宇野ゆうかの備忘録

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ゆずの外国人観が20年ほど古い気がする

最近、何かと話題になっているゆずの新曲。

ゆず ガイコクジンノトモダチ 歌詞

 右だの左だのということは、もう既に他の人が十分に言及しているので、私はここでは特に言及しない。それよりも、私はこの歌詞の冒頭三行で、既に違和感を感じた。

きょうび、東アジア文化圏以外の外国人でも、箸をうまく使える人は、特に珍しくもない。もしかしたら、ゆずの外国人観は、世界で日本食や中華料理のレストランが普及する以前の、20年くらい前で止まってしまっているのではないだろうか。

spotlight-media.jp

 

それも含めて、『ガイコクジンノトモダチ』に登場する外国人は、あまりリアリティが感じられない。歌詞に登場する外国人は、ゆずの身近にいる実際の外国人ではなく、20年前の外国人のイメージと、最近テレビでよくやっている、マスメディアが編集しまくった、実態のない「日本大好き外国人」のイメージが、合わさったものなのではないだろうか。(…ということを考えていたら、雑誌『Talking Rock!』5月号のインタビューによると、本当にそうだったようだ。)

 

そう考えると、国旗や国歌を、まるで隠さなければいけないもののように表現している違和感も、20年前の感覚だとすれば、納得がいく。オリンピックなどのイベントをはじめ、祝日には国旗が掲げられているし、国歌も卒業式で斉唱されているし、「どこが?」と思うのだけれど、調べてみたら、日の丸君が代が国旗国歌だと法律で定められたのが1999年、つまり19年前だ。

なるほど、「国旗及び国歌に関する法律」制定以前の感覚なのだとしたら、あの歌詞の内容も頷ける。他の人が詳しく言及しているし、めんどくさいので、ここで詳しい数値は挙げないけれど、20年前と比べると、卒業式での国歌斉唱の実施率は、かなり変化している。

もしかしたら、ゆずの国旗国歌に対する認識は、自身が学生だった時の感覚のままで止まっているのかもしれない。

 

ゆずは、この曲について、忌野清志郎の曲『あこがれの北朝鮮』に言及しているらしい。

忌野清志郎…?全然違うんじゃないか…?忌野清志郎って、めちゃくちゃ反体制でロックな感じだった気がするけど…と思っていたところ、以前読んだこの記事を思い出した。

www.shortnote.jp

ゆずは、もしかしたら、ロックなつもりだったのかも…しれ…ない…?

 

ちなみに、『あこがれの北朝鮮』について知らなかったので、調べてみたら、1995年に発表された曲とのことだ。忌野清志郎、1951年生まれ、当時44歳。

歌詞の中には北朝鮮による拉致を皮肉った箇所があるが、「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」が発足したのが1997年、拉致被害者の一部が帰ってきたのが2002年。

まぁ、拉致被害者とその家族の立場だったら、この曲を聞いて何と思うかっていうのもあるけど、ただ、忌野清志郎、そういう感覚は早かったのね…

 

おまけ。

近年の「日本スゲー」系番組がもてはやされる状況に浸かっていると、「自然と」こういうふうになるんだな…と思いながら読んだ記事。

www.stay-minimal.com

『LGBTが気持ち悪い人の本音』はなぜ炎上したのか―加害者側の理屈を発信するということ

withnews.jp

さて、前回記事“『LGBTが気持ち悪い人』の感覚―「理解」と「罪」の認識のズレ”では、LGBTを差別してしまう人の心理にスポットを当てた記事を書いたが、今度は、この記事を書いた記者が、どこをどう間違ってしまったのかについて、スポットを当てて考察してみようと思う。

 

  しかめっ面をした、怖そうな人?
 人の話を聞かず、持論を一方的に話し続ける人?
 斜に構えた、皮肉屋?

 (中略)

 スーツ姿のBさんは、人なつっこい笑顔で現れました。

Bさんは、苦笑します。
 とても正直に、見栄をはらずに話してくれていることが、伝わってきます。

差別意識で、いじめてやろうと思って発言したら、たたかれるのは当然。でも、異性愛が普通だと教わって育ってしまったから、全く悪意のない、うっかり吐いた言葉が『差別だ』と炎上することがある」

上記引用文から察するに、記者もBさんも、差別とは何なのかを理解していないように感じられる。「『差別主義者』というのは、あからさまに敵意や悪意がある人のことで、全く悪意がない人や、人なつっこい笑顔の、普通に他人に対する気遣いができる人は『差別主義者』ではない」という勘違いをしているのではないだろうか。(ついでに言うと、ポリティカル・コレクトネスの意味も、たぶん理解していない。)

 

だが、いじめをする子も、虐待をする親も、万引きを繰り返す人も、わりと普通の人であることは多い。性暴力加害者の治療プログラムに携わってきた専門家が書いた『男が痴漢になる理由(斉藤章佳・著)』の中でも、「性犯罪者のほとんどは、どこにでもいるごく普通の男性である」と書かれている。

私が元記事を読んで思ったことは、「ごく普通の、よくいる加害者と同じだな」ということだった。Bさんの感覚は、犯罪にならないものから犯罪になるものまで、世の中のあらゆる「加害者」の心理と、かなり合致している。これは差別に限らず、およそ「加害者」が、私たちと特に変わらない普通の人だということは、よくあることだ。

 

いじめの加害者も、いじめをしているという認識がないし、虐待する親は、本気で「躾のつもりだった」と言う。パワハラをする人は、その行為がパワハラだと理解していないし、痴漢も、「自分は優しく触っているから痴漢じゃない」などと思っている。そして、彼らが、被害者以外の人にとっては、むしろ「いい人」であることも、珍しいことではない。

加害者の多くは、「むしろ自分のほうが被害者だ」と被害者意識を持ち、何が悪かったかわかっていないので「なんでこんなに責められなければならないんだ」と思う。そして、被害者が受けている苦しみについては考えていないし、考えられない。それよりも、自分が「被害を訴えられたことによる苦しみ」のほうが、加害者にとっては何倍も重要だ。

 

Bさんは、これらの「加害者心理」の特徴に、見事に当てはまっている。自分が責められることが嫌だという、自分の気持ちばかりで、LGBTの人がいかに阻害され、社会的に抹殺されてきたかということについては、ほとんど考えられていない。花畑の例えに見られるように、「何も悪いことしてなかったのに、いきなり責められた」という認識で、被害者意識を持っている。

ただ、これはBさんだけの感覚ではなく、加害者の立場になった時の私たちは、だいたいこういう感覚を抱きがちだということでもあるが。

 

この記事が多くの批判にさらされ、炎上したポイントは、記者が「これは加害者インタビューだ」という認識が欠けていたことにあると思う。加害者にインタビューして、それを記事にして公開することそのものが悪いわけでは決してない。実際、良質な加害者インタビューや、差別する側の理屈に踏み込んだものは沢山ある。

しかし、必ず押さえておくべきポイントとして、「被害者にとって、加害者がしたことを許せないと感じるのは当然のこと」「被害者に対して、加害者を理解するよう求めるのは、二次加害になる」「被害者が加害者に対して怒るのは、当然の権利」といったことがあるだろう。

これらのポイントさえ押さえておけば、同じ「加害者は、モンスターなどではなく、私たちと変わらない普通の人だ」という内容でも、それほど批判を受けることはなく、むしろ社会にとって有益で真摯な記事として見られる可能性も高い。

しかし、これらのポイントを外して、ただ加害者側の理屈をそのまま公に垂れ流すだけの記事を書けば、記事の内容は、加害の正当化や被害者に対する二次加害となってしまうだろう。それは有益な記事ではなく、差別を再生産する有害な記事となってしまう。

 元記事の内容には、それらの視点が決定的に欠けていた。

 

自分が最初に気付かされたのは、この種類の炎上の中で、とある臨床家の人が「加害者の更生は、被害者に見せるものではない」という発言をしている時だった。

note.mu

 

 加害者心理として、責め立てて反省を強いると、逆に頑なになり、反省から遠ざかるというのは、現実としてある。また、(クローズドな場で)自分の正直な心情を吐露することは、更生の段階として必要だったりもする。

しかし、ここで気をつけなければならないのは、「加害者のケアを、被害者に求めてはいけない」ということだ。差別を取り巻く問題で、多くの人が思い違いをしていることが、差別される側に、「差別について抗議する時は、差別する側を追い詰めて刺激しないような、優しい言葉遣いで、わかりやすく話せ」と求めてしまうことだ。「でないと、話を聞いてもらえないよ」などと言って。

しかし、被害者は本来、加害者に怒って当然なのだ。怒って当然なのに、怒ることを抑圧されてきたのが、差別される側である。周囲が被害者の怒りを抑圧するのは、二次加害になる。

周りの人もしていたからと、特に考えなくいじめに参加していた子供に対して、頭ごなしに責めずに話を聞いてやり、「それはダメなんだよ」と教えてあげるのは、周囲の大人の役目であって、その子にいじめられていた子供にそれをやれと言うのは、筋違いなのだ。

 

Bさんが理解すべきなのは、同性を好きになる感覚ではなく、この社会で、LGBTの人々がどういう不利益を被っているかだ。そして、これが「差別であるかどうか」「被害であるかどうか」の基準である。Bさんの側に悪気があるかどうかではない。このことを、元記事を書いた記者も理解しておくべきだった。

やってしまった時点では故意ではなく過失だったとしても、被害者の損失について考えられず、「俺を責めるな!」「お前は非寛容で被害者意識が強い!」「わざとじゃなかったのに責められる俺のほうが被害者だ!」などと言っていたら、それは「たたかれるのは当然」だろう。(不祥事が起きてしまった時に、こういう態度を取って叩かれる会社、いっぱいあるよね…)

 

ちなみに、反差別運動の歴史的に見ると、マジョリティは、大抵、マイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく」言ってるうちは、マイノリティの訴えを聞かず、痺れを切らしたマイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく言い続けても、埒があかない!」と思って、怒りを表明するようになると、マジョリティは「過激派」というレッテルを貼るということが繰り返されている。

「マジョリティが話を聞かないのは、マイノリティの言い方が攻撃的だからであって、冷静に、伝わるように、優しく言えば聞いてもらえるはずだ」と思うのは、マジョリティ側のある種ロマンチックな想像であり、現実は、マジョリティは「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かないという傾向がある。

 

ちなみに、私がこの記事を書こうと思ったのは、元記事を書いた記者氏がこんなTweetをしていたからだ。

 何が「はい。これもあわせて。」なのか。私が書いたことは、本来この人がやるべき仕事だ。

ええと、専門家じゃない「普通の人」向けに書く時でも、間違ったことを書いてしまわないように気をつけるのは、記者として、ライターとして「普通のこと」だと思います。インタビュアーが無知で、インタビュイーも無知なら、間違ったことを間違ったまま発信してしまいますよね。

「新しい視点がない」と言われたのは、元記事の冒頭文からすると、著者は、記事を書いた段階では、新しい視点から書いたつもりだったからなのでは?まぁ、別に「普通の人」にとっても、新しい視点ではないですけどね。

そもそも、差別する自分を正当化するだけの人は、対話のテーブルにつく段階ではありません。加害する自分を正当化するだけの加害者は、被害者と対話なんてできないでしょ。

 

というわけで、次回からこの手のものを書く場合は、記者自身が知識をつけてから書くか、監修をつけてはいかがでしょうか。私は、記者氏には、まだこの手の問題を扱う力量はないと思います。

あるいは、今度は、差別の構造についてよく知っている専門家にインタビューして、自分の記事のどこが問題だったのか、聞いてみてはいかがでしょうか。

 

karapaia.com

『LGBTが気持ち悪い人』の感覚―「理解」と「罪」の認識のズレ


withnews.jp

LGBTに対する差別感覚がある人へのインタビュー記事。内容としては、「差別をする人って、どんなに悪い人かと思ってたら、実は人懐っこい笑顔の、いい人でした」みたいな感じ。まぁ、著者にとっては目新しかったのかもしれないが、LGBTを始め、被差別マイノリティの人たちにとっては、特に目新しいものではないだろう。

なぜなら、差別される側の人にとっては、「普通のいい人」が差別的な発言をする場面に遭遇することは、あるあるな話だからだ。むしろ、特に関心を持っていなかったり、嫌なやつだと思っている人よりも、好感を持っていた相手が差別的な発言をした時のほうが、不意打ちを食らった時のように、ダメージが大きかったりする。それは時に、大好きな親や友人、尊敬する先生や上司、パートナーだったりする時もある。差別されるということは、そういう経験を度々するということだ。

ここで書かれているのは、「凡庸な悪」とでも言うような、特に珍しくもない、よくいる差別的な感覚の人だ。著者は最後に「『Bさんと会って、話して、よかったな』と思ったのは、たしかです。」と締めくくっているが、「はぁ、そうですか。よかったですね」という感じである。

 

しかし、この記事の内容は、著者の意図とは違った点で、「LGBTが気持ち悪い人は、どういう人なのか」ということを、浮き彫りにしていると思う。

読んでいて、まず私が最初に違和感を感じたのは、インタビュイーのBさんが語る、この部分だ。

 「例えばゲイの方について。僕は女性しか好きになったことがないので、男を好きになるというのがどうしても想像できなくて。『だって自分と同じ体をしているんだよ? それで興奮するの?』と」

 「いや、頭ではわかっているんです。『同性を好きになる人がいるんだ』と頭では理解していても、心がついていけないんです。そういう衝動って、本能的なものじゃないですか。だから本能的に拒否してしまうんですよね」

 「いや、そこ、理解しなくても良くね?」と思った。私はBさんと同じく、シスジェンダーかつヘテロセクシャルで、LGBTの問題についてはマジョリティ、つまり差別する側の人間だ。私自身、同性に恋愛感情を抱く感覚は理解できない。私の同性愛者に対する理解というのは、「私が同性に恋愛的な面で惹かれないように、同性愛者の人は、異性に惹かれないのだろう」というものである。

ゲイの人について、同性を好きになる感覚まで理解できなくても、別にいいのに。ゲイの人だって、異性を好きになる感覚までは、理解できないと思うよ。

 

どうにも、差別感情が強いタイプの人は、このBさんのように「理解するところはそこじゃない」というケースや、「セクハラやめろ」と言われて「性欲なくせって言うのか!」と言い出す男性のような「そこまで否定されていない」というケース、あとは、同性愛者の人に「どっちが女役?」と訪ねたりといった、踏み込むべきではないところにまで踏み込んでしまい、相手を適度に放っておくということができないケースが多い気がする。

ここまで考えて、私は、『しんどい母から逃げる!! いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった(田房永子・著)』という、虐待する親に苦しめられている人に向けた本の中にある、この場面が思い浮かんだ。

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多くの場合、LGBTの人たちを始め、差別を受けている人たちの求める「理解」とは、4コマ目までのようなものである。対して、Bさんのような人は、最後の5コマ目のような「理解」を求められていると、勘違いしているのではないだろうか。だから、差別を訴える人たちに対して、「非寛容で被害者意識が強い」「ポリコレ棒で殴られる」というような暴力性を、勝手に感じてしまっているのではないだろうか。

差別感情が強い人の『理解』のポイントがズレてるのは、自分と他人の区別がつかない人の感覚と、とてもよく似ていると思う。相手に、自分と同じ感覚を持つことを要求されていると勘違いするのは、つまり、自分が、自分と同じ感覚を持っていない相手を受け入れられないことの裏返しなのだ。

 

そういえば、「優しくする」ことと「差別をしない」ことを混同している人も、沢山いる。相手と個人的な関係になることと、マイノリティもマジョリティと同等の権利が保証されるべきだと考えることは、別のことだ。

女性に対して性的な興味がないゲイやアセクシャルの人が、女性の権利向上に賛成したり、知り合いに身体障害者がいない人が、車椅子ユーザーも健常者と同じように公共交通機関を利用できるようになるべきだと考えたり、特に韓国文化に興味のない人が、在日コリアンに対する差別に反対したりすることは、何ら矛盾しない。

マジョリティの人が「友達になろう」「みんな仲良く、一緒に楽しく話せるようになるといいね」と、ある種ロマンチックなことを考えているのに対して、マイノリティのほうでは「別にあなたと個人的に仲良くしたいわけじゃなくて、ただ加害をやめてほしいだけ」と、冷めた感覚を持っているのは、よくあることだ。

 

さて、私自身はどうなのかというと、子供の頃は、私も無邪気に同性愛差別をしていた。男同士でいちゃついてるのは「おかしい」し「笑える」ことなんだと思ってた。なぜそう思っていたのかというと、やはりテレビの影響が大きかったと思う。男同士でいちゃつくのは「おかしい」し「笑える」ことだと、テレビがメッセージを発していた。

これこそが、まさに「保毛尾田保毛男」がダメな理由だ。まだ何もわからない子供に、差別意識を植え付けてしまう。だから、もう大人になった私は、メディアで流される「保毛尾田保毛男」的なものに反対する。それが、大人としての責任だと思うからだ。

 

私はかつて、『頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること』というブログ記事を書いたことがあるが、「いい人になりたい」という願望も、それと同じことが言えると思う。つまり、本当にいい人になりたければ、自分が後生大事に持っている「自分のことを、いい人だと思っていたい」という願望を捨てる必要があるのだ。

 「後になって『あの時傷ついた人に気付けなかったあなたは罪人です』と言われると、『うち実家の花畑はキレイだなあ』と思っていたら、いきなり戦闘ヘリが飛んできて機銃掃射で荒らされる、みたいな気持ちになるんですよ」

「差別を指摘されると、『お前は罪人だ』と言われているようで、ムカつく」ということは、つまり、自分は実のところ、「相手の傷つきよりも、自分の『いい人でいたい』という願望のほうが大事だ」ということに他ならない。Bさんは「罪人」になることをとても恐れているようだが、自分のうちに偏見があることそのものより、そういう態度こそが一番罪深いのだと思う。

 

「ポリコレ棒で殴られる」というが、差別されている人は、頻繁に「差別棒」や「偏見棒」で殴られている。「社会的に葬られる」と言うが、LGBTの人たちは、それこそ、周囲にゲイだということが知られると、仕事を失い、家族にも理解されず、実際に社会的に葬られてきた。LGBTの自殺・自殺未遂率は、そうでない人に比べて高いことを示すデータは沢山ある。それに比べれば、この人の言っていることの、なんと甘ったるいことか。

花畑の例えで言うなら、現実に起こっていたことは、「他人の花畑を荒らしていて、ずっとお咎めなしだったのが、ある時から『それはダメだ』と言われた」みたいなものだ。そこ「うち実家の花畑」じゃなかったんですよ、と。

この人が怒りを向ける矛先は、あなたに対して『それはダメだ』と言うLGBTの人たちではなく、子供の頃、「あそこの花畑は好きにしてもいい花畑だ」と、間違ったことを教えた大人たちだろう。

そして、私たちはもう、教えてもらえるのが当たり前の、責任を負わなくて済む子供ではなく、大人なのだ。もうとっくに、次世代に対して責任がある立場になっている。たとえ自分が虐待されて育ったとしても、子供を虐待してはいけないように、偏見を植えつけられて育ったからといって、感覚を更新する努力を放棄して、差別をし続けて良い理由にはならないのだ。

 

本来、子供が他人の花畑を荒らしていたら、大人は「それはダメなんだよ」と教えなければならない。Bさんがすべきことは、「保毛尾田保毛男」で大笑いしていた中学生の頃の自分に、大人になった自分が「それはダメなんだよ」と教えることだ。

どういうふうに言えば、自分の中の中学生は納得してくれるのか。それは本来、LGBTの人に求めることではなく、Bさん自身が自分で考えなければならない。大人になるということは、自分のケアを自分でするということなのだから。幸い、ネットが発達した現代において、LGBTを理解するための情報を集めるのに困ることはない。

 

過ちて改めざる 是を過ちという ―孔子論語)―

 

【追記】

続きを書きました。

『LGBTが気持ち悪い人の本音』はなぜ炎上したのか―加害者側の理屈を発信するということ - 宇野ゆうかの備忘録


私が作った夕飯をぶちまけたくなった時の話

togetter.com

これについて、ブコメ

パートナーがご飯作ってるとわかっていながら連絡を怠るのは、飲食店に予約入れておいてキャンセルの連絡入れないのと同じ。この場合、食べ物を無駄にしているのは、連絡を怠ったほう。

と言ったところ、

id:mil10 id:yuhka-uno 家庭の場合、冷蔵庫使いませんか?私ならラップして冷蔵庫にいれますが。飲食店と違ってね。あとぶちまける必要は無いですよね。。。。

id:mil10さんからこんなidコールを頂いたので、返答を書いておこうと思うのですが、その前に、過去、私が作った夕飯をぶちまけようかと思った時のことを書こうと思います。先に言っておきますが、長いです。

 

私が育った家庭は、両親共働きだったので、父と母が夕飯を作っていました。たまにどちらかが仕事で夕飯を作れない時は、私が代わりに夕飯を作りました。私は長子なので、弟たちの面倒を見る役割になっていたのです。
我が家のルールでは、ご飯作った人が「ご飯できたよー」と言ったら、子供たちは皿を用意しておかずを盛り付けて茶碗にご飯を盛って配膳をしなければならない。その間、ご飯作った人は調理器具を洗って片付けることになっています。これ、子供たち、父の場合はすぐやるけど、母の場合はすぐやらないんですね。父のほうが怒ると怖いから。で、姉の私の場合だと、弟たちはもっとやらないわけです。姉ちゃんは一番怖くないからです。

ある時、父の仕事が忙しくて、しばらく姉ちゃんにご飯作り代わってもらわないといけない、という事態が発生しました。私は了承して、がんばってご飯を作っていたわけですが、弟たちが全く手伝わないわけです。これは、姉ちゃんは怖くないからナメていることだけが原因ではありません。特に母は、普段から私と弟との扱いに差を付け、私には家事をさせるが弟には全く覚えさせないということをしていたので、弟たちには、家庭運営に対する責任感というものが全く育っていなかったのです。だから、「お父さん仕事忙しいんだし、ちゃんとやらないと」と思っているのは私だけで、弟たちは全くそういう意識がないのですね。
で、弟たちは、私が「ご飯できたよー」と言っても、我が家の配膳ルールを守る気配が全くない。この時、弟たちは中学生か高校生です。幼児ではないのです。こういう時、弟たちに対して、きつく怒ると逆ギレするということはわかっていたので、優しく「もうご飯やから、用意してねー」と言うわけですが、私は内心、はらわた煮えくり返っていました。「いつになったら用意してくれるんだろうなー」と思ってそのまま見ていたら、私が作り終わったのが8時で、そのまま10時になっていたりしました。

こういうことが10回くらい続いて、10回目でとうとう私はブチ切れて、「もう嫌や!もう二度と作らへん!」と言いました。その時はたまたま母がいた時だったのですが、なんと、母は、まず私のところへ来て、「あんなー、あんた、ちょっとは協力してくれたってええんちゃう?お父さんもお母さんも働いてんねんでー」と言ったのです。私は当然、「なんで私が言われなあかんの!私は10回サボらずにちゃんとご飯作った!あいつらは10回ともサボってんねんで!」と言いました。それでやっと、母は弟のところへ行って、弟に手伝うように言ったのです。

弟がこういう態度を取る度、私は何度も、作った料理をフライパンごとベランダの外へぶちまけたい衝動にかられました。なんでこんなやつらのために、晩飯を作らないといけないんだ?と。だから私は、あの夕飯を台所のシンクにぶちまけた妻に対して「食べ物を粗末にするな」と言う人たちには、「所詮、夕飯をぶちまけたい衝動にかられたことのない人間が、知ったような口をきくな」と思ってしまうわけです。

あと、当時はまだ未成年だったので、夕飯に間に合わないほど帰りが遅くなるということはなかったのですが、もし父が夕飯当番だった日に、外で食べるのに連絡を怠るなどということをしたら、後でめっちゃ不機嫌になった父に怒られるということはわかりきっているので、怖くてできないですね。ということは、要するに、相手が妻だからナメてるんだと思います。当時の私の弟たちと一緒ですね。

 

Togetterエントリのほうでは、妻の行為について「感情的」というコメントがちらほらついていますね。当時の私が感情的だったのかというと、まぁ感情的になっていたのかもしれませんが、対して、母や弟たちは「冷静」だったのでしょうか。私は、当時の彼らは、単純に、ものすごく「鈍感」だったのだと思います。

「鈍感さ」と「冷静さ」を混同してはいけません。感情的な人と鈍感な人とでは、感情的な人のほうが目立つので、ついついそちらに口出ししたくなってしまうのかもしれませんが、「鈍感さ」というのはかなり厄介なものです。他人を踏みつけにしているのに、それに全く気づいていない。あまつさえ、本人は自分のことを「冷静で理性的」だなんて勘違いをしていることすらあるのです。

 

さて、id:mil10さんからの問いかけについてですが、私の考えとしては、「ぶちまける必要、ある時はあるんじゃないですか?」です。元記事の夫婦の事情は知りません。ですが、一般に「ぶちまける必要はあるのか」という問に対しての答えは、「ある時は、ある」です。
まぁ一度や二度なら、ラップして冷蔵庫に入れておきますよね。しかし、それが何度も続いたらどうでしょう。いくら「連絡して」と言っても、相手が何度も怠る場合は、口で言う以外の方法を取る必要がありますよね。つまり「可視化」です。鈍感な人は、ああでもしないと、永遠に、自分のせいで食材のロスが発生しているということや、料理担当者が本当にうんざりしているということに、気づかないこともあるでしょう。
あと、疑問なのですが、冷蔵庫にしまっておいた食事は、その後、誰が食べるのでしょうか。夫ならまだマシと言えるかもしれませんが、「俺はもういらないから、食べておいて」なんてことになったりしないでしょうか。それが有効だと思っている人は、例えば、あなたが誰かと一緒に食事に行ったとして、その人が明らかに食べきれない量の食事を注文して、結局食べられなくて、「残すのもったいないから、あなた、食べてよ」と言われた時、どういう気分になるかを想像してみて下さい。妻は夫の残飯処理係ではないのです。

こういう、食べ物を粗末にしているのは自分自身なのに、残飯処理を他の人にやってもらっているので、自分にはその意識がない人について、今回のケースとはまた別の形ですが、過去にも書いたことがあります。

d.hatena.ne.jp

 

ブコメにも書きましたが、パートナーがご飯作ってるとわかっていながら連絡を怠るのは、飲食店に予約入れておいてキャンセルの連絡入れないのと同じです。この場合、食べ物を無駄にしているのは、連絡を怠ったほうです。

最近けっこう話題になってますよね。予約入れておいてキャンセル連絡入れない客。あれは、食べ物が無駄になるばかりでなく、作った人の手間を何だと思ってるんだ?という問題でもあります。連絡を怠る夫は、妻の手間なんか何とも思ってない、ということなんです。妻が怒る理由は第一にここだと思います。元のTogetterエントリを見るに、世の中、食べ物を粗末にすることには敏感でも、他人の手間を粗末にすることについては鈍感な人が多いんですね。だからサービス残業ブラック企業が横行するんでしょうか。

まぁ色んな事情で、やむにやまれず連絡できないという時もあるでしょうが、そういうわけでもないのに、ドタキャンしておいて何とも思わないのはいけませんよね。

 

追記

ちなみに、当時、私が弟たちに優しく「もうご飯やから、用意してねー」と言っていた理由は、これと同じです。繰り返しますが、弟たちは当時、中学生か高校生くらいでした。

 

「Let It Go」関西弁ver.「もうええわ」


FROZEN - Let It Go Sing-along | Official Disney HD ...

 

【「アナと雪の女王」より「Let It Go」関西弁ver.「もうええわ」】


今夜の雪山は 足跡も見えへん

孤独の王国 女王はうちや

心に嵐が吹き荒れる 抑えてはおけへんかった

 

知られたらあかんで いつでもええ子でいて

隠し切るなんて でけへん!

 

もうな、ええわ もう我慢でけへん

もうな、ええねん ドア閉めて出て行こ

何を言われても 気にせえへん

寒さには慣れとるし

 

振り返って見ればちっちゃいことや

恐れはもううちを捕えられへん

 

自分の力を試してみる時や

縛るもんあらへん 何も!

 

もうな、ええわ 空と風と一緒やで

もうな、ええねん 泣くことあらへん

うちはここにおる 吹き荒れろ

 

力が地面にブワーッってなってな

魂がクルクルって舞い上がるんや

思いがビューンって結晶になるで

二度と戻らへん 過去は過去や!

 

もうな、ええわ 夜明けの日が昇る

もうな、ええねん ええ子はもうおらへん

うちはここにおる 光浴びて!

寒さには慣れとるし

 

※関西弁訳:宇野ゆうか

 

そこそこ元の歌詞に忠実に訳してみたw

 

〔追記〕

歌って頂いたようです。

nana - もうええわ(let it go ~ありのままで~ 関西弁ver.) sung by ラムセス 実家のためオク下声抑え目

Let It Goを関西弁で歌ってみた - melocy(メロシー)