア系の表現は狭まったのだろうか。

 

2018年、ハリウッドで、主要キャラクター全員がアジア人の映画『クレイジー・リッチ・アジアンズ』が公開され、話題になった。ステレオタイプなアジア人描写が批判される世の中になってから、逆に、アメリカのメディア社会では、当時よりもずっと多様なアジア人像が描かれるようになっている。


CRAZY RICH ASIANS - Official Trailer

どちらが「多様な表現」と言えるだろうか?

「ポリコレ棒によって、表現の幅が狭くなった」と言っている人は、もともとある種の人々に対する表現の幅が狭かったということだ。

 

ステレオタイプなアジア人像しかアジア人の引き出しがないような制作者からすると、「表現の幅が狭まってる」「昔はもっと自由にできた」と感じるのかもしれない。しかし、その自由とは、言い換えれば「雑な認識で作っても許されていた」ということである。そのような制作者が不自由になった一方で、アジア人など人種・民族的マイノリティは、以前よりずっと自由になったはずだ。これは女性の描き方だって同様だ。

 

日本国内においては、健康で健常でヘテロセクシャルでシスジェンダーな日系日本人男性がマジョリティだ。この条件に当てはまれば当てはまるほど、日本社会の中での発言力が増し、この社会で最も性能の良い拡声器を握れる位置につける。一方、それ以外の人たちは、マジョリティの人たちの脳内イメージに合致する形でしか、主要メディアに出て行くことができない状況になりがちだ。

健常者にとって都合がいい障害者像を指す言葉に「感動ポルノ」があるが、マイノリティの人たちが、マジョリティの脳内イメージに合致するかしないかを気にすることなく、自分自身の表現を広く発信することができるようになったら、表現はもっと幅広く、自由になるだろう。

logmi.jp

 

映画『ティファニーで朝食を』から50余年、2013年ブロードウェイ・ミュージカル『ティファニーで朝食を』に登場するユニオシ氏は、ジェームズ・ヤエガシという日系人俳優によって演じられた。ミュージカル版のユニオシ氏は、原作の小説に基づく日系二世という設定で、映画版とは全く違うキャラクターとして演じられているらしい。

Meet Mr. Yaegashi — the New Yunioshi

 

[2018.12.1 追記]

ポリティカル・コレクトネスは表現の幅を狭める」と言う人が思い至っていないのが、「差別は、実質的に差別される側の言論や表現の自由を奪う」ということだろう。

差別によってマイノリティが萎縮し、マジョリティが認める表現しか表に出せないような状態になっている現状を、緊急避難的に緩和させる措置が、ポリティカル・コレクトネス。

 

 

ポリティカル・コレクトネスと関連が深い「差別語」について。

d.hatena.ne.jp

 

www.fuze.dj

courrier.jp

b.hatena.ne.jp

「快・不快」の不均衡~ヘテロ男性は、自分にとって不快なエロ表現への配慮に気づいていない

胸を強調した女性の絵が表紙のラノベが、子供も目にするところに積まれていた件*1について、田中圭一氏がある女性と話したことらしいが、この件については、こういう個人レベルの快・不快の問題というよりは、社会のどの層の人たちにとっての快・不快の感覚が優先されているかということが、問題の本質だと思う。
今回問題になっているのは、ジェンダーの快・不快問題だ。多くのヘテロセクシャル男性にとっての快・不快の感覚が優先され、多くの女性や同性愛者にとっての快・不快は軽視されがちなことが、根底にある。


ヘテロ男性の多くが「快」と感じ、女性の多くが「不快」と感じる表現が、普段目にするところでさえ溢れているというのは、よく認識されていることだが(認めない人も沢山いるが)、実は、これと対になっている現象として、ヘテロ男性が「不快」と感じる表現は、あまり表に出されないという側面がある。女性も同性愛者も、ヘテロ男性に「配慮」しているのだが、多くのヘテロ男性たちは、自分たちに対してそういう「配慮」がされていることに、気づいていない。


そういう「配慮」の存在は、例えば、『弟の夫』の中で、著者の田亀源五郎氏が、あえて男性のシャワーシーンを「サービスカット」的に入れるということで、可視化している。

田亀 男性向けのマンガだと、女の子のパンチラとか入浴シーンって、定番じゃないですか。それを「サービス」という形でやっている。それを男性でやると「ギョッ」とするでしょ? ……というのをヘテロ読者に体験してもらいたかった。

——男性向けマンガのサービスショットを女性が見た時には、ひょっとしてこういう居心地の悪さを感じているのかな? とも思いました。

田亀 それを結論づける必要はないと思いますよ。ただ、ひょっとしたら、そう思っている人もいるのかな? と、そういうことを感じてもらえたらおもしろいですね。
「なんでこんなところに男の裸が出てくるんだ?」と思ったら、それはすでに常識に取りこまれているということなんです。

『弟の夫』田亀源五郎インタビュー ゲイコミックの巨匠が“ホームドラマ”のなかに盛りこんだ、ヘテロへの「挨拶」と「挑発」

 

他の例では、2008年に起こった「蘇民祭」ポスターの件が挙げられるだろう。*2男性たちが裸で行う荒々しい祭りの様子を撮ったポスターで、当初は電車に張り出される予定だったが、鉄道会社側が「男性の裸に不快感を覚える客が多い」「女性が不快に感じる図柄」という理由で、取り下げにしてしまったのだ。

これに対して、ネット上では、「エロを喚起させる女性の半裸中釣り広告については、これまでずっと『不快だ』と言っても取り下げてこなかったのに、男の裸ならすぐ取り下げるのか」「結局、男性社会である鉄道会社の人にとって不快だったからなのでは」「こんな時に限って女を理由にする」と言っている女性たちが沢山いた。(なお、私は当時、実際に女性からクレームが入った情報はないかと探してみたが、見つからなかった。)

 

街中で普通に目にしてしまうヘテロ男性向けエロ表現は、ヘテロ男性たちにとって、自分がされても平気なことだから、女性に対してもやっているというわけでは、決してない。むしろ逆で、女性より男性のほうが、自分の性が一方的に性的に描かれた表現に耐性がない傾向がある。女性は、子供の頃からそういう社会で生きてきて、「慣れさせられて」しまっているが、男性には、そういう表現を見ると「バグる」人が多い。

ヘテロ男性は、自分の性が一方的に性的な視線に晒される表現が、個人の趣味の領域だけでなく、公の場でも頻繁に遭遇する社会で生きるということ、そして、実際に社会生活を送っている中で、同意のない状態で、性的に消費されるような体験を頻繁に経験するということを、体験したことがない。体験したことがないから、想像力の乏しい人には、理解できない。理解できないので、「そのくらい、大したことないだろう」という態度を取ってしまう。

 
フェミニストと言われる女性がよく騒いでいるように見えるのは、それだけ、ヘテロ男性の「快・不快」が優先されているからでしかない。2014年、ネット上で「腐女子テロ」と呼ばれた出来事があったが、そういった表現に直面した時の男性たちの騒ぎようは、女性の比ではなかった。

d.hatena.ne.jp

こういう問題に批判の声を上げる女性たちは、いつも「性嫌悪」のレッテルが貼られるが、ゲイ向けの性表現やBLに対するヘテロ男性たちの反応を見るに、ヘテロ男性たちのほうが、余程「性嫌悪」に見える。

コンビニのエロ本コーナーについて、よく「日本は性に寛容だから」と言う人がいるが、ヘテロ男性向けだけではなく、女性向けやゲイ向けやレズビアン向けなど、まんべんなく置かれている状況にならない限り、「性に寛容」とは言えないだろう。


ジェンダー以外では、人種や民族表現の快・不快の感覚も、アンバランスになりがちだ。どの人種や民族がステレオタイプに描かれがちか、ヒーローになりやすいか、多く描かれるかということは、ハリウッド周辺ではよく問題になっている。

 2018年は、主要キャラクターのほとんどが黒人で占められている『ブラックパンサー』、主要キャラクターのほとんどがアジア人で占められている『クレイジー・リッチ・アジアンズ』がヒットし、ハリウッドの歴史上、画期的な出来事として受け止められている。言い換えれば、2018年でやっとここまで来た、ということでもあるのだろう。

www.fuze.dj


ところで、最近はキズナアイを使ってノーベル賞の解説をするNHKのサイトが、ジェンダー的に不均衡だと問題になっていたが、どうせVRの技術を使うなら、女性や同性愛者の「快・不快」の感覚が優先され、ヘテロ男性の「快・不快」の感覚が軽視される社会を、バーチャル・リアリティで再現してみればいいのでは。最先端の技術を使った表象が、なぜかことごとく美少女型になる現象よりは、ずっと感覚が新しいと思う(笑)。

 

note.mu

防弾少年団(BTS)と音楽性~秋元康はヒップホップの詞を書けるか

前書き

韓国の防弾少年団(BTS)のファンが、秋元康を退けた件について』『防弾少年団(BTS)の政治性~政治と音楽は関係あるか』と、2回に渡って、韓国のピップホップ・アイドルグループ、防弾少年団BTS)のことを書いてきたが、今回は、記事に寄せられたブックマークコメントに返信するという形で、私がなぜ秋元康防弾少年団は合わないと考えているのかを、書いていきたいと思う。

前回記事で書いたように、「政治と音楽は関係ないじゃん!」「なんで韓国のArmy(防弾少年団のファンのことをこう呼ぶ)は、日本向けの曲を消すの!」「どんな曲でもファンなら受け入れて喜ぶもの」と言う日本のファンも多かったが、私と同じように「このコラボは相性が悪い」と考えているファンも、沢山いたからだ。

なお、この記事を書いている人間は、音楽に関してはド素人で、しかも、普段からヒップホップに興味を持っているわけではない。ただ、そんな私にとって理解できる範囲のことを書いておくことにも、多少は意味があるのではないかと思った。一応、音楽家の知人*1に質問した上で書いているので、内容的にはだいたいあってると思う。

 

ブックマークコメントへの返信・その1

id:itochan 音楽のことはよくわからん。「最高にロックだぜ!」みたいに、「最高にヒップホップだぜ!」な生き方のスタイルがあると読んだ。そこが秋元さんとは相容れないと。

私も音楽のことはよくわからん。でも、防弾少年団のヒップホップスタイルと、秋元康とは、そういう「最高にヒップホップだぜ!」な気持ちの問題ではなく、もっと技術的な問題があるように思います。

冒頭で書いたように、私は音楽に関しては素人なので、あくまでも、私にわかる範囲でしか書けませんが、日本人の場合、ある世代を境に、身についているリズム感覚が違ってくるんです。その境というのは、日本のメジャー音楽シーンにラップやヒップホップ、R&Bなどが入ってきて、日常的にそれらの曲を聴いて育った世代と、それ以前の世代です。

 

よく言われるのは、日本人の年長者世代は、裏拍でリズムが取れないということです。音楽のリズムの取り方として、「表拍」と「裏拍」の違いがあるのですが、日本人のリズム感は、基本的に表拍であり、対して、ジャズやR&B、ヒップホップなどは、裏拍でリズムを取るジャンルなんですね。

表拍と裏拍の違いについて、素人にとって一番わかりやすいのは、映画『スウィングガールズ』を観ることでしょう。この映画は、女子高生がジャズに挑戦するという内容で、裏拍の習得が物語の上で重要になっています。

クライマックスの演奏会シーンでは、3曲目の『Sing Sing Sing』で、最初は観客のほとんどが表拍で手拍子を取るところ、応援に来た1人が立ち上がって裏拍で手拍子を取り、それが観客全体に広がっていく演出があります。(※動画4:50以降)


Swing Girls (スウィングガールズ)

 

それから、「グルーヴ」と言って、リズムをずらすことによって、曲に独特のゆらぎやうねりが生じるんですが、これも黒人由来の音楽であるジャズやR&B、ヒップホップなどの世界に多いです。

この「グルーヴ」の感覚も、身についている世代といない世代に分かれます。音楽に詳しい人たちがよく言ってるのは、宇多田ヒカルの登場ですね。宇多田ヒカルのデビュー曲『Automatic』は、それまでの日本の音楽界にはなかった、本格的なR&Bのグルーヴ感を日本語の歌詞で再現していたそうです。小室哲哉は、後に、宇多田ヒカルが自分を終わらせたと語っています。

 

また、ラップやヒップホップには「韻を踏む」という文化があります。私は韓国語はわからないのですが、防弾少年団の曲を聴いていると、主にラップ部分で韻を踏んでいる箇所があるのがわかります。これは日本語ラッパーやヒップホッパーも同様です。

きれいに韻を踏んだ歌詞を書くのは、やはり、普段から作り慣れている人でないと、難しいと思います。(まぁ、ラップなしのバラード曲であれば、韻を踏まなくてもいいかもしれませんが…)

 

で、問題は、秋元康にそういったヒップホップのリズム感やグルーヴ感があるのか、そして、それに合った歌詞を書けるのかということなのですが、ここに関しては、秋元康は、日本の多くの60歳前後の人がそうであるように、2000年代以降のリズム感を身につけてはいないと思われます。

今回の件では、秋元が作詞した「名曲」を挙げている人を沢山見かけましたが、それらはほぼ80年代に集中していました。もしかしたら、その理由もこの辺りにあるのかもしれません。

秋元も、一応『Green Flash』『ブランコ』など、ヒップホップっぽい曲を手がけてはいるのですが…


【MV full】 Green Flash / AKB48[公式]

 本職のラッパーやピップホッパーが作った曲を聞くと、やはり、物足りなさを感じますね…


清水翔太 『Good Life』Music Video


ちゃんみな - Doctor

 

前回の記事でも書きましたが、防弾少年団は、デビュー前からバリバリ自分でラップやヒップホップをやっていたメンバーがいるグループです。そして、今現在、日本よりずっとヒップホップに対する鑑賞力が高いアメリカで、人気を獲得しています。そういうグループに、ヒップホップ専門外である秋元をぶつけてしまっていいのか?と思ってしまうのですね。

もし秋元がやってしまったら、普段から日本語ラップや日本語ヒップホップの鑑賞力がある人が聴いたら「び、微妙…」というものになってしまうんじゃないかという不安がありますね…

 

防弾少年団のメンバーは、未発表になった秋元康とのコラボ曲について、「本当にかっこいい仕上がりになっていますので、ご期待ください」と言っていたそうです。彼らがそう言うのだから、かっこいい仕上がりになっていたのでしょう…曲は。

歌詞はかっこよかったかどうか、今となってはわかりません。なぜなら、防弾少年団のメンバーは、日本語の歌詞の良し悪しについては、わからなかったでしょうから。

 

ブックマークコメントへの返信・その2

id:dmekaricomposite 基本的に好きな作詞家ではないけど、秋元康は風景描写は巧みですばらしい時もあります。「二人セゾン」「海雪」「青いスタスィオン」など。あの人のよさは基本的にカレッジフォーク的なところにある。

 『二人セゾン』と『青いスタスィオン』のことは知らなかったのですが、『海雪』に関しては、正直、私はいい曲だとは思っていません。私があの曲を初めて聞いた時に思ったことは、「男を追いかけて行って海に飛び降りようとする女なんて、50歳以上のおっさんの脳内にしか存在しないな」でした。

あれを年配の歌手が歌うのならわかるのですが、若いジェロが歌うには、不釣り合いだと思ったのです。男にふられて飛び降りようとする女の歌なら、美輪明宏の『人生は過ぎ行く』のほうが、ずっとリアルに感じられます。

 

おそらく、ジェロを押し出していた当時、演歌界は「若者の演歌離れ」を懸念していて、なんとかジェロで若者を引き寄せようという思惑があったんじゃないでしょうか。でも、いくら表面を若者っぽく見せようとしたところで、肝心の歌の中身が若者にとって共感しにくいのでは、どうしようもありません。

デビュー曲があの歌だった時点で、ジェロはおそらく、単に「初の黒人演歌歌手」という触れ込みが珍しいというだけの、イロモノとして消費されてしまうだろうと思いました。つまり、そこも、私が秋元康を不安材料だと思っている理由のひとつなのです。

 

ただ、その点を除けば、仰る通り、風景描写は良いし、『Green Flash』とは違って、曲のリズムも歌詞とよく合っていると思います。年配の歌手が歌っていたら、普通に良かったのではないでしょうか。でも、昨今、なかなか演歌は売れませんからね…『海雪』が売れたのも、「初の黒人演歌歌手」あってこそだと考えたほうが良いでしょう。

ちなみに、若者が共感しやすい演歌という点では、私は、最上川司の『まつぽいよ』とか面白いと思います。


最上川 司 (Mogamigawa Tsukasa) - まつぽいよ (Matsupoiyo)

 

後書き

さて、前回の記事にも書いたように、防弾少年団秋元康とのコラボが中止になった時、「どんな曲でもファンなら受け入れて喜ぶもの」と言っているファンがいて、私はこの記事を思い出した。

“このような日本のポップミュージックシーンの特性は、アーティストやレコード会社側の問題というより、日本の市場特性に起因している。実のところ、ポップミュージックを消費する日本の音楽市場におけるマジョリティーは音楽性に興味がない。正確にいえば、非常に少数派である。多くの人の興味の対象は音楽性より歌詞である。しかしそれ以上に、どんなルックスか、どんなファッションか、テレビ番組やソーシャルメディアでどんな発言をするか、誰と仲がいいか、誰と付き合っているか、といったタレント性に関心が向かう。”

テイラー・スウィフトはなぜ成功したのか?[マーケティング徹底解説] - デスモスチルスの白昼夢

前回記事『防弾少年団(BTS)の政治性~政治と音楽は関係あるか』の中で、「政治と音楽は関係ないじゃん!」というのは、あくまでも日本の感覚だと書いたが、「どんな曲でもファンなら受け入れて喜ぶもの」というのも、あくまでも日本の感覚なのだろう。

 

そして、この引用部分はまさに、今現在、秋元が一大プロデューサーになっている理由を表していると思う。 彼は元々が放送作家で、企画を考える人だったから、音楽性よりも、アイドルのタレント性を前面に押し出す売り出し方と、いわゆる「AKB商法」等の企画方面の才能で、成功を収めることができたのだろう。ある意味、日本の音楽シーンで売るには最適な方法かもしれない。

しかし、逆に言えば、これらの手法は、世界的に通用するものではないだろうし、これまで防弾少年団とコラボしたスティーヴ・アオキやニッキー・ミナージュとの違いでもある。アオキやニッキーは、音楽でキャリアを築いてきたアーティストなのに対して、秋元はそうではない。

 

今回のコラボの件は、防弾少年団の事務所代表パン・シヒョク氏からのオファーだったそうで、メンバーの希望というよりは、プロデューサーのおじさん同士で話が進んだ企画という印象を受けた。

これは、防弾少年団のコンセプトを知るにつけ、「らしくない」と思ってしまう。彼らは、若者自身の音楽と価値観を大事にし、他のアイドルと違って、大人に管理されず、自主性を重んじることを方針にしているからだ。実際、多くのファンも、その点で違和感を感じていたようだ。

 

まぁ私自身はファンではないので、日本のファンの人たちが「どんな曲でもファンなら受け入れて喜ぶもの」と思っているのなら、それはそれで、口を挟むことではないのかもしれない。

ただ、日本では、防弾少年団のことを知らない人のほうが多い。そういう人たちにとっては、日本のアーティストとコラボして話題になった曲が、イコール防弾少年団の曲のイメージになってしまうだろう。

どうせなら、他人から「どんな音楽が好き?」と聞かれて、防弾少年団が好きだと言った時、「防弾少年団?ああ、あのかっこいい曲を歌ってるグループね」と言われたほうが、ファンにとっても嬉しいことなのではないだろうか。

 

冒頭で書いたように、私自身はヒップホップには詳しくない。なので、ヒップホップに詳しくて、説明が上手い方がいたら、ぜひ各方面で言及して頂きたい。あるいは、政治的・音楽的に、防弾少年団とコラボして良さそうな日本のアーティストについて(勝手に)考えてみるのも、面白いかもしれない。

 

防弾少年団とスティーヴ・アオキのコラボ曲『Waste It On Me』


Steve Aoki - Waste It On Me feat. BTS (Lyric Video) [Ultra Music]

防弾少年団(BTS)の政治性~政治と音楽は関係あるか

前回記事『韓国の防弾少年団(BTS)のファンが、秋元康を退けた件について』では、なぜ韓国のファンたちが秋元康とのコラボに抗議したのかについて、主に女性差別の視点から語ってみた。

 

ところで、この件をTwitterで検索して見ていたら、日本のファンの中に「政治と音楽は関係ないじゃん!」「なんで韓国のArmy(防弾少年団のファンのことをこう呼ぶ)は、日本向けの曲を消すの!」「どんな曲でもファンなら受け入れて喜ぶもの」と言う声が多く、私は「うーん、This is Japan…」と思ってしまった。

黒人差別や銃社会などの問題を歌ったチャイルディッシュ・ガンビーノの『This is America』のパロディのつもりで、何の問題意識も感じられない『This is Japan』を作ったどこかのダンスグループが炎上した件を思い出したのだ。

wezz-y.com

アメリカの黒人たちにとって、ガンビーノが『This is America』の中で歌っているような問題は、とてもシリアスなものだ。しかし、日頃から政治や社会問題のことに興味を持っていないと、『This is America』のシリアスさを読み取ることはできない。結果、お気楽な内容の『This is Japan』が作られてしまったのだろう。その「お気楽さ」は「失礼さ」に繋がり、炎上してしまった。

 

では、防弾少年団はどうなのかというと、メンバー自身が曲作りに関わって、若者たちが抱えている問題について社会的なメッセージを発していくことをアイデンティティとしているらしい。

例えば、『ベプセ(ダルマエナガ)』という曲は、自分たち若者世代をダルマエナガ、年長者世代をコウノトリに例え、若者を抑圧する年長者世代に対する苛立ちを歌っている。韓国には「ダルマエナガコウノトリを追っていくと股が裂ける」という諺があり、日本で言うところの「鵜の真似をする烏」と同じような意味らしいが、ここでは、現代の若者世代を取り巻く厳しい環境を理解しない大人たちに対する皮肉になっているようだ。

今の韓国の若者は「三放世代(現在は七放世代とも?)」と呼ばれ、低賃金の職に就かざるを得えない人が多く、恋愛・結婚・出産を放棄した世代として、抑圧を感じているそうだ。*1

三放世代 - Wikipedia


【日本語字幕】-BTS「ダルマエナガ・뱁새」

 

「ダルマエナガ」という言葉は、他の防弾少年団の曲の中でも度々使われている。『Am I Wrong』という曲の中でも、「ダルマエナガvsコウノトリ」という箇所があり、これもおそらく同じような比喩なのだろう。

歌詞の中に「俺らはみんな犬や豚」という箇所があるが、この曲は朴槿恵政権時代に作られた曲であり、当時の韓国教育省の高官が「民衆は犬や豚のように扱い食わせるだけでいい。身分制になることが望ましい」と発言していたらしい。

さらに「MAYDAY MAYDAY」という箇所があるが、メーデーといえば労働者の日、もしくは遭難信号である。朴槿恵政権で遭難信号といえば、セウォル号事件の暗示と受け取れる。304人の死者・行方不明者を出したこの海難事故で、当時の政権は、朴槿恵大統領の「空白の7時間」など、対応の杜撰さを批判された。

この曲は直接的に朴槿恵政権を批判してはいないものの、韓国人または韓国の政治に関心がある人なら、この曲に込められている政治的メッセージを読み取ることができるのだろう。*2


【日本語字幕】Am I Wrong (WINGS) / BTS (防弾少年団) stage mix

 

また、メンバーのSUGAは、防弾少年団としてデビューする前の高校2年生の時に、光州事件をテーマにしたラップ曲『518-062を出している。光州事件とは、1980年5月18日に起きた民主化運動で、朴正煕大統領暗殺による「ソウルの春」の後、軍部が起こしたクーデターに対して市民が蜂起し、光州市が軍によって封鎖され、多数の犠牲者が出た出来事だ。「518」は光州事件の日付、「062」は光州の地域番号とのこと。*3

光州事件 - Wikipedia


日本語字幕 518-062 - NAKSYEON (낙션) Produced by GLOSS (BTS SUGA pre-debut)

防弾少年団の曲の中では、『Ma Citty』に光州出身のJ-HOPEが関わっている。歌詞の中に「みんな押せ 062-518」というフレーズがあり、光州事件のことが盛り込まれているそうだ。*4

 

また、防弾少年団は、デビュー当時から一貫してLGBTQの権利について発信してきたグループでもある。

彼らの偏見のない発言は2013年から始まった。当時まだ新人だったにもかかわらず、自分たちが同性愛者だったらキャリアが終わっていただろうと発言したことがあった。BTSのリーダーRMはマックルモア&ライアン・ルイスのヒット曲「Same Love」を称賛するツイートをしている。「これは同性愛の歌だ。歌詞を聞くと歌の良さが倍になる」と。

BTSが世界で成功を収めた理由ーK-popのルールや価値観を覆したBTSの軌跡|Rolling Stone Japan

 先月24日に国連総会で行ったスピーチの中でも、メンバーのRMが代表して、「あなたが誰なのか、どこから来たのか、肌の色、ジェンダーアイデンティティに関わらず、あなたについて話して下さい」と呼びかけている。

 

つまり、防弾少年団は、元々音楽の中に政治的・社会的メッセージを持ち込んできたグループなのだ。秋元康とのコラボ取り止めのずっと前から、防弾少年団にとっては、音楽と政治は大いに関係があることだった。

また、先に紹介したSUGAの『518-062』の例にあるように、防弾少年団は、メンバー全員がデビュー前から音楽活動やダンスをバリバリやっていたグループで、元々はアイドルではなくヒップホップグループとして売り出す計画だったらしい。

 

私は韓国の音楽シーンについてはよく知らないが、少なくとも、欧米の音楽シーンでは、冒頭に挙げたガンビーノのように、政治的な主張や社会的なメッセージを音楽で表現するのは、普通のことだ。アーティストたちは、政治的・社会的なことに言及し、政治家の発言について賛成したり批判したりし、どの大統領候補を支持するか表明し、時にはデモに参加したりもする。それらのアーティストの姿勢や考えは、当然音楽にも反映される。

一方、日本のアイドルは、ほとんど政治的なメッセージを歌わない。他の日本のメジャーなアーティストも、表立って歌うことは稀だ。だから、海外のアーティストの曲を鑑賞する場合は、そういった日本のアーティストを見る時とは違う視点が必要になってくる。「政治と音楽は関係ないじゃん!」というのは、あくまでも日本の感覚なのだ。

防弾少年団の姿勢は、どちらかというと欧米の音楽シーンに近いと思う。おそらく、彼らが欧米で人気になったのは、そういう理由もあるのではないだろうか。

 

私は、防弾少年団秋元康の騒動で、「政治と音楽は関係ないじゃん!」「どんな曲でもファンなら受け入れて喜ぶもの」と言う日本のファンの反応の見ているうちに、最近読んだこの2つの記事を思い出してしまった。

学生運動をする大学生は気持ち悪い。様々なことを考えるようになった今でさえ、その感覚は消えなかった。政治や社会問題について言及する若者なんて、普通じゃなくて、気持ち悪いのだ。私達は、新しいアイスかプチ海外旅行の記録かootdしかSNSで発信してはいけないのだ。”

政治に興味がない若者です

“ポップミュージックを好む日本の音楽ファンの多くは音楽を包括するタレント性を楽しみたいだけなので、音楽性の変化に関心を持たないし、それは作品のセールスポイントにならない。批判もしないが特に歓迎もしない”

テイラー・スウィフトはなぜ成功したのか?[マーケティング徹底解説] - デスモスチルスの白昼夢

 

ところで、この件に関する私のTwitterの呟きに対して、「曲がなくなって悲しいと思ってはいけないのか!?」と言うファンがいたのだけれど、「曲がなくなった背景を理解すること」と、「それはそれとして、曲がなくなったことは悲しい」と思うこととは、矛盾なく両立すると思う。